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.国際  投稿日:2024/9/23

「日本人」の顔を持つも「1000%ペルー人」だったフジモリ氏


山崎真二(時事通信社元外信部長)

【まとめ】

・フジモリ氏は出生時からペルーと日本の二重国籍者。

・日本的な価値観や考え方を理解しつつも、自身はペルー人という強い意識。

・日本との特別なきずなを利用した面もある。

 

◇ 二重国籍者という2面性

先ごろ86歳で生涯を終えたペルーのフジモリ元大統領については経済危機と極左テロの脅威から国を救ったとの称賛の一方、憲法停止や国会解散といった強権支配や人権侵害への厳しい批判もある。功罪の両面は多くのメディアが報じているのでここでは、ペルー人でありながら日本人でもあったという2面性からフジモリ政治の特徴を振り返ってみる。

フジモリ氏は出生時からペルーと日本の二重国籍者だった。ベルーは国内で生まれた子には国籍を付与する出生地主義を採用しており、1938年7月28日に誕生したフジモリ氏は自動的にペルー国籍となった。一方、両親は熊本県出身の移民で父親が当時の在リマの日本公使館に出生届を出し、届け出は公使館から熊本の本籍地に送付されている。日本の父系優先血統主義の下で日本国籍が付与されたのも自然の成り行きである。日本の国籍法は1984年に改正され、日本人の多重国籍者は国籍選択するよう求められるようになったが、改正前からの重国籍者にはこの規定が適用されないとされた。こうした事情からフジモリ氏は両国の国籍を持ち、アルベルト・ケンヤ・フジモリと藤森謙也という二つの名を公式に持っていたわけだ。この2面性がフジモリ政治を特徴づけたと言っていい。

 アイデンティティは「ペルー人」

フジモリ氏が日本人の両親のもとで日本の慣習やしきたりに接し、日本の伝統や文化を学んだことは確かである。親族によれば、家族とともに日本の行事や慣習に親しみ、小学校に上がるまでは日本語で会話しており、熊本弁も覚えたという。だが、自身がどこまで日本人という意識を持っていたかというと疑問である。1999年6月28日付の日本経済新聞の「私の履歴書」の中でも、「自分はペルー人として生きてきた。両親が日本からの移民ということくらいしか、日本は意識していなかった」と本人が回想している。

ペルー国立農科大学の教授から学長になったころもペルーの日系人社会とはほとんど付き合いがなく、1990年に大統領選に初出馬した時、日系人の間でも知らない人が多かったと伝えられたほど。戦前にリマで起きた反日暴動の苦い経験から「日本人がペルー社会で目立つのは良くない」として日系人社会の多くの幹部たちはフジモリ出馬に反対したという。フジモリ氏自身、ペルー人か日本人かアイデンティティを聞かれるとしばしば、「自分は100%ペルー人だ」と答えていたし、時には「1000%ペルー人」と語ったこともある。

日常会話には苦労しないぐらいの日本語能力は十分あったが、日本人ジャーナリストが参加した記者会見など公式の場ではめったに日本語を話さず、スペイン語で通したところにも「自分はペルー人」という意識の強さを感じさせた。「私の誕生日は7月28日でペルー独立記念日だ」と誇らしく語っていたのはいかにも、フジモリ氏らしい。

◇ 「日本人」と「ペルー人」を巧みに使い分け?

フジモリ氏の強いペルー人意識と考え方が如実に現れたのが1996年12月に発生した極左ゲリラによる日本大使公邸占拠事件だ。日本政府は一貫して「人命最優先の平和解決」を求めた。日本国籍を持ち、日本との深いつながりのあるフジモリ氏なら、日本的な考え方や価値観を理解できるだろうとして日本側には平和解決への期待感があった。だが、事件は翌年4月のペルー軍特殊部隊の突入による武力解決で幕を閉じた。

フジモリ氏は事件の早い段階から武力解決を決意しており、テロリストへの対応に関しては日本的な甘い考えは微塵もなく、ペルー人としてペルーの政治利益を最優先したことが後に明らかにされた。とはいえ、フジモリ氏が自分自身の日本との特別なきずなを重視し、利用していた面があったことは否定できない。1990年の大統領選に出馬した際には「勤勉、正直、技術」を選挙スローガンにし、浴衣を着て日本刀を振りかざすパフォーマンスを演じ、まさに「日本人の顔」を政治宣伝に使った。

フジモリ氏は大統領在任中の約10年間、20回近く日本を訪問、円借款や無償援助など多額の援助を獲得したが、「日本人の血を引く政治家」のイメージで日本の官界・政財界に食い込み、ファンをつくったことが大きな要因の一つと思われる。

もう一点忘れられないのは、2000年側近の汚職事件で国内での追及が高まると、外遊中に日本に事実上亡命、大統領職を辞任したこと。フジモリ氏が日本国籍を持ち、日本との密接な関係があってこその行動だろう。

5年後には、大統領選への再出馬を目指し日本を出国、チリで身柄を拘束され、2年後ペルーに送還された。その後、市民虐殺事件に絡み、禁固25年の有罪判決を受け獄中生活を送ったことは周知の通りである。

日本でそのまま亡命生活を続けることもできたはずだが、あえて日本を離れた理由について「ペルーを再建するため」と語っていたのはペルー人政治家としての強い思いがあったからに違いない。フジモリ氏は「日本人」と「ペルー人」という2つの顔を巧みに使い分けた異色の政治家だったと言っていいかもしれない。

(了)

トップ写真:ペルー野党が、国家諜報局顧問モンテシノスを巻き込んだ賄賂スキャンダルでフジモリ大統領の退陣を求め、緊急政府の迅速な樹立を要求するなか、大統領官邸の門の上に立ち、彼への支持を表明し、政府を去らないよう懇願するために集まった支持者たちに向かって旗を振るフジモリ大統領(当時)。フジモリ大統領は、新たな選挙を呼びかけ、立候補しないと発表し、10年間の権力の座に終止符を打つとともに、国家情報局を解体すると約束した(2000年9月19 日ペルー・リマ)出典:GettyImages




この記事を書いた人
山崎真二時事通信社元外信部長

 

南米特派員(ペルー駐在)、ニューデリー特派員、ニューヨーク支局長などを歴任。2008年2月から2017年3月まで山形大教授、現在は山形大客員教授。

山崎真二

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