「無事是名馬。帰ってきた父」 文人シリーズ第13回「馬主文士のはしり、菊池寛」

斎藤一九馬(編集者・ノンフィクションライター)
「斎藤一九馬のおんまさんに魅せられて55年」
【まとめ】
・文藝春秋社の創設者、菊池寛は「無事是名馬」という格言を発した。
・菊池寛は“不道徳の臭い”のする競馬界に「文化の香り」を持ち込んだ。
・競馬の真実と教訓をまとめた『日本競馬読本』(1936年・モダン日本社)は入門書とも言える名著だ。
「馬の耳に念仏」とか「馬齢を重ねる」とか、馬にまつわることわざがマイナーなイメージが多いのはなぜだろう?馬好きとしてはおもしろくない現象だけれど、「無事是名馬」というすばらしい格言もある。年を重ね、病歴を重ねると、この言葉の真実がよくよく腹に落ちるのである。
この名言の生みの親は菊池寛(1888〜1948)。戦前の流行作家にして、“文春砲”でおなじみの『週刊文春』や創刊100年超の歴史を誇る月刊誌『文芸春秋』を発行する大手出版社、文藝春秋社の創設者である。
菊池寛が「無事是名馬」という格言を発したのは、何も深遠な哲学からではなく、競走馬の馬主だったからである。せっかく大枚をはたいて高額馬を買っても、ひ弱で競走馬としてデビューできなかったり、ようやく出走にこぎつけても故障が多く、競走馬人生を全うできない馬が少なからずいたのである。馬主の悲哀である。
だから、たとえ力不足でほとんどレースに勝てなくとも、無事走り続けて競争生活を全うし引退してくれたら、それは「名馬」なんだと菊池は断じたのである。
「まあ、ヒトも同じだな」と、ウン十年“鯨飲馬食”の日々を過ごしてきた身には救われる思いがする。出世しなくてもいい、金が貯まらなくてもいい。健康に働いていさえすれば、それでいい。なんともありがたいお言葉である。
「芥川賞」や「直木賞」を創設した菊池寛は“不道徳の臭い”のする競馬の世界に「文化の香り」を持ち込んだ功労者である。菊池自身、『忠直卿行状記』や『真珠夫人』といった戦前の大衆作品を多く書いた流行文士であったが、仲間の文人や女優を競馬場に誘って文化サロンをつくったのである。吉川英治、舟橋聖一、吉屋信子、富田常雄といった著名作家や女優の高峰三枝子らが菊池寛の誘いに乗って競馬場に通うようになった。
それは戦後も引き継がれ、高度成長期には遠藤周作、柴田錬三郎、古山高麗雄、古井由吉ら、錚々たる文士の姿が競馬場にみられるようになった。日本は戦後、世界に類例のない競馬大衆社会を実現させたが、その礎をつくったのが菊池寛なのである。馬券の年間売り上げは日本が世界一であり、それを支える3000万人とも言われる競馬ファンの多くはホワイトカラー、ビジネスマンたちである。なにしろ「楽しさは一家そろって中央競馬」というJRAのCMコピーが堂々と登場したくらいである。さすがに一家そろって馬券狂いはまずいと思うのだが。
数十年前、私が競馬場にほぼ毎週顔を出していたころ、作家の浅田次郎氏と司会者の草野仁氏とはほぼ毎回、馬主席で顔を合わせていた。けれど、もうその頃は“銀座の文壇バー”もそうだが、文士のサロン的な集まりはほぼ姿を消していたように見えた。両氏とも一人ポツンと馬主席を温めていて、同業者との語らいはあまりなかったように見受けられた。あるとき馬券売り場で浅田次郎氏の後ろに並んだことがあり、たまたま氏の買った馬券を肩越しに眺めたことがあった。支離滅裂な買い方をされていた。ながらく馬券を買い続けて(外して)くると、行き着くのはこの世界なんだと納得した。
馬券は当たらない! この競馬の真実と教訓をまとめたのが菊池寛の『日本競馬読本』(1936年・モダン日本社)である。名著だ。藤田嗣治が装画を描いて味わいがあり、「初めて競馬に行く人に」「勝馬鑑定法」「我が馬券哲学」といった章が並んでいる。入門書と言ってもいいだろう。
本は、「僕は、大正十五年(1924年・著者注)以来、競馬ファンとして、精勤している。」で始まる。すると、菊池が競馬を始めたのは文藝春秋社を創立した後のことになる。実業家としても成功して懐も温かくなり、高額な馬券を買ってはずいぶんと痛い思いもしたのだろう。同書の「我が馬券哲学」の章には“精勤”した結果の滋養分がたっぷり盛り込まれている。
・堅き本命を取り、不確かなる本命を避け、たしかなる穴を取る。これ名人の域なれども、容易に達しがたし。
・しかれども、実力なき馬の穴となりしことかつてなし。
・甲馬乙馬実力比敵(ひってき)し、しかも甲馬は人気九十点乙馬は人気六十点ならば、絶対に乙を買うべし。
・実力に人気相当する場合、実力よりも人気の上走しる場合、実力よりも人気の下走しる場合。最後の場合は絶対に買うべきである。
・その場の人気の沸騰に囚(とら)われず、頭を冷徹に保ち、ひそかに馬の実力を考うべし。その場の人気ほど浮薄なるものなし。
・「何々がよい」と、一人これを云えば十人これを口にする。ほんとうは、一人の人気である。しかも、それが十となり百となっている。これ競馬場の人気である。
・「何々は脚がわるい」と云われし馬の、断然勝ちしことあり、またなるほど脚がわるかったなとうなずかせる場合あり。情報信ずべし、しかも亦信ずべからず。
・甲馬乙馬人気比敵し、しかも実力比敵し、いずれが勝つか分らず、かかる場合は却って第三人気の大穴を狙うにしかず。
・大穴は、おあつらえ通りには、開かないものである。天の一方に、突如として開き、ファンをあっけに取らせるものである。何々が、穴になるだろうと、多くのファンが考えている間は、絶対にならないようなものである。それは、もう穴人気と云って、人気の一種である。
どうだろう。競馬を少なくとも10年以上続けていれば、深くうなづくことばかり並んでいる。競馬場の心理学である。この文を書いているのは金曜日の真夜中だが、明日の馬券が当たるような気がしてきた。
思わず笑ってしまう菊池の心情の吐露も見つかった。
「私は、1月から3月末までは競馬がないもんですから、どうして暮らそうかと考えております。月の初めに催眠剤でも呑んで寝てしまって、3月の末になったら目が覚めるような催眠剤でもないかしらんと思っています」
1935年4月、大阪中央公会堂で行った講演でのおしゃべりである。当時の競馬は今のように年がら年中行われてはいなかった。競馬がなければ寝ていたい。本当に競馬が好きだったのだ。たぶん、菊池寛は「ギャンブル依存症」だったろう。私にはよくわかる。
菊池寛には『父帰る』という戯曲の名作がある。妻と3人の子どもを捨てて愛人と出奔した男が、20年後、尾羽打ち枯らして捨てた妻子のもとに帰ってくる。その帰ってきた見すぼらしい父親を前に兄弟がぶつかる。
賢一郎 (なお冷静に)おたあさんは女子やけにどう思っとるか知らんが、俺に父親があるとしたら、それは俺の敵(かたき)じゃ。俺たちが小さい時に、ひもじいことや辛いことがあって、おたあさんに不平をいうと、おたあさんは口癖のように「皆お父さんの故(せい)じゃ、恨むのならお父さんを恨め」というていた。俺にお父さんがあるとしたら、それは俺を子供の時から苦しめ抜いた敵じゃ。俺は十の時から県庁の給仕をするし、おたあさんはマッチを張るし、いつかもおたあさんのマッチの仕事が一月ばかり無かった時に、親子四人で昼飯を抜いたのを忘れたのか。俺が一生懸命に勉強したのは皆その敵を取りたいからじゃ。俺たちを捨てて行った男を見返してやりたいからだ。父親に捨てられても一人前の人間にはなれるということを知らしてやりたいからじゃ。俺は父親から少しだって愛された覚えはない。俺の父親は俺が八歳になるまで家を外に飲み歩いていたのだ。その揚げ句に不義理な借金をこさえ情婦を連れて出奔したのじゃ。女房と子供三人の愛を合わしても、その女に叶わなかったのじゃ。いや、俺の父親がいなくなった後には、おたあさんが俺のために預けておいてくれた十六円の貯金の通帳まで無くなっておったもんじゃ。
新二郎 (涙を呑みながら)しかし兄さん、お父さんはあの通り、あの通りお年を召しておられるんじゃけに……。
賢一郎 新二郎! お前はよくお父さんなどと空々しいことがいえるな。見も知らない他人がひょっくり入ってきて、俺たちの親じゃというたからとて、すぐに父に対する感情を持つことができるんか。
新二郎 しかし兄さん、肉親の子として、親がどうあろうとも養うて行く……。
賢一郎 義務があるというのか。自分でさんざん面白いことをしておいて、年が寄って動けなくなったというて帰ってくる。俺はお前がなんといっても父親はない。(以下略)
『父帰る』はひとごとではない。私も一時期、「帰らない父」を演じてきたからだ。編集者という仕事柄、『父帰る』という名作のタイトルに触れることもあり、その都度私は身を縮め、競馬に逃避した。
1932年の秋、菊池寛は馬主として所有していた78頭のサラブレッドを手放し、競馬界から去った。騎手の不祥事で愛馬が不正事件に関係したことの責任をとったのである。菊池が永眠したのはそれから16年後の1948年のことであった。晩年の競馬不在は身に堪えなかったのだろうか。
『父帰る』は私の本棚の奥深くに眠っている。読むと涙をこらえきれないからである。
引用・参考文献
『日本競馬読本』(1936年・モダン日本社)
『父帰る』(1988年『菊池寛 短篇と戯曲』文芸春秋)
トップ写真)菊池寛『日本競馬読本』(1936年・モダン日本社)
提供)斎藤一九馬