マハティール元首相99歳に 健全ぶりアピール
中村悦二(フリージャーナリスト)
【まとめ】
・2024年7月10日、マレーシアのマハティール元首相が99歳の誕生日を迎えた。
・同首相は「ルックイースト政策」や、対中政策で独自策を打ち出したことで知られている。
・彼は出来る限りマレーシアの前途を見守りたいと念じているだろう。
マレーシアのマハティール・モハマド元首相は2024年7月10日、99歳の誕生日を迎えた。同元首相は今月6日には、ロンドンで行われたイスラム指導者などとの会合に出席し健在ぶりを示した(MalaysiaNow 2024年7月10日付け)。
マレーシアの歩みを簡単に振りかえると、マラヤ連邦は1957年8月31日に英連邦の一員として独立を達成した。 マラヤ連邦は1963年に、シンガポール、サラワク、英領北ボルネオ(その後、サバに改称)と新たな連邦を結成し、マレーシアが成立した(シンガポールは1965年に分離し独立)。
マハティール元首相は1925年、英領マラヤ北部のケダ州アロースターの生まれで、9人兄弟の末っ子。父はインドのケララ州出身のイスラム教徒で、英語学校の校長も務めた。同元首相はマラヤ大医学部卒で医師の資格を持ち、奥さんも同大医学部卒だ。
1970年に『マレー・ジレンマ』(邦訳は、高田理吉訳、井村出版文化社、1983年刊)を出版。この中で、マレー人の遺伝的特性を論じ、勤勉の励行を鼓舞。カンポン(村落)感覚だけで過ごしていると「都市部などの土地の大半は華人系の手に落ちてしまう」と警鐘を鳴らした。この本は発刊後しばらく発禁本扱いにされた。
マハティール元首相の「政治の師」は、新経済政策(ブミプトラ政策、ブミプトラ=土地の子)を始めた同国の2代目首相であるアブドル・ラザクだ。
マハティール氏は1981年7月16日~2003年10月31日、2018年5月10日~2020年2月24日と2度にわたり首相の座にあった。1期目は長期に及んだ。2期目の辞表提出時には、94歳の世界最高齢の首相だった。
1983年11月、当時首相であったマハティール氏に都内で単独会見したことがある。その際、輸入代替産業育成から輸出産業育成に転じた東南アジアにあって、総合商社育成をも推進していたマハティール首相が、「日本が100年で実現したことを10年で実現したい」と言っていたのが印象に残っている。
マハティール氏は首相時代に「ルック・イースト(東方)政策」と称し、日本や韓国の現場を中心に若者を送り込み、モノづくり、国づくりを学ばせた。自身の専攻であった医学を除き、日本の大学の理工系学部に優秀な人材を留学させた。自分の息子、娘も日本に留学させた。
1996年には、当時、世界で一番高い米国のシアーズタワー(シカゴ市)より9メートル高いクアラルンプール・シティ・センター(KLCC)を建設、マハティール首相の「象徴的ビル」といわれたものだ。
1997年のアジア通貨危機時には、新設の行政都市プトラジャヤでの記者会見で、マハティール氏は、米国の投資家ジョージ・ソロス氏を「ルージュ(ROGUE)投資家」と非難した。「ROGUE投資家」は日本語で何というのかと困っていると、通信社の方が「ならず者投資家」と教えてくれた。
その後、マレーシアは自国通貨リンギットの米ドルペッグ制を守り通して、安定的な経済発展に結びつけた。
マハティール氏は、対中政策でも独自策を打ち出した。2018年7月、当時首相だったマハティール氏は、建設費が200億ドル(約2.2兆円)とされた、約700kmの東西海岸を結ぶマレーシア鉄道建設作業に待ったをかけた。この鉄道建設は中国の原油輸入にとって重要なマラッカ海峡と南シナ海を結ぶものだった。ロイター通信によると、マハティール氏の措置は、中国輸出入銀行が費用のほとんどを融資するこの鉄道建設はコスト的に高すぎると見たことによるものだったという。
99歳を超えたマハティール氏の当面の目標は100歳に達することと憶測するが、心臓病などで入院することもある。
マハティール氏はでき得る限り自国の前途を見守りたいと念じているに違いない。
トップ写真:選挙キャンペーンに出席するマハティール元首相
出典:Photo by Annice Lyn/Getty Images