「ムツゴロウは博奕の先生だった」文人シリーズ第12回「無頼派作家 畑正憲」

斎藤一九馬(編集者・ノンフィクションライター)
「斎藤一九馬のおんまさんに魅せられて55年」
【まとめ】
・学生時代、著者は阿佐田哲也と畑正憲に憧れていた。
・編集者として畑氏を取材し、彼の子育てや競馬への情熱を知った。
・畑氏の「ベストファーザー」ぶりと競馬談義が印象に残った。
学生時代、憧れの作家が二人いた。一人は阿佐田哲也こと色川武大氏、もう一人はムツゴロウこと畑正憲氏である。お二人とも麻雀にめっぽう強く、競輪や競馬にも一家言をもつ“無頼派”作家として世に知られた。まだお尻の青い私がこの二人に惹かれたのは、その文学作品のかもしだす香気の故ではなく、危険な香りを放つ無頼な生き方のほうであった。若かったのだ。
奇遇なことに、十数年昔、私はこの稀代のギャンブル作家お二人とわずかな触れ合いの時間を持つことができた。阿佐田氏についてはまたの機会に譲ることにして、今回は畑氏について話そう。
幸運は突然訪れる。編集者になりたてのころ、ある単行本の企画で畑氏を取材することになった。思いがけない僥倖に小躍りして東京・青山にある畑氏の事務所に伺った。応接間に通されると、畑氏がソファーに寝そべっていた。
「悪いけど、腰が痛くてね、このままの恰好でいいかな」心なしか、顔色が優れないように見える。「ええー、どうぞ、どうぞ」。後にも先にも、ベッドに横たわる人を相手のインタビューはこのときだけである。
取材のテーマは「父から子に伝えるもの」。「親父の履歴書」という副題がつく単行本用の原稿である。氏は1984年に「ベストファーザー賞」を受賞していた。いったいなぜ、あの“極道作家”がベストファーザーなんぞに選ばれたのか、いぶかる思いも強かった。
畑氏はソファーから身を乗り出し、テーブルの上のタバコをひょいとつまむ。ヘビースモーカーなのだ。ライターで火をつけ、ふーと紫煙を天井に向けて吐き出し、話し始めた。
「私には娘が一人おります。可愛いんですけれども、一緒にいる時間は圧倒的に少なかった。例えば記録映画なんかやっていますと、2、3か月ぐらいは家に帰れません。ですから、一緒にいられる間は徹底的に楽しもうとしました。久しぶりに家に帰ると、迎えに出た娘を引っかかえて、着物を着たまま、私もですよ、風呂にザンブと入ってしまうんです。それで2時間ぐらい大暴れして、洗面器を楽器代わりにして、口から出まかせの歌を歌って遊んでましたね」。(『父から子へ伝えるもの』KKベストセラーズ・以下同・執筆は私、斎藤)
おっ、「動物王国」のムツゴロウらしいワイルドさが出てきた。
「ある年、山に行って薮の中に入っていったら、娘がついてきているんですが、泣いているんです。どうしたと聞いたら、木や草が刺さって痛いと言って泣くんです。それでびっくりしましてね。私は物心ついたころから原生林のような世界を走り回って生きてきましたから、引っかかれたり、虫に刺されたりするのは物の数じゃなかったけれども、こんなことで泣くなんて恥ずかしいと感じたと同時に、これはいかんと思いました。一度、自然の中に叩き込んでやらなければダメだ。それが北海道に行く大きなきっかけになったんです」
畑氏が妻と娘の3人で北海道の無人島に移り住み、1年間過ごしたのは有名な話だ。氏には、人間の感情とか能力は肉体を鍛えることによって開拓できる分野が結構あるとの信念があった。そのために、なんと娘を一年間休学させたのである。後になって娘はこう畑氏に言った。「本当にあの1年間は素敵だった。パパ、ありがとう!」
畑氏は無人島から帰ると、さらに娘を鍛え上げようと考えた。
「とにかく何かひとつ自信を持ってできるようにさせようと思ったのです。そこまでは父親の務めだと思っていましたから」。そうした選んだのが乗馬だった。「復学してからの1年間は、学校から帰ったら必ず1時間、馬に乗せました。大体70キロから80キロメートル。上手になってからは、私と早がけで競争です。毎日欠かさず乗りました」。いつの間にか娘さんは乗馬の名手となっていた。「『鞍はまり』と言って、動くときに姿勢が馬にピタッとはまることを言うのですが、私は30歳過ぎて始めた乗馬ですから、落ちはしないけど、鞍はまりは悪いんです。馬に乗る技術にかけてはほとんど娘に負けなかったのですが、これだけは娘にかなわなかった。 娘の乗馬を牧場関係者が見ると、うわあ、すごいなと言うんですね。騎馬民族の鞍はまりになっている。ピタッとくっついて、馬から離れないんですよ。それはもう全然違いました。私は草競馬で何度か優勝していますが、娘もレースが好きで私と同じくらい優勝しています」。
なんと一途な子育てだろうと、ムツゴロウ氏のひたむきさに感心させられた。でも、そこまで行くには娘さんも相当つらい思いをしただろうと同情もした。かくいう私、運動は嫌いです。嫌いだが、ある日思い立って世田谷区砧の馬事公苑に行き、乗馬を習いたいと申し込んだことがあった。ところが、「50歳以上は受け付けておりません」とすげなく断られてしまった。もしあのとき乗馬を始めていたら、たぶんすぐ落馬事故を起こして、今こうして駄文を書いていることもなかっただろうと慰めているが、心中ひそかに、馬を自由に乗り回せたらという思いは今もある。
さて、畑氏の馬にまつわる話は当然競馬まで行き着く。畑氏は、やわらかなソファーから起き上がり、競馬について熱く語り始めた。心なしか、目がランランと輝き始めたように見えた。
「競馬はねえ、自分でもどうなるかと思うほどのめり込みましたよ」。畑氏はついにサラブレッドのオーナーになるのである。名種牡馬トパーズの血統を受け継ぐ牝馬をもらい受け、生まれた仔馬に「ムツノグラチエ」と名付け、期待して新馬戦に出した。ところが、ゲートを出なくて出遅れて敗退。「でも、これはいい馬だと思い、調教師にも言って毎日ゲート練習を繰り返し、札幌競馬場で出走させることにしました。これは絶対走ると確信していましたから、カードで全預金を引き出して馬券につぎ込んだら、2馬身差で勝ってくれました」。いくら儲けたんですか?とは聞けなかった。ムツノグラチエは4勝して引退した。さすがムツゴロウ氏、馬の能力を見抜く相馬眼をもっていたのである。
1995年の秋の天皇賞のとき、テレビ番組「スーパー競馬」(フジテレビ系)に解説者として出演した。アナウンサーに、3番人気の牝馬アイリッシュダンス(騎手・武豊)について問われると、氏は「フケ(発情)が来ています。どうでしょう?」と解説した。するとどうだろう、同馬は10着に敗れてしまった。以来、氏の相馬眼は、古い競馬ファンのあいだで伝説として語り継がれることに。フケが来た牝馬は走らない。
ムツゴロウ氏の競馬の話にはオチがあった。「あるとき、やはり札幌競馬場でしたが、自信があったので、またもや全財産を自分の馬の単勝に賭けたんです。みごと、1着になりました。それはよかったんだけれど、単勝のオッズが1・0倍に下がっていて、配当は元返し、まったく儲かりませんでした」。その昔、馬券の売り上げが少ない地方競馬ではめずらしくない出来事であった。私もつい大声で笑ってしまい、はしたない真似をしたと、すぐ失礼を詫びた。
畑正憲氏が「ベストファーザー」にふさわしい人物であったかどうかは、インタビューを終えた後でも、人格の振れ幅が大きすぎ、判断がつかなかった。けれど、競馬の話はおもしろすぎた。おかげで私は、いまだ競馬に憑りつかれたままで、貴重な土・日を棒に振っている。
畑氏はテレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」などの動物番組に多く出演し、「ムツゴロウ」の愛称で老若男女に親しまれた。残念なことに、2023年4月5日、心筋梗塞のため北海道中標津町の病院で亡くなられた。享年87。
合掌。
インタビューを終えて青山の事務所を出る間際、畑氏は私に向かってこう言った。「斎藤さん、あんた博奕に向いてないよ」。目が笑っていなかった。
(以上本文止め)
引用・参考文献 『父から子へ伝えるもの~親父の履歴書』(KKベストセラーズ
写真)東京府中競馬場で行われた第120回天皇杯競馬(1999年10月31日東京・府中 記事とは関係ありません)
出典)Sports Nippon/Getty Images