「男と女」と「戦後80年史」—新作小説に込めた二つの糸

【まとめ】
・新しい小説が完成し、幻冬舎から年明けには出版される。
・今回の小説は女と男の物語、そして日本企業の戦後80年史でもある。
・心配である現日本政治だが、頼りになるのは選挙に行くときの自分の心。
このサイトに連載させていただいていた新しい小説がどうやら完成し、年末か年明けには出版されることになった。
このサイトとはよほど相性が良いのか、2017年に出した『少数株主』もこのサイトで、安倍さんの励ましをいただきながら書いたものだった。
今回のものも幻冬舎からの出版を予定している。
初めての小説を1997年に出してから28年。小説だけでも12冊を超える。エッセイを入れると24冊になっている。
書いているのが愉しい、おのずと昂揚する。それが今回は特に大きかった気がしている。編集者にもトランス状態になっていたのではないか、と言われた。
石原さんのおかげだとも思う。石原慎太郎さんが亡くなって3年余。私にとって、あのセルリアンタワーであったお別れの会の記憶は、新鮮なままだ。
最近、ユーチューブで石原さんがどれほど我が侭な夫であり父親であったかについて観る機会があった。ほとんどは知っていることであっても、その映像を見ながら改めて気づいたのは、青年だった石原さんと壮年になってからの石原さんの顔がまったく違うことだ。芥川賞をとったころの石原さんは、細面で、繊細さがそのまま顔に現れている。壮年になってからの顔は堂々としていて、この世を自分の思うままに捻じ伏せてみせるという意欲と自信とが溢れている。
私の知っている石原さんは、壮年からあとの石原さんだ。
しかし、私は彼の心が青年時代から少しも変わっていないのを知っているつもりだ。
『我が師石原慎太郎』(幻冬舎)に、「2006年11月15日、『火の島』についての最後の電話のとき。石原さんは、電話を切りながら、「またわからないことがあったら、お電話していいですか?」と、とても、とても遠慮しながら私にたずねられたのを覚えている。今思うと、なんだか少し自信なげな、不安さの混じった声だった。」と書いている(242頁)。都知事兼作家の石原慎太郎とは別の声だった。
あれが石原慎太郎の本質なのだと今も思っている。純粋で素直で自分しか見ない人。
今回の小説は石原さんへのオマージュなのだと思う。ポジからネガになった『太陽の季節』のつもりである。
「『石原さんが私になんどもなんども「この世は男と女なんだよ。みんな男と女の物語、恋愛を読みたいんだよ」と言っていた』と私は書いている。そして、そのつもりで新しい小説を書いていることを、私は令和7年の年賀状にこう書いている。
「もちろん新しい小説も書き続けています。石原慎太郎さんに言われた女と男の世界です。
でもそれだけではないもの、横の糸が老人の狂おしい恋、縦の糸が戦後80年史です。」(『年賀状は小さな文学作品』4頁)
そういえば、この本もこのサイトに連載させていただいたのちに本になったのだった。
私はいつも、「この世は男と女しかいないんだよ」と諭してくださる石原さんに、「仰ることはよおくわかります。でも、私は組織と個人が気になってならないのです。」と申し上げてきた。
今回の小説は、年賀状に書いたとおり、女と男の物語だ。そして日本企業の戦後80年史でもある。大買収の時代に日本企業が「幹部従業員協同組合」であり続けてはならない、という警鐘を鳴らしたつもりだ。
さて、天国の石原さん、一読、なんと言ってくださるか。
私は他のサイトなどにも連載しているのだが、このサイトの原稿を綴るときには故郷に戻ったような気がしてくる。独り切りで深夜の書斎にこもっている感覚、自分とだけ向き合っている気がするとでもいえばいいのか。
きっと石原さんも自分の書斎でワープロを叩きながら同じ思いをしていたのではないか、と考えたりもする。
しかし、石原慎太郎は死んだ。もういない。人は死ねば無になる。しかし、文章を書いていた人間はその文章が残る。大量の本が残る。今の時代は映像を含めて電磁的な記録も残る。
しかし、それが死んでゆく者にとっていったいなんだろうか。三島由紀夫は排泄物と呼んだ。彼なりの偽悪なのだろう。
閑話休題。
私はこの夏、とても弁護士業が忙しくて夏休みというものがとれなかった。46年間にわたって弁護士をしてきたが、夏休みが一日もとれなかったのは初めてのことだ。もう子どもも成人して何十年も経っているから、子どもに夏休みを見合わせてやらなくてはならないという義務感もない。休みなるものをとったところで、結局は本を読んでいるか文章を書いているかのことなのだ。
海外旅行は、40代の初めに毎週ロサンゼルスと東京の間を往復する日々が何か月も続いたから、今さらどこかに出かけたいとは思わない。その後にも毎月のようにニューヨークに出かけたこともあった。
私の師匠であったラビノウィッツ弁護士がいつも言っていた。「仕事があれば南極でも北極でも喜んで行くさ。でも遊びで海外へ出かけることにはまったく興味がない。」
彼は、山中湖の別荘で木こりの真似事をするのが趣味で、金曜日の夜に自分で車を運転して別荘に出かけ、月曜日の朝、事務所へそのまま出てきていた。車はトヨタのクラウンだった。
しかし、私に関していえば、実のところは面倒くさがりなのだろうと思わないでもない。
不思議だ。
仕事は少しも面倒ではない。こうした文章を書くのも面倒には感じないどころか、嬉々として勤しんでいる。
今、私は、なぜ日本がアメリカを相手にした戦争を始めてしまったのかについていろいろと勉強している。人にも尋ねる。たとえば大きな疑問の一つが、山本五十六がなぜ真珠湾攻撃をしたのか、である。
アメリカで駐在武官までした彼が、アメリカ人の精神を知らなかったとは思えない。真珠湾を攻撃し、仮に、現実には仕留め損ねた航空母艦も含めてことごとく沈没させるほどの大勝利を得たとして、アメリカが短期講和に応ずると山本が思ったとも考えられない。
山本五十六だけの問題ではない。
例えば『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹 1983年8月世界文化社刊 中公文庫)である。対米戦争について詳細な検討をして、必ず負けると分かっていたのに、なぜ「人間たまには清水の舞台から飛び降りて見るものだ」と結論したのだろうか。そう言ったという東条英機に、なんらかの成算があったとも聞かない。
「空気だ」と説明してくれる方もある。日本は空気で物事が決まる、というのは山本七平の説である。だから、誰もが内心は反対でいたアメリカとの戦争に突入してしまったのだということである。そうかもしれない。
であればこそ、私は心配する。
もしそうだとすれば、日本はまた同じことをするということだからだ。
アメリカとの戦争と言っているのではない。
ロシア、中国、そして北朝鮮という核兵器を保有した国々に取り囲まれているからである。頼りはアメリカの核の傘しかない。それが破れ傘であるかどうかは幸いにして分からない。しかし、ロシアがウクライナに対して脅かしたように、日本に対して核兵器を使用する用意があるといって脅かされたときには、いったい日本はどうするのか。
もちろん、ことがそこに到る前になすべきことがたくさんあって、私の心配ごとなどは杞憂に過ぎないのなら、それが一番良い。
しかし、今の日本の政治はそうした楽観論を許さないような気がするのだ。
そこそこ勤勉に働き、それなりに豊かに暮らしていても、すべては日本が平和であるお蔭である。
私がもしウクライナに住んでいたら、という不安は全ての日本人の不安であろう。
そんなことは忘れて、気楽な気持ちで生きてゆくさというのが、実は一番賢明なのかもしれない。人間、死ぬときは死ぬのである。
一つだけ頼りになると思っていることがある。
それは選挙に行くときの自分の心である。
私は私自身が選挙に行き投票用紙に私なりの意思表示を書き込むときに、いつもこう思っている。
「この私が今していることは、独り切りでしているのではない。見知らぬ100万人、1000万人の日本人が同じ思いで、今日という日に同じ行動をしているのだ。」
トップ写真:イメージ 出典:d3sign/Getty Images
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html


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