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.社会  投稿日:2023/11/16

平成26年の年賀状・「本を読むことこそ我が人生」・「ヘミングウェイの『移動祝祭日』と石原さんのこと」


牛島信弁護士・小説家・元検事)

 この一年間、或る事情があって私の時間は停まっていました。その空間のなかで、ぐるぐるとハツカ鼠のように走り回っていたのです。

 一段落してみると、それもまた人生の一コマだったようです。

 ――「世の中にかたづくなんてものはほとんどありゃしない。ただいろいろな形に変わるからひとにも自分にもわからなくなるだけのことさ」という、漱石の言葉が浮かびます。(『道草』)

 弁護士としての仕事。その合間に独り文章を読み、書くこと。人と話すこと。

 私の心のなかに、「低い雲を黄に赤に竈の火の色に染めた夕陽」(『門』)への憧れがあります。夢を見ているのです。

 夕陽が落ちたら?

 「山のお寺の鐘」を聞くには、未だもう少し時間がありそうな気がしています。

 人とは何か、日本人とは何か、組織とは何か、未来はどうなるのか。そうしたことを考え続けていたいのです。またご報告させてください。

 

『本を読むことこそ我が人生』

【まとめ】

・本を読むこと以上の快楽はない。

・私の好奇心と想像力はとどまるところを知らない。

・過去、なにかがあったこと、なぜそうあったのか、その後どうなったかを知っていると、現在もそのように変わりうると推測ができる。

「山のお寺の鐘を聞く」とは、すなわち死を迎えることである。「未だもう少し時間がありそうな気がしています。」と書いたのは2013年の末のことだから、もう10年も前のことになる。

現在も、未だ寺の鐘を聞くまでにはもう少し時間があると思っている。おかしなものだ。10年1日というわけでもあるまいが、10年前の私は今の私と少しも変わらない。人の心は歳をとらないのだ。

「ただいろいろな形に変わるからひとにも自分にもわからなくなるだけのこと」なのかもしれない。

弁護士としての仕事はあいかわらず多い。その上、弁護士事務所の経営者としても考えなくてはならないことは引きも切らない。

弁護士事務所という組織を経営したくて弁護士になったわけでは毛頭なかった。しかし、100人を超える人の集まりは一定の管理を要求する。なんのことはない、中小企業の経営者である。外に向かってはコーポレートガバナンスについて講釈をしたりするのだが、自らの組織はどうなのか、とつくづくと思うことがある。この組織に属している人々は、それぞれにやり甲斐と幸福感を持つことができているのか、いつも気になってしまう。

こんな中堅企業の経営であっても、誰かが人生をかけて真剣に取り組まなくてはならない。

義務?

幸いに、いっしょに経営に参画してくれる人々がいる。20人を超える。独りではないという思いは、いつも私を鼓舞する。お互いの議論はものごとの筋目を明らかにしてくれる。だからといって、孤独でなくなるというわけではない。世の組織のトップというものは、大小を問わず、一日24時間、同じ悩みを悩んでいることだろう。

「或る事情」というのは、大きな事件があって高等裁判所に係属していたことを意味している。私と共に担当していたチームの面々は高等裁判所の裁判官に事態を正当に理解してもらうことに必死だったのである。「一年間」経って、その努力はそれなりに報われた。「停まった空間のなかで、ぐるぐるとハツカ鼠のように走り回っていた」甲斐があったと嬉しかった。

しかし、終わってみると、所詮「人生の一コマ」でしかないと感じたのだろう。そうしたことの積み重ねで人生の刻が流れ去ってゆき、戻ることはない。裁判制度は「世の中にかたづくなってものはほとんどありゃしない。」の例外ということなのだろう。しかし、裁判は人生の、あるいは私の関わっている分野でいえばビジネスの一部でしかない。その裁判を取り巻く全体像は、片づくことなどありえない。現に失業を心配する裁判官はいないに違いない。時間は未来に向かってどんどんと経過してゆくのだ。振り落とされないだけでも全身全霊をこめなくてはならないことが少なくない。

そういえば、この高等裁判所の件は最高裁に行ったが、結果は変わらなかった。

私は「弁護士としての仕事」を愉しんでいるのだろうか?

なぜ「合間に独り文章を読み、書く」のだろうか?

本を読むこと以上の快楽はない。「そうだったのか」と、知らないでいたものごと、世の中がよりよく理解できた気持ちになることができる。文学よりも経済や政治の本を読むことが多い。私には、現在の文学者の言っていることよりも興味の駆られることがあまりに多いのだ。厳密な論理と証拠に基づく推論の世界にふだん住んでいるせいかもしれない。

私のなかには、晩年「私は聖書と日刊新聞以外を読まない」と言ったというポール・クローデルの境地が理解できるような思いがある。彼は本職の外交官で駐日大使であった一時期もある。そういえば荷風も晩年、鷗外以外は読むに堪えないと言っていた気がする。

だが、私は日刊新聞以外にも本を読む。本には鷗外以外はもちろん、漫画も含まれる。先日『沈黙の艦隊』を読み終わった。初め紙の本を買った。秘書に全12冊です、といわれてとりあえず3冊を頼んだ。手元にきた本をみると一冊で3センチはある。3冊目の途中まで夢中になってよんだところでキンドル(Kindle)のお世話になることにした理由である。劇画であることも手伝っているのか、便利この上ない。一頁全体に潜水艦の一部の絵があって「ゴーッ」というカタカナだけが描かれた本をその厚い本何冊かをもって大阪へ出張できるものではない。キンドルなら、飛行場へ行く車のなか、飛行機の中、飛行場からの車のなか、手軽なことこの上ない。

キンドルについては、知り合いの米国人弁護士に、本の保管スペースの要求に耐えられないのでキンドルにして10年になる。快適この上ないと言う。配偶者も弁護士である彼にとっては、双方の本が自宅のスペースを占拠してしまうことを防ぐ最良の策として始まったそうだが、快適なだけではない。たとえばマークした部分だけを抽出したバージョンを作ってくれというとすぐにできあがる。それを眺めれば、自分がなにを読んだのか、どういうことに感じ入ったのかが一挙にわかるというのだ。

私は、キンドルが出たときに関心をもって調べたところ、その記憶、すなわち本の内容そのものが自分のものになるのではなく、キンドルの記憶装置のなかにしか存在しないということに大きな抵抗があって、相変わらず本を買い続けてきた。

だが、どうやら私にとっても事態は本の大量所有を許されそうにないことになってしまって久しい。次々と買うからどんどんと増える。単調増加である。整理はできない。ゲラの校正の方から引用の該当頁を確認するように言われても、本そのものが見当たらないという哀れなことになってしまうことが重なる。もう一冊買うしかない。しかし、そこにはマーカーも上端を折られた頁も付箋もない。検索機能のある状況で仕事をしている身には恨めしいことである。

それでも、本に触る人生から抜け出ることができるのかどうかわからない。ヘミングウェイのキューバの自宅書斎には9000冊の本があった。石原慎太郎さんの大量の蔵書も寄付されたと聞く。本はそれ自体の生命をもっているかのようである。

本を読む。たとえば漱石の『門』を読む。漱石は何回も繰り返して読んでいる。『心』は毎晩のように聴く。

「低い雲を黄に赤に竈の色に染めた夕陽」という年賀状の一文は、『門』の主人公である大介が人妻である御米と出逢ってしまったとき、性関係を持ってしまう直前の、御米の夫であった主人公の友人と3人で旅行したときに眺めた情景である。

その後、「山の上を明らかにしたまだらな雪がしだいに落ちて、あとから青い色が一度に芽を吹いた。宗助は当時を思い出すたびに、自然の進行がそこではたりととまって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭をもたげる時分に始まって、散り尽くした桜の花が若葉に色を変えるころに終わった。全てが生死の戦いであった。青竹をあぶって油を絞るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである」

以前、鷗外を愛読していたころには、漱石という人はなぜああも三角関係が好きなのかと不思議な気がしていた。しかし、今はわかる。別に漱石は三角関係が好きだったわけでも、いわんや自分の人生のなかで三角関係を実践していたわけでもない。色恋への興味ではない。

「私は倫理的に生きてきた男です」と『心』のなかで先生が言う。漱石の心のなかには、いつも倫理的であるとはどういうことかという問題意識があったのだろう。明治の日本における倫理的とはどういうことか。

それは、漢文学と江戸趣味に育った新興日本の青年が、イギリスという西洋の代表に学びに行くというとことに胚胎しているのだろうと思っている。解決が得られたとは思えない。それどころではない。バブル崩壊から30年。日本は改めての『普請中』なのである。

上記の『門』からのの引用部分は、亡くなった芳賀徹の引用された文章を読んだときに強く印象付けられた部分だった。「青竹をあぶって油を絞るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである」という表現の引用をしてくださった芳賀徹のおかげで、私は漱石についての新しい目を開かれた思いがしたのである。その感激が年賀状での引用になっているのだ。

芳賀徹は、伊東俊太郎とともに、私の尊敬する平川祐弘先生の小学校からの同級生である。平川先生の出版記念会でお目にかかったことがある。平川先生以外のお二人については、その偉大さを知らず、伊東先生にご専門の分野をうかがって、ご本人から「僕はそれほど有名じゃあないからなあ」と言われて平川先生ともども笑われてしまった。伊東俊太郎の名著『12世紀ルネッサンス 西欧世界へのアラビア文明の影響』を拝読したのは、その直後のことである。

この本には驚いた。読んだのは2014年8月1日のことだが、今に至るも私の歴史認識の基本的な骨格の一部になっている。アラビアが、古典ギリシアを保存・発展させたのみならずイベリア半島のトレドの街でヨーロッパに伝えたことが、のちの西洋ルネサンスを用意したとは。そういうことだったのである。そういうことがかつてあったのである。もちろん、こう書きながら私はコルドバにある建築物、赤と白の大柄な縞模様の、奇妙に脚の細いアーチの連続、メスキータを思い出している。観たことはない。しかし画像は世に溢れている。

スペインによるレコンキスタの前、あのトレドの街で、イスラム教の人々とキリスト教の人々はどのように一緒に暮らしていたのだろうか。ロメオとジュリエットのように恋に落ちたカップルもあったのではないだろうか。

私の好奇心と想像力はとどまるところを知らない。

目の前だけを見ていると、その先はわからない。見当がつかない。ただ眼前の風景が次々と変わるのに翻弄されるだけになってしまう。過去、なにかがあったこと、そして、それがなぜそうあったのか、その後どうなったかを知っていると、現在もそのように変わりうると推測することができる。たとえば、AIである。今回のAIのブームが3回目であることくらいは知っていても、それがどこへ我々を連れてゆくのかは、過去に起きたこととの対比で考えるしかない。今回は違うかもしれない、ということもそのなかに含まれる。

現時点で私は、たぶん今回のAIの発展は、過去の歴史に学ぶことが役に立たないほどの決定的な変化を我々にもたらすのではないかと想像している。早い話が、我々はホモサピエンスに追われたネアンデルタール人になってしまうのではないかと恐れているのである。ディープラーニング、深層学習とはそういう地平に我々を連れて行ってしまう可能性を秘めている。汎用人工知能のことである。シンギュラリティのことである。

問題は脳ではない、身体を持つから知性が存在するという批判には大いに説得力がある。私が子どものころ読んだSFの古典、『ドノバン氏の脳』のように、脳だけを外部化すればそれで足りるとは思えない。たとえば、腸内細菌が100兆個あって1.5キロの重さを持つと学べば、それだけでも人間というものについては脳の機能だけを考えれば済むものではないだろうと推測できる。

しかし、その知識も脳に蓄えられている知識である。腸内細菌についての知識も同じである。大脳の新皮質が人間を人間にしていると読めば、主な点は脳なのだという考えに落ち着く。

どこへ人類が行くのかわからない。

私の頭のなかにあるのは、「キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法に過ぎない」というユヴァル・ノア・ハラリの命題である。その著『ホモ・デウス』下巻210頁に出ている(河出書房新社、2018)。

トマトを食べる度ごとに、私は奇妙な感慨を感じないではいられないのだ。

 

ヘミングウェイの『移動祝祭日』と石原さんのこと

【まとめ】

・作家は自分にしか関心を持たない。我が侭な生き物である。

・47歳の私も若くて、野心的で、飢えて、悶々としていた。

・74歳の私の心は22歳のヘミングウェイと変わらない。私はいま、新しい刺激に満ち満ちていると感じている。

「彼女以外の女を愛する前に、いっそ死んでしまえばよかったと私は思った。」(アーネスト・ヘミングウェイ 『移動祝祭日』高見浩訳 新潮文庫 299頁)

もちろん、「私」、すなわちヘミングウェイは死ななかった。であればこそ、62年足らずの人生で4回の結婚をすることができたのだ。この印象的な一文にひかれてヘミングウェイの妻たちについて書いた本があるほどである。(『ヘミングウェイの妻』(ポーラ・マクレイン 高見浩訳 新潮社 2013)

「ニューヨークで用件をすませてパリにもどったとき、私は、オーストリアまで自分を運んでくれる最初の汽車をつかまえるべきだった。けれども、そのときパリには愛している女性がいて、私は最初の汽車にも、次の汽車にも、その次の汽車にも乗らなかった。」

そのことについて、上記の後悔の文章を35年も経った後になって遺作『移動祝祭日』に書くことになる。それを我々は読むのである。

ヘミングウェイ26歳。パリにいて、ヘミングウェイをオーストリア行きの汽車に乗せなかった「愛している女性」とは、彼の二人目の妻になるポ-リーン・ファイファーである。4歳年上である。ヘミングウェイは26歳、「愛している女性」は30歳である。

オーストリアにいたのは第一の妻であるハドリー・リチャードスンである。ヘミングウェイ22歳、ハドリー30歳のときに結婚し、3か月後には新婚の二人はパリに行く。一人目の妻は8歳年上、二人目の妻は4歳年上ということになる。年上の女性に惹かれる性向があったのだろう。

『移動祝祭日』の訳者である高見浩氏によれば、

「駅に積まれた丸太の山をかすめて汽車が進入し、線路脇に立つ妻と再会したとき」のわきあがった胸のうちが冒頭の引用である。

その感慨は、こう続く。

「彼女は微笑んでいた。うららかな日を浴びている。雪と陽光で焼けた愛らしい顔。健康そうな肢体。赤身を帯びた黄金色に輝く髪。それは冬のあいだに野放図に美しくのびていた。そして、並んで立つバンビ君は、金髪の、ずんぐりした体躯もあどけなく、リンゴのような冬のほっぺたをして、ファアアールベルグの元気いっぱいの男の子のように見えた。」

二人の間の男の子はヘミングウェイ24歳のときに生まれている。妻ハドリーは32歳。名前をジョンと名付けられた。作品のなかではバンビという名前で登場する。

オーストリアのファアアールベルグ州のシュルンスという町で3人は冬を過ごす。パリのアパルトマンは寒くてたまらなかったというのである。二人だけならいいけれど、バンビ君には冬のパリは辛すぎると。

ヘミングウェイは続ける。

「私は彼女を愛していた。彼女だけを愛していた。二人きりになると、素晴らしい、魔法のようなときを彼女とすごした。私は仕事に励み、彼女と忘れがたい旅をし、これでもう二人は大丈夫だと思った。けれども、晩春になって山を離れ、パリにもどってくると、またもう一人の女のことがはじまったのだ。」

そしてヘミングウェイは第一の妻と別れる。ヘミングウェイ27歳である。すぐに二番目の妻と結婚する。

その二番目の妻とも13年で別れ、すぐに三番目の妻マーサ・ゲルホーンと結婚する。

三番目の妻とは5年で別れ、そして4番目で最後をみとった妻メアリー・ヘミングウェイと結婚することになる。二番目の妻も三番目の妻も、どちらも自分の考えをはっきりと持ったジャーナリスト、作家の女性だった。

四番目の妻は?

メアリーとマーサは同じ歳である。ヘミングウェイからは8歳年下。3番目で年上の女性しか愛せない状態からやっと脱出できたのか。

『移動御祝祭日』のなかにこんな一節がある。若い、未だ無名のヘミングウェイがカフェを執筆場所としていたときのことである。

「一人の若い女性が店に入ってきて、窓際の席に腰を下ろした。とてもきれいな娘で、もし雨に洗われた、なめらかな肌の肉体からコインを鋳造できるものなら、まさしく鋳造したてのコインのような、若々しい顔立ちをしていた。髪は烏の羽根のように黒く、頬にかかるようにきりっとカットされていた。

ひと目彼女を見て気落ちが乱れ、平静ではいられなくなった。いま書いている短編でも、どの作品でもいい、彼女を登場させたいと思った。しかし、彼女は外の街路と入り口の双方に目を配れるようなテーブルを選んで腰を下ろした。きっとだれかを待っているのだろう。で、私は書き続けた。」

文章を書き続けながら、彼は「顔をあげるたびに、その娘に目を注いだ。」

「ぼくはきみに出会ったんだ。美しい娘よ。君が誰をまっていようと、これきりもう二度と会えなかろうと、いまのきみはぼくのものだ、と私は思った。きみはぼくのものだし、パリのすべてがぼくのものだ。そしてぼくを独り占めにしているのは、このノートと鉛筆だ。」(17頁)

おもしろい書き分けがある。

この美しい娘をみて、「私は書きつづけた。」という最初の場面では、書いているヘミングウェイにとって「ストーリーは勝手にどんどん進展していく。それについいてゆくのが一苦労だった。」とある。

「ぼくを独り占めにしているのは、このノートと鉛筆だ。」と書いた後、ヘミングウェイは、「それからまた私は書きはじめ、わき目もふらずストーリーに没入した。今はストーリーが勝手にするむのではなく、私がそれを書いていた。」

それからは、「もう顔をあげることもなく、時間も忘れ、それがどこなのかも忘れて、セントジェームズを注文することもなかった。」

美しい娘が店に入ってくる前に、書いている小説のなかの少年たちが酒を飲んでいるのに渇きをおぼえ、セントジェームズ、あのマルティニーク島産のラム酒を注文する場面があるのだ。

ノートと鉛筆に没頭している間にも時は経つ。「短編を書きあげると、最後の一節を読み直し、顔をあげてあの娘を探したが、もう姿は消えていた。ちゃんとした男と出て行ったのならいいな、と思った。が、なんとなく悲しかった。」

そして牡蠣と辛口の白ワインのハーフ・カラットを注文する。

「短編を一つ書き終えると、きまってセックスをした後のような脱力感に襲われ、悲しみと喜びをともに味わうのが常だった。」

なんという充実した時間だろう。

「パリに渡った当時のヘミングウェイ夫妻の懐は決して貧しかったわけではなく、ふたりはむしろ裕福な部類に属していた。」ハドリーが実家などからお金を持っていたのである。「ハドリーの得ていた年収だけでもパリの労働者の平均的な年収の約十倍にも匹敵していたという。」訳者の高見氏の解説である。(314頁)

意図的に選び取られた貧しい暮らしぶり。

「一介の無名の若者が異郷の地で貧困と戦いながら愛の巣をはぐくみ、文学修行に励む――そのロマンティックなイメージにひたり、そのイメージを生き切ること、それが当時のヘミングウェイを駆り立てていた原動力だったのだろう。

当時のハドリーの資産、それがもたらした収入について、ヘミングウェイは本書で一切触れていない。ということ自体、彼の依拠していたロマンティックな虚構のイメージが、その人生にとっていかに重要だったかを物語っている。」

高見氏はさらに続けて述べる。

「自伝とは、往々にして過去の再現というより過去の再構成であることが多い。作者の恣意が、そこで大きな役割を果たすのは、いわば不可避のことと言っていい。」

私はさらに想像を広げる。

自伝は伝記とは異なるのだ。自分が自分の過去について振り返ってそれを文章にするとき、作家は自らの過去を創っているのだ。そこでは記憶の取捨選択は恣意ではなく、必然として行われる。「確かにこうだった」と。自分の人生の回想なのだ、自分の記憶以上に確実なものがあるはずがない。これが真実だという老作家の思いのまえで、事実はどれほどの重みももちはしない。

その証拠のようなエピソードを高見氏はその解説の冒頭に書きめてくれている。

「それは、彼女にとって忘れがたい会話だったことだろう。一九六一年三月のある日、夫とともにアリゾナ州で休暇を過ごしていたハドリー・モーラーのところに一本の電話がかかってきた。声の主は三十四年前に別れた最初の夫、アーネスト・ヘミングウェイその人だった。ヘミングウェイは言ったという。実はいま、君と暮らしたパリ時代の思い出を綴っているんだが、二、三、どうしても思い出せない事柄があるんだ。あの頃、若い作家たちを食い物にした男女がいたんだが、なんという名だったかな?」

その男女の名前を答えながら、「ハドリーは久方ぶりに聞く前夫の声に、深い疲労と悲哀の色を感じ取って胸を衝かれたという。ヘミングウェイ死す、の報に彼女が接したのはそれから三カ月余り後のことだった。」

もちろん、ヘミングウェイは『移動祝祭日』を書き終えようとしていたのである。高見氏は「本書自体ハドリーに対するオマージュだと見るむきがあるのもうなづけよう。」と評する。

そのとおり。若かった自分のそばにいた女性へのオマージュは若くて、無名で、野心に駆られていた自分自身へのオマージュにほかならない。

作家は自分にしか関心を持たない。我が侭な生き物である。

私自身、27年前に『株主総会』を出版したそのあとがきに、自らのうちにあった抑えがたい欲求として「年齢的に若くなくなったこと」をあげている。「人生は移動祝祭日の連続ではありえず、必ず終わりがある。」と記しているのだ。今となると出版した47歳は若い。私も若くて、野心的で、飢えて、悶々としていたのだ。

私はこの本を読むたびに石原慎太郎さんのことを想う。ヘミングウェイと石原さんは似ている。なによりも、我が侭一杯の人生を生き切った男として。石原さんの『「私」という男の生涯』は、その間の事情を語って余すところがない。あれが石原さんの我が生涯なのである。

実は、心ある文学史家が、その石原さんの書いた我が生涯の事実について探求し、ここが違う、これが真実だと書いてくれることを私は愉しみにしている。つまり、加藤周一における『加藤周一はいかにしして「加藤周一」となったか』(鷲巣力 岩波書店 2018)であり、江藤淳における『江藤淳は甦える』(平山周吉 新潮社 2019)である。

私は石原さんについて『我が師石原慎太郎』(幻冬舎 2023年)を書いた。尊敬する平川祐弘先生にお贈りしたら、

「牛島信は、このすらすらと綴った私語りで、ついに日本文壇史の中に名を連ねることとなりました。」と感想を書いてくださった。

私語りか、と思った。そう見えるのか、という軽い驚きであり、そうなんだなという納得であった。

『移動祝祭日』にはエピグラフとして、

「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日なのだ。」とある。

石原さんの最初の作品『灰色の教室』には、

『この年頃にあっては、欲望が彼等のモラルなのだ。

自己の中に深く入り込んでいくには、彼等にとって不可能な秩序が必要だったのだ。人々はこれらの悲劇的な、落ち着きのない魂の呼吸しているこの旋風に依って醸し出される速力の為に悩まされるのだ。それは、ほんの子供らしいことから出発する。そして人々は始めてただ遊技をしかそこに見かけないのである。

       ――コクトー「怖るべき子供たち」』

という長いエピグラフがある。若くて無名の石原さんが、どんなにエピグラフが大事だと思っていたのかは、上記の本に『太陽の季節』で文学界新人賞に応募する際のエピソードとして出ている。

「当時はこの国ではまだあまり知られていなかったジャン・ジュネか、彼に影響を与えたマルキ・ド・サドのどちらかの刺激的な言葉を選んでエピグラフに載せようと思い、サドの言葉にした。」(94頁)

もっとも選考委員の武田泰淳の意見では「冒頭のあのサドのエピグラフは外したほうがいい」と編集者に言われて、「あれがついていると落選ですか」と質だし、慌てて否定されたので簡単に同意したとある。(95頁)

私は?

若くて、野心的で、飢えて、悶々としていた。私も同じだったのだ。

パリでもなく、どこでもない異国に若い時代をすごすことはなかった。

私の移動祝祭日があるとすれば、東京しかない。移動しない祝祭日である。

その代わり、東京が変化してくれる。私は昔、若いころ、木賃アパートに住んでいたのだ。それから50年余。確かに、祝祭の連続ではあったと思っている。

そういえば、5歳年上でヘミングウェイの同時代人といってもよい芥川龍之介は、なんども隅田川について書いている。大川、と呼んでいるが、そこを幼児のときから中学を卒業するまで毎日見ていたと、住まいが変わって月に二、三度出かけて行って川面を眺めるようになっても、懐かしい光景としてしじじみと思い出している。彼が自殺の直前に書いた『或阿呆の一生』には1927年6月20日と日付が記されている。相互になんの因果関係もありはしないが、その直前、ヘミングウェイはハドリーと正式に別れすぐにポーリンと結婚している。それから100年。『侏儒の言葉』を書いたあれほどの知性は日本に孤立したままでいる。日本語だからである。

久しぶりに『移動祝祭日』を読み、高見さんの解説に到るに及んで、私は自分が生まれ変わった気がした。74歳の私の心は22歳のヘミングウェイと少しも変わらないと感じたのだ。私はいま、目のまえが新しい刺激に満ち満ちていると感じている。

トップ写真:アメリカのジャーナリスト、小説家、短編作家、アーネスト・ヘミングウェイ(1898-1961)出典:Bettmann /Getty Images




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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