団塊の世代の物語10
【まとめ】
・老いを迎え、誕生日を祝うことに疑問を持つ三津野。
・英子との新しい会社設立を機に、人生の新たな章を始める決意をする。
・2人は新会社という新たな舞台で、二人だけの物語を紡ぎ始め
「誕生日おめでとう。」
英子の声が弾んでいる。
「ありがとう。でも、僕は誕生日って祝わないんだ。」
三津野の静かな声が大きな鉄板焼きステーキの部屋にすこしくぐもって響いた。
二人はオークラのさざんかという店の個室にいた。肉を食べ終わったので、ぶ厚い鉄板の反対側にあるソファー席にそろって移動したところだった。
41階の窓からは、東京タワーも見える。ビルの増えた都心では、もう東京タワーはいぜんのような、眩しく輝いているヒロインではない。森ビルが最近建てた愛宕台ヒルズからは見下ろされてしまってすらいる。ただ、夜になると赤や緑の色どりで周囲のビルから浮き上がってくる。そして、自分が東京という世界最大のメガロポリスの花の女王だと周囲に誇示するように、青いサファイヤ色の電飾を点滅させる。
二人は当たり前のようにオークラで会うようになっていた。英子がオークラを気にいっていて、上京するときの定宿にしているからだった。
「あっそうか。もう歳をとるのは止めたっていうことね。悪かったかしら。でも、あなたが産まれた日は私にとっては大切な日よ、お祝いさせて。」
英子が、目のまえのゼブラカルコニという黒地に白いシャープな縞模様の入った大理石製の細長いコーヒーテーブルに両手の指差をそろえて軽く頭を下げた。爪は明るい緑色に塗られ、右の薬指と小指とが白の細い線でチェック柄になっている。左手は薬指だけが同じチェックだ。そして、どちらも親指も薄い緑色のエナメルが施されている。右手の甲には黒っぽくて太い静脈が3本、浮いていた。左手の血管はずっと目立たない。
三津野はそれだけを一瞬のうちに見てとると、
「英子さん、そう言ってくれるのは、ほんとうにとても嬉しい。
でもね、僕にはもうそれだけで十分なんだよ。
だいいち、今日だけ僕のことを大切って思ってくれているわけじゃないだろう。」
「もちろんよ!」
英子がすっと頭をあげる。そのまま三津野の顔を見つめて力強く答えた。
「だけど、でも、それが私があなたの誕生日のお祝いをしちゃあいけないっていうこととなにか関係があるの?
やっぱり、もうたくさん歳をとってるから、っていうこと?」
「違う、違う、違うよ。そんな軽薄なことじゃないよ。
誕生日を祝う、って、その日を特別な日だって思うっていうことだろう。
でも、僕は思うのさ、じゃ、その前日は特別の日じゃなかったの?その翌日は特別の日じゃないの、って。
これ、僕の言っていることって、変?」
「いいえ、わかる、わかります。そのとおりね。」
英子は身体から力を抜くと、ソファの背もたれに上半身をあずけた。小さく息をはく。
「確かに、ね。二人がこうして二人でいることができるっていうのは、どちらも健康で、一定のお金があるから。いえ、お金は私にあればそれでいいけれど、あなたも持っている。」
「ま、サラリーマン社長のなれの果てだから、あなたの百分の一にもならないけどね。でも、暮らしていくにはなんの不自由もない。」
英子が半身を起こして身を乗り出した。目は三津野に注がれたままだ。
「だから、『毎日が特別の日だろう、誕生日だけが特別の日じゃないんじゃないか。だから誕生日だからって祝うのは変だ』っていうあなたの考え、わかる。素敵。
やっぱりあなたは違う!ますます好きになっちゃう。
そうよね、三津野さん。私もあなたのおっしゃるとおりだと思います。
今日から宗旨を変えました。」
そう言うと、英子は後ろを振り返ってウェイターに向かって声をかけた。彼はたったいま、真っ白な生クリームの上にイチゴが点々と載ったケーキを捧げて部屋に入ってきたところだったのだ。
「ありがとう。おろして。でも、蠟燭はいいわ。
お祝いはなし。でも、美味しいオークラのショートケーキはいただくわ。
8人くらいに切って、わたしたちには二つだけをください。」
若いウェイターのまわりには、ドアの向こうに3人ほどのウェイターが控えているのがみえた。先ほどまで腕をふるっていた田中シェフの音頭で「ハッピーバースデー」と声をあげて歌おうと待機しているのだ。
「なるほど、わかりました。」
ウェイターはステンレスの盆を上に支えたまま踵を返すと、音もなくドアから出ていった。
「岩本様はカプチーノですね。」
英子が微笑み返す。
「三津野様にはなにを?」
三津野は大きく身体をソファにあずけると、
「もちろん、カプチーノ!
シナモン・ステッキがあるといいなあ」
と嬉しそうな声をあげた。
「ステッキっていうなんて、よくご存じね」
英子が問うのに、興にのった三津野は、
「もしもステッキ買い込んで、って歌があったろう。
カプチーノの棒切れは、ステッキっていうんだよね」
大木先生と同じ。英子には子どものような二人の大人の男がおかしくてならなかった。
運ばれてきたケーキ二つを前に、英子が生クリームをフォークにとって口に運びながら、三津野に問いかける。
「ねえ、私たちの子どもの名、どうする?」
「え?」
三津野は、おもわず伸ばしたフォークを皿にもどした。
「こどもって?」
「いやね、私たちの会社の名に決まってるじゃない。
あなたは名前を出さないほうがいいかも、って大木先生が言ってたわ。
なにせ、滝野川不動産の三津野っていえば、ビジネスの世界で知らない人はいないからね。
それが、新しい私たちの会社のたとえ監査役でも名前が出てしまうと、滝野川不動産の方々が要らない心配をするから、っていう大木先生のお話だったの。私も、二人の名前をいっしょにくっつけた名前の会社にしようかしらなんて夢見てたんだけど、大木先生に言われちゃうとね。」
「そうか、それで二人の子どもってわけか。」
<そうだな。滝野川の後輩たちは78歳の老人が突然、訳も分からずに弾けてしまったって心配するだろうな。
でも、ここは考えどころだぞ。
いつまで滝野川の三津野でいるのか、そもそも滝野川の三津野でいたいのか>
滝野川不動産に入って50年余、三津野の人生はそこにほとんど全てが埋まっている。
それが事実だった。
今の社長を選んだ会長までは、三津野が実質的に決めてきた。会長として社長を選び、相談役としてその次の社長を選んだ。もちろん社内から、それなりの人望があり、しかも信頼感の持てる人間たちばかりだった。それを依怙贔屓だと呼ぶ陰口を三津野は意に介さなかった。それが本当の信頼、会社を、そのステークホルダーの全てを託するに足ると後継者という自信があった。自分の責任を果たすというのはそういうことだという信念があった。
英子に会うまでは、そう思っていた。
だが、三津野は、いま、新しい人生を、英子との新しい人生を始めようとしている。それも、英子と二人で、これまで快適に浸りきっていた世の中とは別の世の中に積極的にかかわるのだ。滝野川の三津野のしてきたこととはかけ離れたことをしようとしている。
だが、それは三津野が自分で決めたことではなかったのか。
<違う。自分で決めたのではなく、英子が現れて、僕を誘い導いた。花の女王が僕の手を強く引いてくれている>
三津野は、自分でも信じられない高揚感が突き上げてくるのを感じた。
<18歳の自分がいる>
三津野は不思議な感慨に包まれていた。
<生きるのだ!>
若い自分を78歳の自分が叱咤していた。
ソファとコーヒーテーブルの間で、三津野は立ち上がった。
「僕たちの子どもか。
この歳になって子どもかあ。考えもしなかったな。
でも、そうなんだ。僕たちは、子どもを産み、育て、そして世の中に送り出す。
そういうことを二人でするんだね。
英子さん、あなたに言われるとそんな気がするんだ。できそうな気がしてくる。
法人も人だ。それなら、二人の子どもだね、確かに。孫だってできるぞ。
ありがとう、英子さん。
僕は、もう滝野川の三津野ではない。それは僕の人生の一部だし、重要ではあっても、もう過去のことだ。もうどこにも存在していない。僕は、今、この身一つで生きていて、未来を掴むんだ。あなたと二人で、ね。そう、二人の子どもとだったね。
先ずは子どもづくりに大いに励もう。」
三津野は左右をみて、<違う>とでもいうようにはっきりと頭を振り、目の前の英子に焦点を合わせた。そして、英子の目から視線を外さずに皿から白い生クリームを一さじすくい取った。自分の口の中に入れ、そのまま英子を抱き上げるとその唇に自分の唇を重ねた。
甘い生クリームと三津野の唾液の混じった白いねばねばした液体が英子の口のなかを満たす。
英子は三津野の両方の目をのぞき込み、目を閉じ、黙ってそのまま飲みこんだ。そして、目を大きく見開くと力を込めて三津野を抱きしめかえした。
トップ写真)東京タワー(イメージ)