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.社会  投稿日:2024/12/19

「思いははるか、雪の樺太競馬へ」文人シリーズ第11回「馬を歌う詩人 小熊秀雄」


斎藤一九馬(編集者・ノンフィクションライター)

「斎藤一九馬のおんまさんに魅せられて55年」

【まとめ】

・小熊秀雄は貧困と闘いながら馬との触れ合いを通じて詩や革命志向を育んだ詩人である。

・作品には激しい情熱と労働経験が反映され、馬上の生活を象徴的に描いた。

・樺太の馬飼いや競馬文化との関わりも推察され、短い生涯を精力的に駆け抜けた。

 

 

 つい最近、ある詩と詩人に出会い、年甲斐もなく、腰を抜かすほどの衝撃を受けた。次の詩をお読みいただきたい。題は「馬上の詩

 

わが大泥棒のために 投縄を投げよ

わが意志は静かに立つ その意志を捕へてみよ。

その意志はそこに そこではなく此処に いや其処ではなくあすこに

おゝ検事よ、捕吏よ、戸まどひせよ。

八つ股の袖ガラミ捕物道具を、そのトゲだらけのものを わが肉体にうちこめ

私は肉を裂いてもまんまと逃げ去るだろう。

仔馬、たてがみもまだ生えた許り、可愛い奴に私はまたがる、

私の唯一の乗物、そいつを乗り廻す途中には いかに大泥棒といへども

風邪もひけば 女にもほれる、酒ものめば、昼寝もする、

すべてが人間なみの生活をする。

ただ私の大泥棒の仕事は 馬上で詩をつくること、

先駆を承はること、前衛たること、勇気を現はすことにつきる。

私が馬上にあつて詩をうたへば――。(以下省略。*改行は筆者・以下同) 

 

 作者は、39歳の若さで亡くなった詩人・画家の小熊秀雄(1901~1940年)。戦前のプロレタリア文学の旗手のひとりである。『蟹工船』の作者、小林多喜二と同時代を生きた詩人といえばわかりやすいだろう。

 

 この詩は、革命の先駆者たる「大泥棒」が官憲の追跡を逃れ、馬上で詩をつくるというほどの意味であるが、現代人にとってはほぼ意味不明であろう。ただ、なんだかものすごい殺気と熱気が伝わってくる。

 

 小熊は北海道の小樽で生まれ、当時日本の統治下にあった樺太で少年期を過ごし、旭川で成人し、地元旭川新聞の記者となった。複雑な家族関係の下、小熊の青少年期はすさまじい貧困のなかに置かれた。小熊自身がそのころの自分を「農奴」と呼んでいるほどだ。

 

 1916(大正5)年、樺太の泊居(とまりおる)で尋常小学校を15歳で卒業すると、いくつもの仕事遍歴を重ねる。好きでやったわけではなく、いやでも経済的自立を迫られたからである。

 

 牧場での馬の飼育員、養鶏場の番人、昆布拾い、炭焼き手伝い、鰊(にしん)漁場の漁師の補助、パルプ工場の工員など。樺太の厳しい風土の中で味わった辛い仕事の数々は、若い小熊の精神形成にある方向を与えたであろう。つまり「ルンペン・プロレタリアート」の自覚とぼんやりとした革命への希求である。

 

 ルンペン・プロレタリアート、通称「ルンプロ」はマルクスの編み出した用語で、資本主義社会の最底辺に位置する貧民層のことだ。彼の「農奴」の自覚はこの時代に生まれたものである。

 

 そんなルンプロ暮らしの中でいちばんの癒しとなったのが馬との付き合いだった。

 

 初期のエッセイ「農奴時代」の中で、小熊は嬉しそうに、そして誇らしげに、こう書いている。「私の農奴時代にもっとも興味をそゝったものは馬だ。それだけに私は他人(ひと)よりも、馬を歌うことに自信をもってゐる。凝視の表現に透徹した瞳をもってゐると自称する」

 

 馬を語ったら、誰にも引けを取らないと言うのである。

 

 小熊には馬糞茸(まぐそだけ)という茸(きのこ)を歌った詩がある。まぐそだけは牛や馬の糞のそばに咲く、ちょっと見は可憐な白いキノコで、幻覚作用がある。


なつかしい馬の糞茸よ お前は今頃どうしている
馬の寝息で心をふるわせ 馬小屋の隅で
ふしぎに馬にもふまれず たっしゃにくらしているか、
春だものみんな心をふるわしているだろう
(中略)
なつかしい馬の糞茸よ 僕は都会にきて
心がなまくらになったよ 靴をみがくことと コオヒイをのむことを覚えたきり
なんの取柄もない人間となった
馬小屋から馬をひきだすとき 奴は強い鼻息を私の胸にふっかけたものだ
都会では私の、胸のあたりに鼻息を ふっかけにやってくるものは
悪い女にきまっているよ

(中略)

卑しい卑しい白粉臭い都会
私は田舎の土の匂いがなつかしい、(「馬の糞茸」より)

 

 小熊は望郷の切ない思いをかぐわしい「まぐそだけ」に託したのである。

小熊と馬との付き合いは上京してからも続く。1928(昭和3年)年、小熊は旭川新聞を辞し、妻つね子と長男の焔(まさる)をともない、東京に出る。豊島区の巣鴨を経て杉並区の堀之内に居を移した。もちろん、間借りである。収入は途絶えがちで、相も変らぬ貧乏暮らしであった。越してすぐ、小熊は近くの鍛冶屋で働くことにした。仕事はなんと、馬の蹄鉄づくりであった。小熊の第一詩集『小熊秀雄詩集』(耕進社・1939年)の巻頭をかざったのが、このときの体験から生まれた「蹄鉄屋の歌」だ。

 

泣くな、驚ろくな、わが馬よ。
私は蹄鉄屋。
私はお前の蹄(ひづめ)から 生々しい煙をたてる、私の仕事は残酷だろうか。
若い馬よ、少年よ、私はお前の爪に 真赤にやけた鉄の靴をはかせよう。
そしてわたしは働き歌をうたいながら、
──辛棒しておくれ、すぐその鉄は冷えて お前の足のものになるだろう、お前の爪の鎧になるだろう、お前はもうどんな茨の上でも石ころ路でもどんどんと駈け廻れるだろうと──、
私はお前を慰めながら トッテンカンと蹄鉄うち。(以下略)

 鍛冶屋の詩人は貧苦にあえいだ。電気料金も払えず、夜はろうそくの明かり。それでもたいへん精力的に詩を書き、デッサンに励んだ。そう、小熊は絵もよくしたのである。

戦争は悪化の一途をたどり、左翼系作家への弾圧が続いた。小熊も2度ほど勾留の憂き目に遭った。小林多喜二が獄死したのは1933(昭和8)年のことだ。

 

 詩、文芸評論、絵画論、人物論、随想、ペン画など多くの著作物を遺し、小熊が逝ったのは1940(昭和15)年のことである。最後の住まいは豊島区千早町の小さなアパートの一室であった。ちなみに近くの池袋・長崎界隈は「池袋モンパルナス」と呼ばれ、多くの貧乏芸術家が蝟集する界隈として知られた。洒落た「モンパルナス」の命名が小熊によるものであった。今、池袋にその懐かしくもあるやつれた面影はない。

冒頭の「馬上の歌」は次の句で終わっている。

 

「鞍が落ちたら 裸馬だ。すべて我々は 赤裸々にかぎる、行手は嵐、着衣は無用だ、裸のまゝ乗り入れよ。裸の詩をうたへよ。わが大泥棒の詩人たちよ。」

 裸でブルジョア(富裕層)の懐に飛び込み、その財産を奪え。民衆を使嗾(しそう)する激しいアジテーションの歌とも読めるし、芸術家は革命の旗手(騎手)たれと呼び掛ける歌とも聞こえる。いずれにしても、馬上の「農奴」が吐き出す血の叫びである。

 

 これだけ人生の節目・節目で、馬との不思議な、そして濃密な触れ合いをもった小熊秀雄は、一度も競馬場へ出かけなかったのだろうか。そんな疑問がふとわいて去る日、国会図書館で終日資料をあたった。だが、ついぞ、その痕跡を見出すことはできなかった。もっとも、その時代の馬券は1枚20円(当時の初任給の1・5倍ほど)と超高額だったから、小熊にはとうてい手が出なかっただろうけど。

 

「そうだ!」。突然、私の思考回路は、小熊が青年期を過ごした戦前の樺太へ飛んだ。

 

 そしてとうとう見つけたのである。小熊と競馬の接点を。樺太を統治した大日本帝国は国策としてかの地での馬産と競馬を盛んに奨励していた。競馬は内地をしのぐほどの盛況だったと、ある資料に出てきた。1930年ごろには大小の競馬場が20ほどもあったというから驚いた。小熊が少年のころ、精魂込めて飼育した馬は樺太競馬で走っていた駿馬たちだったのかもしれない。きっとそうだ。私にとっては嬉しい発見だった。

 

 ちなみに、小熊が検挙されて29日間の勾留を受けた1932年(昭和7)年は、第1回日本ダービーが東京の目黒競馬場で行われた記念すべき年であった・・・・・・。

 今、しみじみ思うのである。「軍靴」の響きより、「蹄鉄」の響きのほうが美しい。

 

引用・参考文献 『小熊秀雄とその時代』(田中益三・河合修編・せらび書房)

『詩人とその妻 小熊秀雄とりつ子』(小川惠以子著・創樹社)

 

写真)恋する動物たち(サハリン島)

出典)Cavan Images/ Getty Images

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この記事を書いた人
斎藤一九馬編集者・ノンフィクションライター

宮城県生まれ。東京外国語大学インド・パキスタン語学科卒業。編集者・ノンフィクションライター。主な著作に『歓喜の歌は響くのか』(角川文庫)、『最後の予想屋 吉冨隆安』(ビジネス社)など。数誌に社会課題のルポルタージュを寄稿。

斎藤一九馬

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