ペルー フジモリ大統領死去 その数奇な運命
安倍宏行(Japan In-depth編集長・ジャーナリスト)
【まとめ】
・ペルーのフジモリ大統領が逝去した。
・大統領在任時は経済立て直し、左翼テロ鎮圧に成果を上げた。
・その過程で深刻な人権侵害が発覚、有罪となり晩年は獄中で過ごす、数奇な運命だった。
ペルーのフジモリ大統領が逝去した。
フジモリ氏が大統領在任中、インタビューした者として、様々な思いが胸中を去来する。
まず私とペルーの関わりから話そう。時は1996年12月17日のこと。私は当時フジテレビのニューヨーク特派員。赴任してまだ4か月目だった。夜、居酒屋で酒を飲んでいると、東京のデスクから電話がかかってきた。ペルーに飛べという。聞けば、「リマの日本大使公邸がテロリストに襲われ、700人余りが人質になった」という。余りに荒唐無稽な話に、「嘘でしょう?」思わずそう言った。長い長いペルー日本大使公邸占拠事件取材の始まりだった。
■ 日本大使公邸占拠事件とフジモリ大統領
すでにニューヨークは夜。ペルーへの直行便などない。とりあえず夜が明けるのを待ち、アルーバというリゾート島を経由して、翌日夜にリマに着いた。
日本大使公邸を占拠したのは、左翼ゲリラ、MRTA(トゥパク・アマル革命運動)だった。ネストル・セルパ率いる14人のテロリストが収監中の同志(セルパの妻を含む)の釈放などを訴え、当日天皇誕生日祝賀レセプションが開かれていた大使公邸に突入したのだ。痛恨だったのは、大使公邸の隣の空き家に彼らが潜んでいたことが事前に全く警備の網にひっかからなかったことだ。
とにかく、人質700人超は嘘ではなかった。招待客は、ペルー政府関係者、各国大使、外交官、ペルー在住の邦人など。しかし、MRTAは、人質の人数が多すぎてとても管理できないと判断し、高齢者や女性を次々と解放。結果、ペルーの政府幹部や軍関係者、そして青木盛久大使ほか日本企業のトップら、計72名が人質として残った。
▲写真 MRTAに占拠された日本大使公邸に人道物資を運ぶ国際赤十字のスタッフ(1996年12月17日ペルー・リマ)出典:Gregory Smith / CORBIS/Corbis via Getty Images
その後、人質の解放までなんと4か月を要した。私はペルー政府はすぐに公邸に突入するだろうし、解決はせいぜい1〜2週間だろうと考えていたが、その予想はすぐ裏切られた。日本政府が性急に突入しないよう、フジモリ大統領に強く求めたことが背景にある。ペルーは2020年までの累計で中南米における我が国最大のODA被供与国だった。(累計内訳:有償約4,200億円、無償約690億円、技術協力約590億円)
その後膠着状態が続き、ペルー政府は郊外に公邸と同じ建物を作り、急襲作戦のシミュレーションを続けていた。そして、公邸に向けてトンネルを掘り、建物の地下から突入する計画を入念に準備、工事に着手した。
最初はそんな作戦、すぐテロリスト達に見破られるだろう、と思ったが、公邸を取り囲む車両から大音響の音楽を流したりして、トンネル工事の音を消すなどした。結局、6本のトンネルが掘られ、軍の特殊部隊約140人がその中に潜み、突入の機会をうかがった。テロリスト達も長期間にわたる占拠で気が緩んでいたのかもしれない。結局、気づかれることなく工事は進んだ。トンネルは公邸の真下にまで到達していた。
そして4月22日午後3時23分(日本時間23日午前5時23分)、特殊部隊は公邸の床下に仕掛けられたプラスチック爆弾を起爆、広い部屋でサッカーに興じていたMRTAのテロリストたちの大半は吹き飛ばされ、即時無力化された。そして、一斉に特殊部隊の兵士らがトンネルから突入した。
その様子を近隣ビルの屋上からカメラで中継しつつ見ていた私は、激しい銃撃の音から、相当数の犠牲者が双方に出ているはず、と思った。しかし実際は、人質72人のうち、亡くなったのはペルー最高裁判事1人だけ。日本人24人を含む残る71人は、事件発生127日目に無事救出されるという奇跡的な結果に終わった。
一方、特殊部隊の隊員2人は死亡し、犯人グループは14人全員が死亡した。最初の爆破で生き残ったものもいたが、その場で処刑された。幹部の1人はトンネルを使って逃げようとしたところを捉えられ、射殺された。降伏した者を処刑するのは国際法違反のはずだが、現場にいた特殊部隊兵士の一人は、「全員射殺せよ」と命令を受けていたと私に話した。
フジモリ大統領がなぜ左翼テロリストに強硬だったのか。それはペルーのテロの歴史をひもとかねばならない。
■ ペルー、左翼テロの歴史
ペルーでは、1960年代から左翼テロが本格化した。MRTAともう一つのテロ組織、「センデロ・ルミノソ」が政府と激しく対立、市民はテロの恐怖と隣り合わせの生活を強いられてきた。
公邸占拠事件が起きて初めてリマを訪れた時、まず目についたのが、リマの住宅の家の窓という窓に牢獄のように頑丈な鉄格子がはまっていたことだ。普通の民家である。これは一体どういうことなのか?と率直に思った。しかし、しばらくペルーに住んでみると、市民にとってテロがそれほど身近な存在だったということがわかった。
そのテロを鎮圧したのがフジモリ大統領だった。1990年の大統領選で初当選、就任直後から経済改革を断行し、ハイパーインフレーションに苦しむ経済を立て直すため、国有企業の民営化などを推し進めた。一方で、左翼テロ掃討作戦を強力に展開し成果を上げた。結果、1995年大統領選で再選された。当時、国民の人気は圧倒的だった。
▲写真 ニューヨークのセントレジスホテルで行われた記者会見に臨むフジモリ大統領(当時)1996年5月20日アメリカ・ニューヨーク州 出典:Najlah Feanny/Corbis via Getty Images
筆者がインタビューしたのは、公邸占拠事件後、2000年の大統領選の前だ。おそらく日本語も英語も流ちょうだったと思うが、インタビューはあくまでスペイン語で通した。まっすぐこちらを見据え、終始、余裕しゃくしゃくで質問に答えた。その顔は自信に満ち溢れていた。
しかし、左翼テロとの戦いの中、深刻な人権侵害が行われていたことが発覚する。1991年11月のバリオス・アルトス事件(センデロ・ルミノソを襲撃した国軍が誤認した住民15人を虐殺した)や、1992年7月のカントゥータ事件(同じく国軍が、学生9人、教授1人をテロリストとして拉致し虐殺した)などだ。強権的なテロ掃討作戦の陰には、モンテシノス国家情報部顧問の存在が取り沙汰された。強引なテロ掃討作戦を推し進めるために彼と手を組まざるをえなかったのだろう。
国の経済を立て直し、テロの恐怖から国民を救ったヒーローが、一気に転落したのは、2000年、3期目の任期開始直後の9月14日のこと。
モンテシノス顧問による野党議員買収の現場を捉えたビデオ映像が野党議員によって暴露され、フジモリ大統領は窮地に陥った。モンテシノス顧問は失脚の末、身柄拘束。フジモリ大統領も2000年11月、ブルネイにおけるAPEC首脳会議出席後、東京に到着するや大統領の辞職を表明し、日本に事実上亡命した。
▲写真 ペルーの野党メンバーのグループは、諜報機関の責任者モンテシノスが国会議員アルベルト・コウリに賄賂を贈る様子を映したとされるビデオを放映。ビデオを放映した野党の独立道徳戦線 (FIM) は、ペルー国会議員がモンテシノスに買収され、多数派を確保していた証拠だと述べた(2000年9月14日ペルー・リマ)出典:Photo by Newsmakers/GettyImages
その後、フジモリ氏は、2005年10月に、2006年の大統領選挙に出馬するために日本を離れチリに向かったが、出馬はかなわなかった。そのままチリに留まり続けたが、2007年9月、チリ最高裁がペルー政府の身柄引き渡し要請を認めたことでチリを離れ、ペルーの首都リマへ到着、国家警察の施設へ収容された。
そしてとうとう、2009年4月、ペルー最高裁判所特別刑事法廷は、フジモリ元大統領に25年の禁固刑を言い渡した。
▲写真 バルバディージョ刑務所の外で、アルベルト・フジモリ前大統領の釈放を要求しデモを行う支持者ら(2023年12月6日ペルー・リマ)出典:Getty Images/Getty Images
その後、収監、体調不良による入院、恩赦、再収監(2018年)を繰り返し、2023年12月5日、憲法裁が即時釈放を命じたため、6日に釈放され、約5年ぶりに自由の身となったが、すでにその身体は病にむしばまれていた。
2024年9月11日、娘のケイコ・フジモリはX(@KeikoFujimori)で、「私たちの父、アルベルト・フジモリは癌との長い闘病の末、主に会うために旅立ったところです。父を愛してくださった方々には、彼の魂の永遠の安らぎを祈ってご一緒にいただけますようお願いいたします。お父さん、本当にありがとう!ケイコ、ヒロ、サチエ、そしてケンジ」と記し、アルベルト・フジモリが死去したことを発表した。享年86歳。
▲写真 カンポ・フェ・デ・ワチパ墓地で行われたフジモリ大統領の埋葬式(2024年9月14日ペルー・リマ)出典:Ronaldo Bringas/Getty Images
晩年ほとんどを刑務所で過ごしたフジモリ氏。旅立つ前、彼は何を思っただろうか。できることなら最後にもう一度、話を聞いてみたかった。
トップ写真:国立博物館で行われたペルーの元大統領アルベルト・フジモリ氏の追悼集会で棺の隣に立つ、娘のケイコ・フジモリとサチ・フジモリ(2024年9月13日ペルー・リマ)出典: Raul Sifuentes/Getty Images
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この記事を書いた人
安倍宏行ジャーナリスト/元・フジテレビ報道局 解説委員
1955年東京生まれ。ジャーナリスト。慶応義塾大学経済学部、国際大学大学院卒。
1979年日産自動車入社。海外輸出・事業計画等。
1992年フジテレビ入社。総理官邸等政治経済キャップ、NY支局長、経済部長、ニュースジャパンキャスター、解説委員、BSフジプライムニュース解説キャスター。
2013年ウェブメディア“Japan in-depth”創刊。危機管理コンサルタント、ブランディングコンサルタント。