ベトナム戦争からの半世紀 その5 米軍パイロットとの対話
古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」第962回
【まとめ】
・記者は1972年、北ベトナム軍の「春季大攻勢」に対するアメリカの反撃として実施された北爆の実態を取材するため、空母コンステレーションに乗艦し、乗員たちの意見を直接取材した。
・若いパイロットたちは北爆の正当性を強調し、民間人への攻撃はしていないと主張する一方で、北爆への非難の声にも耳を傾けていた。
・過去には毎日新聞による「北爆による病院攻撃」報道が虚報とされた経緯もあり、北爆をめぐる報道や認識には大きな対立と論争があった。
コバルト色の大海原のはるか遠くに白く砕ける航跡が散らついてきた。その先に黒い点がみえた。艦影だった。私たちの乗った小型軍用機からの眼下の光景だった。まもなく小型機は機首を下に向け、降下して、洋上の艦艇の鋼鉄甲板にガアーンという衝撃音をあげて、着艦した。アメリカ海軍の8万トン以上もの巨大な航空母艦「コンステレーション」だった。この空母は北ベトナム沖のトンキン湾に出撃して、艦載機による北ベトナムへの爆撃を繰り返していた。
1972年5月、北ベトナム軍による南ベトナム領内での激しい攻撃が続いていた。後に「1972年春季大攻勢」と呼ばれた軍事攻撃だった。北ベトナム軍の大部隊はすでに南領内の最北端のクアンチ省を制圧していた。
南ベトナムのサイゴンに赴任した私は激しさを増すこの大攻勢の取材にさっそく没入していった。その対象の一つが北ベトナムに爆撃を加えるアメリカ海軍の航空母艦コンステレーションの動きだった。私はサイゴン(現ホーチミン市)にある米軍司令部で空母乗り込みの取材を申し込んで、認められた。米欧の主要メディアの記者を主体に合計6人、日本人は私だけだった。サイゴン郊外のタンソンニュット空港から北ベトナムを爆撃中の空母まで約3時間、小型プロペラ機で運ばれての着艦だった。
この空母はトンキン湾内、北ベトナムのビン市の東100キロほどの海上にあって、艦載機を北ベトナム領空へと飛ばし、地対空ミサイルなどを攻撃しているという。この北ベトナムへの爆撃、つまり北爆はアメリカ側がベトナム戦争中、頻繁に実施してきたが、この時期にはニクソン大統領はしばらく中止していた空爆作戦を北側の大攻勢に対抗して、再開していた。北ベトナム沿岸を機雷類で海上封鎖するとともに空母の艦載機で北側の軍事基地や施設を空爆していたのだ。
ただしこの米軍の北爆には国際的にも反対が強かった。まず北ベトナム側が米軍機は単に軍事目標だけでなく、民間施設をも攻撃し、多数の死者を出していると言明していた。アメリカ国内でも、日本国内でもこの北爆を非人道的な破壊行為だとして抗議する声があったのだ。ただし米軍当局は南ベトナム領内で闘争を挑んでくる軍事勢力はみな北から入ってくると判断して、その根拠地を叩くのが北爆だと宣言していた。
この米軍の北爆は私が当時、所属していた毎日新聞でも国際的といえる論争を呼ぶ出来事を起こしていた。
私がベトナム赴任よりも7年前の1965年9月、毎日新聞外信部長だった大森実氏は当時のベトナム戦争中ではいわゆる西側記者として初めて北ベトナムの首都ハノイ訪問に成功した。そして大スクープとして「北爆中の米軍機は北ベトナムのハンセン病院を10日間、連続で爆撃し、破壊し、多数の死者を出した」とする記事を送った。この病院には明確な赤十字の旗が掲げられえいたが、米軍機はその医療施設を平然と爆撃した、というのだった。当然ながらこの記事は毎日新聞の第一面を埋め尽くし、国際的な反響を生んだ。
ところがこの報道に対して当時のアメリカの日本駐在大使だったエドウィン・ライシャワー氏が「そんな病院爆撃の事実はない」と公式に言明し、大森氏の報道を虚報だと断じた。
その結果、判明したのは大森記者はハノイで北ベトナム側からこの爆撃の模様を撮影したとする映画をみせられただけだという事実だった。実際の病院爆撃の現地を見たわけでもなかったのだ。この騒ぎは結局はライシャワー大使の声明が正しかったと判断され、大森氏は毎日新聞を退社する結果となった。
米軍の北ベトナム爆撃とはそんな因縁もある軍事作戦だったのだ。さてコンステレーションに着艦した私たちはまずフットボール球場を思わせるほど広大な甲板を通り、かなり豪華な応接室で広報担当の将校たちからこの空母が実施する作戦の概略を説明された。同空母は一ヵ月余り前の4月上旬に横須賀を出港し、5日かけてトンキン湾に到着、以来、北ベトナムへの攻撃機、戦闘爆撃機などによる攻撃を連日、続けてきた。艦載機の総数75機だが、今回の作戦ではすでに5機を失ったという。
艦内を案内され、最上部の司令官室の艦橋をもみせてくれた。この巨大な空母の艦長のジョン・ワード大佐が戦闘状況を説明してくれた。周囲の海域にはこの空母を護衛する駆逐艦や砲艦の姿がみえる。この艦隊で構成する北爆の海上基地をヤンキー・ステーションと呼ぶそうだ。大佐は海図を示し、すぐ近くにはソ連の情報収集艦が航行して、米軍の動向を追っている、とも解説した。
「パイロットの救出を確認!」
ワード大佐の立つわきのスピーカーからこんな声が飛び出してきた。北爆実施中のA7機が爆撃中に北側の対空砲火を浴びて、撃墜され、パイロットはパラシュートで海上に脱出したところを米軍のヘリコプターで救われた、という報告だった。
しばらくすると遠方に小さな粒のような複数の機影がみえてきた。ぐんぐんと近づいてくる。1機、また1機、北爆ミッションから帰投する艦載機群だった。叩きつけるような轟音をあげて、甲板に1機ずつ、着艦する。合計20機ほどが帰ってきた。記者団がそのパイロットたちに意見を聞きたいと要請して、即製の記者会見が実現した。最初に通された応接室にまだ汗びっしょりの3人のパイロットが登場し、記者団に対面した。3人とも20代後半にみえる若く、たくましい青年たちだった。
「私たちの爆撃が非難の的になっていることは知っています。だからこそこうして世界各国のジャーナリストに私たちの考えを聞いてもらえるのは、ありがたいです」
ポール・ジャンカー大尉と名乗るパイロットがまず語った。記者団はアメリカのニューヨーク・タイムズ、イギリスのロンドン・デーリー・ニュース、フランスのAFP通信など、それを私を含めて計6人だった。記者側からはこのパイロットたちが全員みずから志願して北爆任務に就いていることを知って、ニクソン大統領がベトナム離脱を言明し、アメリカ社会でも反戦気運が高まっているこの時期にもう北爆には大義はないのではないか、という辛辣な質問が出た。ジャンカー大尉が答えた。
「私は北ベトナムの侵略から南ベトナムを救うことが道義的にも正しいと信じています。北爆をしなければ、南ベトナムの敗北は確実となってしまいます」
続いてデービッド・ガレス大尉が静かな口調で述べた。
「北ベトナム軍の攻撃で無惨に破壊された南ベトナムの村落を多数、みました。そしてその攻撃を続けるために南下していく北ベトナムの戦闘部隊、補給部隊を数えきれないほど目撃しました。この補給を断つためには爆撃が必要です。私自身、北爆への参加で南ベトナム、そしてアメリカ政府に貢献していると考えます」
記者団には後にカンボジアのポル・ポト政権による大虐殺の報道で有名になるシドニー・シャンバーグ記者もいた。同記者はこの北爆自体が北ベトナム軍の戦闘能力を削ぐという点であまり効果がないのではないか、と質問した。すると、ダクラス・ポール大尉と名乗る青年が即座に答えた。
「北爆開始の当初の1965年ごろは北軍の攻撃もゲリラ作戦が多かったので、確かに空からの攻撃の効果も限定されていました。しかしその後は北軍の重装備の機械化された正規軍が多くなりました。その種の大部隊への補給切断では空爆が大きな効果をあげています」
私も爆撃対象があくまで軍事施設に限られ、民間施設には及ばないという方針は本当に徹底しているのか、と質問した。この点については3人の将校は声をそろえて「あくまで軍事目標だけです」と強調した。
ジャンカー大尉がとくに熱をこめ語った。
「目標は絶対に軍事関連施設だけに限ることを命令され、その通りに実行しています。民間施設を攻撃しているという北ベトナム側の発表は悪質なウソです。ただし万が一、民間に被害が出たとすれば、悲しいことだと思います」
そのうちシャンバーグ記者がアメリカ国内の反戦の意見の高まりを繰り返し、指摘すると、ジャンカー大尉が反論した。
「アメリカ国民の多くはベトナムの実態を誤解しています。それは主にマスコミの責任です。反戦運動で30人の学生が大学の建物を占拠しても大きく報道するのに南ベトナムで3000人の国民が北軍の攻撃で殺されても、大きくは報じない」
3人のパイロットたちはなお抑制された語調で、礼儀正しく対応していた。しかし記者側から「北爆への米欧側での非難を本当に真剣に考えることがあるのか」という質問が出たときはガレス大尉が一瞬、顔色を変えるようにして反論した。
「当然です! 私たちが命令だけを機械的に実行し、外の世界の声に気づかないような種類の人間だとは思わないでください。自分たちも帰国すれば一市民なのです」
こうしたやりとりも北軍に撃墜された攻撃機のパイロットのジム・ウィルキンソン中佐の登場で流れが変わった。中佐は海上にパラシュートで落ちたところを米軍のヘリで救われたのだ。
「いやあ、必死で泳ぎましたよ。ハノイ・ヒルトンの客にはなりたくなかったので」
中佐は冒頭はそんな軽い語調だったが、文字通り、命のかかった爆撃から被弾、そして墜落、脱出の経過を真剣に語ってくれたのだった。
(その6につづく。その1、その2、その3、その4)
トップ写真)ベトナム戦争中、トンキン湾をパトロール中の米空母USSコンステレーションのデッキに翼をたたんで駐機する戦闘機 ベトナム 1968年11月26日
出典)Photo by Terry Fincher/Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

