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.国際  投稿日:2025/6/1

ベトナム戦争からの半世紀 その15 中部高原の要衝の放棄


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・バンメトート失陥後、南ベトナム軍はプレイクとの通信を遮断し、司令部をニャチャンへ移動。

・プレイクとコンツム両市からの全面撤退を開始。

・中部高原の住民は雪崩のように南や東へ脱出。

 

北ベトナム軍による南ベトナム中部高原の要衝バンメトート市の電撃的な制圧は当然ながら首都のサイゴンを愕然とさせた。だが1975年3月11日のバンメトート失陥が南ベトナム(ベトナム共和国)という国家自体の倒壊へとつながっていくという歴史上の重大な流れを予知した人はまだいなかった。その展望は攻める側の北ベトナムでもまだ未知のままだった。だがあとからみれば、このときにベトナム戦争全体の歴史の曲がり角が迫っていたのだ。

そんな不安と混迷の3月16日朝、ベトナム国営通信のグエン・ザ・トイ記者が毎日新聞サイゴン支局にやってきて、首を大きくかしげながら一つの情報を私に告げた。トイ記者はフルタイムの国営通信のベテラン記者だが、それまでの数年、内々に毎日新聞の助手として協力してくれていた。ベトナム側の一線のジャーナリストとして入手するニュースや情報を教えてくれるのだ。もちろんその協力には毎月の給料という形で報酬を払っていた。国営ベトナム通信の側からすれば、こんな「兼業」は職務規定の違反だろう。だがそこは当時の南ベトナムの官民の規律のゆるさで、周囲にはそれとなく知られていても問題にはならなかった。ベトナムの官営組織では通信社に限らず、外務省とか軍隊の中堅幹部までが外国のニュースメディアのためにその種の情報提供の協力をしていたのだ。

トイ記者は一気に語った。

「中部高原の要衝のプレイクでなにか起きています。サイゴンなどからプレイクへの通信が突然、切れてしまったのです。しかし共産軍がいまプレイクに攻撃をかけているという気配はまったくない。だから南ベトナム政府軍が秘密裡に独自の行動をとり始めたのかもしれない。はっきりしたことは皆目わからないのです」

思えば、この情報が私にとってはベトナム共和国の総敗北につながる動きの第一報だった。プレイクは中部高原でもバンメトートから北へ200キロほどの要衝だった。軍事的にはバンメトートよりも重要とされてきた。プレイクには南ベトナムの中部の高原と海岸を合わせた広大な地域を防衛する第二軍管区の司令部がおかれていたのだ。ちなみに南ベトナムの防衛は北から南へ第一、第二という軍管区が続き、首都サイゴン周辺が第三軍管区、そしてその南のメコンデルタ地帯が第四軍管区とされていた。当時のサイゴンではバンメトートの失陥の後、南政府軍がこのプレイクの第二軍管区を拠点として、バンメトート奪回の反攻作戦を始めるという推測も語られていた。

だがそれにしても北ベトナム軍の大部隊が接近しつつあるプレイクの南軍司令部はなぜ外部との交信を断ってしまったのか。同じ3月16日の午後になって真相の一端がわかってきた。南ベトナム軍のレ・バン・ガ少佐が新たな情報を流してくれたのだ。ガ少佐もトイ記者と同様に私の情報源だった。

「第二軍管区は昨日、新たな前線司令部をニャチャンに設置したとのことです。プレイクの第二軍管区司令部の機構を一部、裂いて、海岸沿いのニャチャンに移したのです」

その移動のためにプレイクはサイゴンなどとの交信を一時、停止したということらしい。ニャチャンはプレイクから南東の南シナ海方向へ250キロほども下った有名な海岸の中級都市だった。同じ第二軍管区内にあるとはいえ、北ベトナム軍が攻めてきた中部高原からはかなりの距離にある。南ベトナム政府軍の動きとしてはきわめて奇妙だった。

南ベトナム政府軍司令部はこの日、3月16日の記者会見で同様の内容を公式に発表した。

「第二軍管区は新たに前線司令部をニャチャンに設けることになった。そのためにはプレイクにある同軍管区司令部の機能の一部をニャチャンに移動する。前線司令部新設の目的はバンメトートへの反攻作戦の開始である」

この声明は理屈に合っていなかった。もし北軍が占拠したバンメトートに反撃を加えるならば、その拠点はプレイクが最適である。プレイクからみれば、攻撃目標であるはずのバンメトートとは反対のはるか遠くのニャチャンからの反攻作戦というのはまったく理に合わなかった。しかも北軍との近い距離にあるプレイクの南軍の司令部機能を削り、後方のニャチャンに移すというのも奇妙だった。

翌3月17日になると、新たな情報が多々、入ってきた。そのいずれにも共通していたのは、プレイクの第二軍管区司令部が15日のうちに大部分、ニャチャンへ移動したという点だった。つまり北ベトナム軍が勢いを増す中部高原の要衝プレイクから南ベトナム軍が後方へと撤退したわけである。しかも北軍とはその時点で戦闘を展開しないままの引き揚げだった。

さらに翌18日にはあらゆる情報が一つの明快な事実を示すようになった。中部高原では南ベトナム政府軍はプレイクだけでなく、そのすぐ40キロほど北にある要衝のコンツムからも全軍撤退を始めていたのである。

プレイクではそこに司令部をおいてきた南ベトナム空軍の第6師団の攻撃機、偵察機、ヘリコプターなどのすべての航空機がニャチャンへと飛び去った。プレイクに残ったのはもはや500人ほどのレインジャー部隊だけで、その将兵たちも飛行場や弾薬庫を自ら爆破して完全退却の締めくくりをつけている。コンツムに駐留していた歩兵第42独立連隊などの地上戦闘部隊も軍事車両を総動員して、海岸部の中級都市ツイホアへと向かった。

ツイホアはニャチャンより北にある海岸の都市だった。そしてプレイク、コンツム両市とも各所で火の手が上がり、無秩序状態と化した、というのだった。

南軍司令部はついに第二軍管区司令官のファム・バン・フー司令官までがプレイクを離れたことを認めた。さらに数千、数万の中部高原の住民が雪崩のように南や東の平野部、海岸部に向かって脱出を始めたという報がサイゴンにも流れた。南ベトナム政府が中部高原の軍事面の最要衝のプレイクとコンツムを放棄したことはもはや明白となった。

(その16につづく。その1その2その3その4その5その6その7その8その9その10その11その12その13その14

トップ写真:ベトナムのスアンロクから南ベトナム軍第18師団の兵士とその家族の物資と避難を支援するためホバリングしている2機のチヌークヘリコプター (1975年4月ベトナム)出典:Dirck Halstead/Getty Images




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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