ベトナム戦争からの半世紀 その19 悲惨な大敗走の原因とは

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
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写真)アメリカ空軍第3戦術戦闘航空団司令官ロバート・アッカーリー大佐の案内で、ビエンホア空軍基地を視察した。ベトナム共和国国家元首グエン・ヴァン・チュー氏(真ん中右)(1965年1月6日、ベトナム、ビエンホア)[/caption]出典)Underwood Archives/Getty Images
まとめ
・逃げる南ベトナム軍への全面追撃が始まり、戦況は悪化の一途
・地元の一般住民を巻き込み、多くの犠牲者を出す
・道路選びが明暗を分けたか
南ベトナム軍の中部高原の要衝放棄に対して北ベトナム軍は当然ながら、千載一遇の絶好機とばかり猛烈な追い撃ちをかけた。南側の混乱と敗走は前回のように現地からの新聞記者の報道によっても首都サイゴンに伝えられた。北ベトナム軍は現地の総司令官のバン・チエン・ズン人民軍参謀総長が下した中部での全面追撃の命令が功を奏した。
南ベトナム側ではグエン・バン・チュー大統領が中部高原の全部隊の撤退路として国道7号線という悪路をあえて選んでいた。中部高原の要衝のプレイクやコンツムから他の地域に通じる要路としてはまず国道19号線というのがあった。この道路は中部高原から東の海岸に向けて通じていた。さらに国道14号線があった。この道路は中部高原から南へと伸びる国道だった。だがチュー大統領はこの二つの国道をあえて避けて、国道7号線を選んだ。この道路は国道とはいえふだんは軍民いずれでも使われることが少なかった。まだ補修のできていない難所や悪路があったのだ。
チュー大統領が19号線や14号線を避けたのはいずれも中部高原に展開した北べトナム正規軍にとって距離がわりに近く、大兵力を集中しての猛攻撃が容易にできるだろうという観測からだった。ところがこの7号線を選んだことがかえって南軍部隊を不利にして、反撃や迎撃を難しくした。まず南側の部隊の撤退には将兵の家族に地元の一般住民が加わり、軍民混合の大集団となった。南軍が軍隊の機能を発揮して、追撃してくる北軍へ反撃することを難しくしたのだ。
なにしろ7号線での南側の撤退は戦車や装甲車の行列とともに一般の乗用車やトラックが住民の家財を山のように積んで、のろのろと走っていく。その道路もふだん使われることが少なく、あちこちで橋が壊れ、路肩が崩れている。そのたびに応急の修理工事をするので全体の行進がさらにゆっくりとなる。全速力をあげて迫ってくる北ベトナム軍にとっては絶好の標的となったわけだ。
この南ベトナム軍の大敗走について南軍側の幹部将校が詳しく語った証言が後に北ベトナム側から公表されていた。ズン参謀総長の回顧録に記載されたのだ。南べトナム側で中部高原防衛の中核となった第二軍管区の精鋭とされたレインジャー部隊の司令官ファム・ズイ・タト大佐の証言だった。タト大佐はこの撤退の途中で北べトナム軍の捕虜となり、その後に敗走の状況を北側に詳しく語ったのだという。タト大佐の証言の骨子を紹介しよう。
「私の指揮したレインジャー部隊は中部高原に隣接するフーボン省に入ったばかりのタンアンという町に着いたところで追撃してきた北ベトナム軍に追いつかれた。悪路の7号線で橋や路肩の修理をせねばならず、撤退の速度は落ちていた。また部隊の戦闘隊形も崩れてしまった。タンアンでは北軍の激しい攻撃を浴び、大損害を受けた。
当初の計画では第二軍管区司令部と戦闘部隊はフーボン省の省都チェオレオで防衛線を築き、機甲部隊や工兵部隊が無事に通過するのを待つことになっていた。だが3月16日に機甲部隊がいざ到着すると、疲労が激しく、それ以上の活動を拒否して省都の内外に車両を雑然と放置し、座りこんでしまった。市内は混乱し、兵士による略奪まで始まった。
翌17日にはチェオレオ周辺にいた南軍第7連合大隊は空爆支援を求めた。その結果、南空軍のA37攻撃機の編隊が飛来したが、まちがって味方の地上部隊を爆撃してしまった。そのため南軍の一個大隊がほぼ全滅した。第二軍管区のファム・バン・フー司令官はその時点で部下に重兵器やその他の軍事物資を捨てて、逃げるように命令した。私も部下たちに車両や砲を放棄して密林に入って逃げるよう指示した。」
以上のタト大佐の証言では南ベトナム軍側にはこの時点でもなお空軍部隊が機能していたことが明らかにされた。北ベトナム側には南領内で使える空軍力はなかった。だがその南の空軍も味方の部隊を誤爆してしまったというのだから、悲惨が悲惨をきわめたわけだ。
タト大佐の証言は続いた。
「敗残兵たちは森の中に身を隠しながらも国道7号線沿いに南へ南へと逃げようとした。しかし同行した家族や数千人もの一般住民が難民となって後についていくので、北ベトナム軍にすぐに発見され、つぎつぎに撃滅された。」
以上が北ベトナム側から戦後に発表された南軍大佐の証言だった。だが当時、サイゴンにいた私も中部高原からの撤退のこうした悲惨な状況を地元のメディアや軍関係者からの情報で知ることになった。
たとえば南軍の一兵士の報告は以下だった。
「反撃したくても一般住民がごった返しているので、動きがとれない。北軍からのシャワーのような砲火のなかで数えきれないほどの兵士や難民がばたばたと倒れていった。」
南軍の武装ヘリコプターのパイロットの一人は国道7号線上を飛んだときの情景を以下のように語っていた。
「7号線上を低空で飛ぶと、道路沿いに死体が無数に転がっているのがよくみえた。軍事車両やその他のトラック、乗用車が炎上して、死体までを焼き尽くしている場面も多数、目撃した。」
(その20につづく。その1、その2、その3、その4、その5、その6、その7、その8、その9、その10、その11、その12、その13、その14、その15、その16,その17, 、その18)




























