週刊誌記者が見た、東大を訴えた青年の素顔
松岡瑛理(ライター、記者)
【まとめ】
・新型コロナに感染し必修授業を受けられず留年となり東京大学を訴えた杉浦蒼大さんを取材。
・杉浦さんの魅力はその「底知れぬ生命力」。
・裁判は杉浦さんにとって最終手段。提訴までの間、様々な手段で大学との対話を試みていた。
はじめまして、ライターの松岡と申します。現在、週刊誌の記者として、主に教育方面の記事を執筆しています。
『週刊金曜日』3月3日号で、東京大学理科Ⅲ類の学生・杉浦蒼大さんが新型コロナウイルスに感染し、必修授業が受けられず留年となったことを不服とし、東京大学を訴えた一件について取材記事を寄稿しました。杉浦さんについてなぜ記事を書こうと思ったのか、取材を通して見えてきた本人の素顔など、誌面には収まり切らなかったことをお伝えしたいと筆を執りました。
私が初めて杉浦さんの名前を知ったのは2022年の夏のこと。彼の出身校である灘高校の担任であった片田孫朝日さんがSNSの投稿で、8月4日に杉浦さんが文部科学省で開いた記者会見や、その後に東大が大学の公式ホームページにアップした非難文書について言及した投稿を見かけたことがきっかけでした。私は記者になる前、大学院で社会学を専攻しており、同分野の研究者でもある片田さんとは以前から知り合いの関係にありました。
全国の大学で、コロナに感染した学生が定期試験を受けられずに単位不認定となってしまうケースがあること、東大の学生らがその件で問題提起をしていることは、ニュースなどを通じてうっすらと見聞きしていました。渦中にいる人物が名前と顔を出して会見に臨んでいること、それが知人の教え子であったという事実に大きな衝撃を受けたことを覚えています。いち学生が所属大学を訴えるのに多大な勇気を要することは想像に難くなく、そのリスクを負ってまで裁判に及んだ杉浦さんとはどのような人物なのか、強い興味を持つようになりました。
杉浦さんのインターン先である医療ガバナンス研究所の上昌広先生は、別の取材で何度かお話を伺ったことがありました。上先生からの案内で、医療ガバナンス学会のシンポジウムに杉浦さんが登壇することを知り、同年秋、本人と対面を果たすことができました。
強い気持ちで起こした裁判だが、実際には「留年措置が存在するかどうか」といった形式論に時間が費やされ、本筋から話が逸れてしまっている。これまで自分が何と闘ってきたのかがわからなくなってしまう時期もあったが、立ち直ることができたのは、周りにいる人達に支えてもらったおかげ。責任(レスポンシビリティ)の語源は応答し続けること。皆の前で応答し続けることが自分に果たせる最大限の役割だと思っているーー。東大が非難文書を出した後、SNS上では彼に対して様々な見方がなされましたが、一つひとつ言葉を選びながら話す杉浦さんは、いたって真摯な印象の男の子でした。
世間から受けている誤解を払拭する意味も込め、杉浦さんの今の思いを世に伝えたいと願う一方、普段書いている媒体で記事を出せるかどうか、案ずる気持ちもありました。週刊誌では、編集部に属する記者たちや外部ライター達が毎週4~5本ほどの企画を持ち寄り、企画会議でそれらをふるいにかけます。それを毎週繰り返していると、どのような記事が通りやすく、どのような企画が落ちやすいか、おおよその察しがつけられるようになってきます。
特に「同じ会社内で誰かが既に記事にしている」「初発の報道が出てから時間が経っている」企画は落とされる傾向が強く、今回は両者の条件を満たしていることが心がかりでした。
そんな時、改めて思い返したのが、以前勤めていた週刊誌で上司から口酸っぱく言われていた言葉です。週刊誌では、数日から1週間という短い期間の中で、アポ取り~取材~記事化~校了までを手際良くこなしていくことが求められます。仮に取材を申し込んでも、必ずOKがもらえるとは限ませんが、かといって手ぶらで帰ることもできません。「何か行動を起こす時には、ダメだった場合のことを常に考えろ」と叩き込まれていました。
そのため、今回も企画が落とされる可能性を視野に入れながら、次の持ち込み先はここ、それでもダメならこの人に相談しよう……とあらかじめプランを立てておきました。
最初に提案を行った編集部では、先に挙げた二点の理由から、結局企画は通過しませんでした。しかし、それも想定していたこと。不通過を知った数分後には『週刊金曜日』編集部に電話を入れ、翌週、無事に採用が決まりました。
記事にできると決まった後は「どこに焦点を当てて伝えたいか」を改めて考えました。
当初から意識していたのは「記者会見だけでは見えてこない杉浦さんの素顔を伝えたい」ということです。
今回の裁判について、既報記事の多くは、杉浦さんの記者会見の発言がベースになっていました。
会見や発表にもとづく記事を否定はしませんが、公的な場で人は往々にして「おすまし」をするものです。また、会見の情報に頼ると、結果的に記事の内容が他メディアと似たり寄ったりになってしまうこともあります。実際、会見で自分が投げかけた質問に対し杉浦さんが答えた「抗議したら制裁受けるのはおかしい」という一言を、あるWebメディアがそのまま記事の見出しに使っていたことには驚きました。ジャーナリストであれば、ぜひ自分が持っている問題意識を取材対象にぶつけて、答えを引き出す心意気で会見に挑んでほしいと思います。
そもそも、記者会見を主催する記者クラブにも属していない(場合によっては会見にも参加させてもらえない)週刊誌記者なのだから、どうせやるなら、違う角度から攻めたい。そう考え、杉浦さん本人に5~6回ほど独自にお話を聞き、さらに灘高校時代の担任、同級生、部活の顧問、上先生など、彼にとって身近な人々から情報を収集し、杉浦さんの普段の姿を掘り下げていきました。
高校時代の彼を知るある先生は、「口数は少なく、勉強がよくできる子という印象。自ら記者会見を起こすタイプとは思っていなかったので驚いた」と語りました。
灘校出身で、高校時代から医学生の学生団体に所属。現役で東大理Ⅲに合格――。
プロフィールを並べると、実際、杉浦さんは何とも「勝ち組」な人生を歩んできたように見えます。私自身、取材という形で接触することがなければ、「自分とは無縁のキラキラした世界で生きてきた子がいるな」程度に切り離して見ていたかもしれません。
しかし、本人と交流を重ねる中で、そのような経歴は、彼の一面に過ぎないと感じるようになりました。私個人が感じた、肩書からは伺い知れない杉浦さんの魅力。それは簡単に書けば「底知れぬ生命力」にあります。
例えば、先に書いたシンポジウムで本人と名刺交換を行った翌日、杉浦さんからは「御礼」と題するメールが届きました。そこには、自身の講演に足を運んでもらったことへの感謝とともに、「昨日はわずかな時間しかお話しできませんでしたが、またお会いしてお話ししたい」旨が記載されていました。
仕事柄、日々多くの人とお会いする機会がありますが、その多くは名刺交換をしただけで終わります。自分から連絡を入れてきて、さらに会う提案まで持ちかけるとは、グイグイ来る子だなと感じましたが、一方ではその行動力に好印象も持ちました。
また、何度か取材を重ねる中で、裁判とは杉浦さんにとってあくまで最終手段であり、提訴に至るまでの間、様々な手段を使って大学との対話を試みていたことも知りました。自身も出席した東大の入学式辞で、東大の総長が大学の将来を切り拓くキーワードに「対話」を挙げていたことから、自ら総長に直訴する手紙を書いたというエピソードには驚かされました。
大学のホームページ上で非難の文書を出されたり、裁判でも超がつくほどの塩対応を受けたり……。東大からさんざん足蹴にされながら、踏まれても踏まれても強く立ち上がっていく。その姿はまるでぺんぺん草のようで、それまで自分が東大生に抱いていた「スマート」なイメージを良い意味で裏切るものでした。
色白・細身で、一見華奢な印象を受ける杉浦さんですが、一体どこからこんな底力が湧いてくるのか。交流を重ねるほどそのギャップに引き込まれ、結局、本業と並行しながら約4カ月を杉浦さんへの取材に費やしました。
先日、本人とご飯に行く機会があったので、「自分は生命力があるって思わない?」と記者稼業でいうところの「直当て」をしてみましたが、思いもよらぬ表情で「えっ、それってどういうことですか?」と聞き返されてしまいました。
ひょっとしたら、杉浦さんは今回の訴訟を通じて、これまで気づいていなかった自分自身の新たな一面と出会い直している最中なのかもしれません。逆境の中で日々たくましくなっていく杉浦さんから、今もなお、目を離すことができずにいます。
(この記事は、MERICby医療ガバナンス学会 Vol.23061 週刊誌記者が見た、東大を訴えた青年の素顔 2023年4月5日 の転載です)
トップ写真:杉浦蒼大氏 井上清成弁護士の事務所にて)筆者提供
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この記事を書いた人
松岡瑛理ライター、記者
一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位習得満期退学。杉浦さんの取材を始めた当時は『週刊朝日』記者でしたが、23年5月で雑誌が休刊。放逐後、約1年の流浪生活を経て、24年6月から『週刊SPA!』編集部へ。今年に入ってからは、東大学費値上げ問題についても継続的に取材しています。