平成10年の年賀状①「パリ、レンヌ通りの夏」
【まとめ】
・1997年の夏、パリ滞在中の家族と過ごす為、NYからコンコルドに乗った。
・空港に迎えに来たリムジンの日本人ドライバーは元自衛隊員でフランス外人部外に所属していた男。
・その青年との出会いは私の人生観、世界観を変えたような気がしている。
年頭にあたり皆々様の御健勝をお祈り申し上げます。
昨年のご報告を一、二、申し上げます。春。子供二人の受験に追われました。普段はさぼりがちな父親業のツケをダブル・ヘッダーで一挙に払いました。
夏、その一。髪を、昔「慎太郎刈り」といった、あの形にしました。お蔭で最近は良く床屋に行きます。
夏、その二。初めて小説を出版しました。
夏、その三。出張先のニューヨークからパリへ、コンコルドに乗って行きました。天井の低くなったところに頭がぶつかった時、ゴツンと音がしました。まわりの人は「あ、音速を超えた音だ!」と思ったかもしれません。二十三年振りの「薫る巴里」です。
秋。広島へ帰り、それから父と一緒に九州へ行きました。生まれて四度目のゴルフもしました。
冬。浪人時代の寮の同窓会がありました。会場への途々「十九年にもなるのか」と感慨に耽っていたのですが、実は二十九年振りでした。私の四回目の「牛の年」は目眩く間に過ぎてしまったようです。
何卒本年も宜しくお導き下さいますようお願い申し上げます。
ニューヨークのJFK空港にはコンコルドのための特別のチェックインカウンターがあった。エールフランスだった。そこには2名の先客があって、私よりもまえに中年の男性と女性がチェックインの手続き中だった。見たところご夫婦のようだ。後ろ姿だけだったが、エールフランスのコンコルド用の受付カウンターという特別の場所にふさわしく、上品で優美な、エレガントな姿がエドワード・ホッパーの描いた絵からそのまま抜け出してきたような雰囲気を漂わせている二人連れだった。自分の番になった私は、手続きを終えて歩み去る二人を見送るかたちになった。急ぎ足で遠ざかってゆく二人はなにやら会話を交わしている様子だ。その姿が、エールフランスの広告用のポスターでなければ映像にでもふさわしいような、香りが立ちのぼるような素敵な光景だった。私もコンコルドに乗るので少し高揚していたのかもしれない。連れの女性がなく独りきりなのが少し残念な気がした。コンコルドの座席は二人が並んで座るのだ。1997年の真夏のことだった。
私にはニューヨークでの仕事があり、終わり次第コンコルドに乗ってパリに向かうことにしていた。パリにいる家族がシャルルドゴール空港まで迎えに来るという。ニューヨークを出発した時刻はおぼえていないが、確かにパリ時間の夕方に着いた。頼んでいた大型のリムジンに4人が乗ると、車は黄昏どきのパリの街を疾走し、あっという間にレンヌ通りのアパルトマンに着いた。
家族はだいぶ以前からパリに滞在していた。レンヌ通りに面したアパルトマンの3階を3週間借り切っての暮らしがそれらしくなっているようだった。大学生の長男はレンヌ駅からのメトロを自在に乗りこなしてパリじゅうを歩き回っていた。高校生の次男はパリが合わなかったのか少しホームシック気味の様子。
アパルトマンのリビングで家族そろってトランプ遊びをしていたときのこと、突然長男が「うわあっ」と大声をあげた。「なんなんだっ」という叫び声が続く。どうしたのかと皆で長男の顔を覗きこむと、彼が座ったまま左手を後ろに回している。触るつもりもなく左手を伸ばしたら、椅子の背もたれの後ろ側に妙な手触りのなにかがあったようだ。なんだかわからないそれに手が触れ、びっくりして声を上げた。椅子の後ろに回ってみてみれば、はみ出していたのは果物などを箱に入れるときに詰めものに使う、ごく薄い木を2ミリ幅くらいに細長く切って丸めた塊で、それがソファ背もたれの裏側の布地の破れ目からたくさんはみだしていたのだ。木毛と呼ばれている詰め物材だ。ソファの背もたれの裏側がそんなことになっているなんて誰も考えたりしない。長男の大声は瞬間的にでてしまったのだった。皆で大笑いをし、なにごともなかったようにトランプを続けた。パリの貸アパルトマンの家具はときとしてこわれていることがあるということだ。
そういえば、このアパルトマンには冷房がなかった。パリでは普通のことらしいが、日本でもニューヨークでもいつも快適に暮らしている私には、ほんのちょっとの高い室温も耐えがたく感じられる。
それに浴室のお湯が情けないほどの水量でしか出ない。古いアパルトマンだったのだろう。家にあればゆったり入る風呂も旅にあればこそ臍までの湯につかって済ます。これもまた旅情ということかとしみじみと味わうしかない。
レンヌ通りに面したアパルトマンの近くにはボンマルシェという古い百貨店があって、家族はそこでいろいろな買い物をしていた。そのうちの一つ、ウサギ肉の入ったポテトサラダには大いに閉口した。私はポテトサラダは大好物なのだが、入っているハムがウサギ肉で作られているなどとは想像するはずもない。日本人なのだ、ウサギ肉には親しみがない。味が強過ぎるのだ。
パリではいろいろなところへ出かけた。もちろんルーブルにもでかけ、モネのための楕円形の大きな地下美術館へも、鉄道の駅が改装されて美術館になったというオルセー美術館にも行った。今調べてみると1986年に開館したらしい。たくさんの観光客に交じって、同じように込んだ食堂で昼を済ませた。
あの、なんとも変わったデザインのポンピドー美術館へも出かけた。
毎日出歩いていた。その後にパリに定期的に出張に来ることになってからも、パリの街中を歩く習慣は続いた。歩いているとどういうわけか何度もレパブリック広場に出くわす。ピカソ美術館の近くのカフェーのことは以前書いたことがある。二人の青年がテーブルに並んで座って白ワインを楽しんでいた。今思えば、二人は恋人同士だったのかもしれない。少しも違和感がなかった。
私には5日間だけのパリ。家族をパリに残して先に帰国しなくてはならなかった。仕事があったのだ。いつもそうなのだ。私には夏休みは存在せず、夏休みの子どもたちとの時間を過ごすために仕事に合間をつくって一定期間を共に過ごす。そうしたことがいつもの習いになっていた。パリも、私のニューヨークでの仕事の都合でたまたまコンコルドに乗ればひとっ飛びだったというに過ぎない。
家族がニューヨークに来て私はそれを迎えることにしなかったのは、たぶん私がコンコルドに乗ってみたかったからなのだろう。友人のアメリカ人弁護士がポルシェの顧問で、毎月のようにニューヨークからコンコルドに乗って往復していると聞いていたので、コンコルドに乗ってみることに興味があったのだ。あるいは家族が、パリでアパルトマンなるものを借りて長い期間の滞在をしてみたい、ニューヨークはいつでも行けるのだから次の機会でいいと望んだのだったかもしれない。
帰国の前日、空港までのリムジンを頼むと、電話での案内人に「日本語のできるドライバーが良いか、できなくてもかまわないか」と訊かれた。「どちらでもいいが、値段が違うのか」とたずねると、同じだという。それならと、日本語のできるドライバーを頼んだら、30歳くらいの、少し長めの髪をした日本人青年がやってきた。
私は、その青年がどんな人生の流れの途中で、いまこうしてパリで旅行者相手のリムジンのドライバーをしているのか興味にかられた。私は47歳で、その夏の数か月前に初めての小説を出版してもらったばかりだった。
「運転手さん、こうやってパリで旅行者相手の運転手っていう商売をしているのは、そもそもなにか他の目的があってパリにお見えになっていたからなんですか」
というような私の質問でやりとりは始まったと思う。私は、絵の勉強にパリに来ていましてね、それがパリジェンヌと仲良しになって少しは金を稼ごうということになりまして、といった問答を漠然と予想していた。
そのうちに、日本ではなにをしていたのかという話になった。
「自衛隊にいたんですよ。」
と、少し思いがけない答えだった。パリと元自衛官とはあまりありそうでない取り合わせだと感じたのだ。
「へえ、そうですか。でも、自衛隊っていうのも素晴らしい仕事だと思うんですが、どうしてパリに来ることになったんですか。自衛隊、辞めちゃったんでしょう」
私が問うと、青年はこともなげに、
「自衛隊にいてもつまらなくってね。それでフランスの外人部隊に入ったんです。」
と前を向いてハンドルを握ったまま後部座席に座っている私に向けて、少し大きめの声で答えた。
私は、思わず、
「えっ、外人部隊。あの、フランスの外人部隊。それって危ないんじゃないですか」
驚きを隠さず、質問を重ねた。
「どちらにいらしたんですか」
「ソマリアに」
青年は簡潔に答えてくれた。
「ソマリア!そいつは世界で最も危険な場所の一つなんじゃないですか」
その質問への青年の答えに、私は心底感銘を受けた。
「なにを言ってるんですか。危ないからいいんじゃないですか」
こともなげだ。
「えーっ、でも外人部隊っていうのは実際に戦争をする前線にいるんでしょう。それもソマリア。弾がビュンビュン飛んでくるんでしょう?」
「だから外人部隊に入ったんですよ。自衛隊にいても実弾を使って撃ち合うようなことはできないってわかったんでね。私は実戦の場に身をさらしたかったんです。」
「そうなんですか」
と私は一瞬絶句した。
「弾の飛んでくるとこねえ。そうか、あなたにとっては危ないからいいんですよね。外人部隊なら、そりゃ願ったりかなったりなんでしょうが、でもねえ。」
平和な日本に生まれ育った私には、戦争というものは、仕方なしに出征し戦うものであって、好んで戦場などに赴く人がいるなどと想像することもできなかった。
「でも、こうしてパリでハンドルを握ってらっしゃるってことは無事帰って来られたっていうことだ。ご無事で良かったですね」
と感想を漏らすのが精いっぱいだった。
青年は私の言葉が不満だったのか、
「ここ、見てみてください」
と、運転中のハンドルから片手を放すと自分の髪をかき分けて私に示した。
「ほら、ここ、ヤケドみたいになっているでしょう。ええ、ここです」
たしかに、長い髪を手で分けた間にヤケドでもしたような、横1センチ足らず、縦3センチくらいの傷跡がはっきりと確認できた。
「これ、ここ、弾玉がかすったときにできた痕なんですよ」
私はまたもや驚いた。そして、素っ頓狂な声で、
「えーっ、それって、あと1センチずれていたら死んでいたっていうことじゃないですか。」
「そうですよ」
こともなげにつぶやくと、青年さんは髪を元にもどし、両手でハンドルを握りなおした。
「いやー、驚いたなあ。私は弁護士をして戦争みたいなことをしているけれど、実際の戦場とはなんの縁もない、安全な仕事です。それを、あなたは、自ら望んで鉄砲の弾が飛び交っているところに飛び込んでいったんですね。
私はしないなあ。いや、恐ろしくてできない、できっこないなあ。フランスの外人部隊ですか。私にはどうにも不思議な話だなあ。」
「そうですか。私は実弾が飛び交うところへ行きたかっただけです。」
「それが、どうにも理解できないんですよ。いや、ごめんなさい。失礼なことを申し上げるつもりはないんです。でも、生まれてから50年近くになるんですが、戦場に行っていましたという方にお会いするのは初めてで。
いや、そうじゃないな。友人のアメリカ人の弁護士、テキサスの人ですけど、ベトナム戦争で戦ったと言っていたのがいましたね。でも、その男はなにか危ない目に遭ったとは聞かなかったなあ。
第一、彼は戦場に行きたかったなんてひとことも言っていなかったしなあ」
この運転手さんとのやり取りは強い印象を私に残した。広い世間には、自ら望んで鉄砲の弾のビュンビュン飛び交う場所に身を置きたいという欲望に駆られ、それを抑えることができない人間がいるのだ。誰もが平和主義者だと頭から決めてかかっては判断を間違えてしまうのかもしれないな、と感じ入ったのだ。現に、20年以上経った今でも、運転手さんの少し長い髪、それを分けて示してくれた手つき、ヤケドのようになって光っている頭皮がくっきりと記憶に残っている。
大げさにいうと、その青年との出会いは私の人生観、世界観を変えたような気がしているのだ。広い世の中には、好んで銃弾の飛び交う場所に身をさらしたい人がいるのだという事実は、私には信じられないことだった。ウクライナへ志願した日本人がいるとニュースで聞いたが、ひょっとしたら彼だったのかもしれない。いま現在も、ウクライナのどこかで、ロシア軍の砲弾が雨あられと降り注ぐ最前線の部隊の指揮を執っているのではないか。そんな気がすることがある。世の中は、まことに広く、人はさまざまという他ない。
(つづく)
トップ写真:ソマリア内戦中、フランス外人部隊の兵士が現地の子供たちにお菓子をあげている様子 1992年12月16日
出典:Photo by Patrick ROBERT/Sygma via Getty Images