ベトナム戦争からの半世紀 その25 ダナン撤退の惨劇

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・1975年3月、南ベトナム北部の要衝ダナンは北ベトナム軍に完全に占領され、南ベトナムは領土の半分と5師団を失った。
・ダナンからの撤退では兵士が民間人を排除し、暴力や混乱が続発した。
・UPI通信ボーグル記者はこの惨状を詳細に報道し、その記事は高い評価を受けた。
南ベトナム政府にとっての北部の最大要衝ダナン市の失陥が明らかになった日の翌日、私はサイゴンのアメリカ大使館での昼食会に招かれていた。主催は大使館の駐在武官事務所のジョン・ラッセル海軍大佐だった。1975年3月30日のことである。
ダナンの陥落という重大事態が起きるずっと前から決まっていた会合だった。かねて知己を得ていたラッセル大佐は大使館にほぼ隣接した自宅のアパートに私も含めて5人ほどを招いていた。チュー政権の大蔵大臣のチャウ・キム・ニャン氏の顔もあった。戦争での危機を考え、ほんの短い時間ですませるという前提での会食となった。
ラッセル大佐はアメリカ政府を代表してダナンからの難民や将兵を海上輸送するという作業の責任者だった。戦闘にはかかわらない、あくまで非軍事の作業としてのアメリカの支援だった。大佐はサイゴン近郊のタンソンニュット基地内で前日から一睡もしないまま現地のアメリカ民間の船舶と連絡をとっていたという。
「ダナンからの緊急避難の作業はもう終了しました。岸壁がすでに共産軍部隊に占領されてしまったために、もうなにもできなくなったのです」
巨漢のラッセル大佐は目をしばたかせ、言葉少なにダナンの状況を語った。ダナンの港に殺到する南ベトナム側の軍民の撤退者を海上への運ぶ作業は北ベトナム軍の怒涛のような進撃で、もう不可能になったというのだ。つまりダナンは北ベトナム軍により市街地だけでなく、その東側にある広大な港湾施設まで完全に占領されたということだった。
押しつけられたような空気のなかで、みな黙々と食事をとった。ぎこちない会話が断続した。大蔵大臣のニャンさんが申し訳なさそうに声をあげた。
「お先に失礼します。これから首相府で緊急の会議があるのです」
この言葉につられたように、他の参加者もあたふたと席を辞していった。ダナン陥落という事態の重みが誰の胸にも岩のようにのしかかっていた。
ダナンの陥落――この事態は南ベトナムの全土が完全に二分されたことを意味していた。ダナン市は首都サイゴンからは北へ900キロ、古都フエからは南に90キロという位置にある。すでに述べたように、北ベトナム軍はダナンの制圧により、南ベトナムの北部5省、つまり第一軍管区のすべてを手中におさめた。そのすぐ南の中部の第二軍管区も海岸沿いのいくつかの省を除いてはもう北ベトナム軍の支配下にあった。その結果、南ベトナムの最北端のクアンチ省からサイゴン北方のフォクロン省まで合計14省で北ベトナムと一体の南革命政府の三色旗がひるがえった。南ベトナム政府は3月10日以来、わずか20日間にして領土の半分を失ったことになる。しかも本格的戦闘のほとんどないままの一方的な敗退だった。
南ベトナム軍はダナンの失陥により正規軍総計13個師団のうち5師団をほとんど一方的に失うという結果となった。北ベトナム軍は対照的にほぼ無傷のまま、南軍から巨大な数量の武器、弾薬、車両などを捕獲していた。軍事バランスはさらに大きく北軍に有利に傾いたのだ。
南側の軍民のダナンからの撤退では痛ましい惨事が数限りなく起きた。女性や子供を銃床で殴り倒して避難の飛行機に割り込む兵士たち、超満員の雑踏のなかで踏み倒される高齢者の男女、避難船の超満員の艦上から母親の目前で海上に投げ出される幼児…極限状況のなかでの悲惨で醜悪な行為の数々だった。そうした惨状を最も迫真に描写したのはUPI通信のポール・ボーグル記者の報道だった。
ボーグル記者はフエやダナンの北部での状況を危険を冒して最前線で取材し、3月29日、ダナン空港からサイゴンに向かう最後のアメリカの民間の救援機に難民や兵士たちとともに搭乗した。その脱出の模様を記事にしたのだった。全世界に衝撃を与えた彼の報道の骨子は以下のようだった。
「ダナン空港にアメリカのワールド航空のボーイング727型機が着いた。数百メートル離れた複数の建物からこの飛行機を目がけて1000人以上の人々が突進してきた。オートバイで、ジープで、そして自分の足での疾走で。と、難民たちが突然、飛行機の前でいっせいに体を投げ出すように身を伏せた。兵士たちが機関銃を発射したのだ。第一師団の将兵が一般難民を排して、自分たちがこの避難の飛行機に乗ろうとして、威嚇の射撃を放ち、強引にタラップを登っていった。兵士の一人がタラップを登る女性の顔を蹴って、突き落とした。
727機の座席は268人分で満員だった。そのほか機内の格納庫や倉庫などいたるところの空間に合計40人ほど身体を詰めこんでいた。客席は女性と幼児のそれぞれ数人を除いて、ほとんど軍服で占められていた。大多数が黒豹部隊などとも呼ばれた精鋭とされた第一師団の将兵だった。これら将兵はサイゴン近郊のタンソンニュット空港で着陸時に逮捕された。
機内の床は血で濡れていた。負傷していた兵士数人が座席から担架で機内の通路のスペースなどに移された。機内のほとんどの人間がパニック状態のようになり、重苦しい沈黙ともなった。武装したままの将兵たちに私(ボーグル記者)が機内を回って、武器や弾薬を手渡すように指示すると、私がアメリカ人だからか、みな素直にピストル、手榴弾、弾薬などを差し出して、みずから武装解除した。
サイゴン近郊の空港に着陸した時、私は自分たちが乗っていた飛行機の車輪収納装置の下にぶらさがっている兵士をみた。彼の体はめちゃくちゃになっていた。その死体の肩にはM16ライフルが革バンドでぶらさがっていた。信じ難いことだが、飛行機の車輪を飛行中にたたんで納める窪みに5人の男が入り込み、うちの4人が生き残ったことがわかった。
二番機の乗っていたUPI通信のカメラマンの話によると、私の乗った飛行機には離陸の際、機体にしがみつく人たちがみえた。だがそのほとんどは南シナ海に墜落していったという。ダナンは無防備の混乱をきわめる都市と化していた。誰もが自制心を失っていた。私はベトナムにこれまで18年間も滞在してきたが、このダナンの光景よりひどいものをみたことはなかった」
ダナンから帰ったばかりのボーグル記者はUPIサイゴン支局のデスクに気が抜けたように座っていた。私の所属した毎日新聞とUPIは協力関係にあったので、至近距離にあったUPI支局を訪れ、ボーグル記者の最新報告を聞かせてもらったのだ。彼はちょうど前記のような記事を送り終えたばかりだった。青ざめた顔で私に向けてつぶやいた。
「あんな光景は二度とみたくない。こんな記事も二度と書きたくないよ」
この記事はその年のアメリカのジャーナリズム界のピューリッツア賞の最終候補に残るほどの高い評価を受けたのだった。
(つづく)
トップ写真:ダナンから逃れてきた4万人の難民が難民キャンプに集まる様子 1975年4月15日 南ベトナムフーコック島
出典:Photo by © Jacques Pavlovsky/Sygma/CORBIS/Sygma via Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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