ベトナム戦争からの半世紀 その10 革命地区への潜入

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・1974年に南ベトナム中部の革命勢力支配地域への潜入取材を許可され、秘密裏に現地入りした。
・革命側は自陣営の支配区の実態を国際的に示すため、記者に対して軍事・政治・教育などの現地活動を広く公開した。
・革命勢力による闘争の主導者は北ベトナム政府であり、北ベトナム当局は和平協定後も軍事的制圧を目指していた。
私は国道1号線の脇にポツンと1人、座りこんでいた。人も車も往来はきわめて少ない農村地帯だった。そしてただただ左手に白いハンカチを巻いた人物が出てくるのを待った。1974年1月16日の朝、南ベトナム中部海岸のビンディン省の水田の広がる地域だった。
まるでスパイ映画のシーンのような状況に身をおいたのは重要な取材のためだった。パリ和平協定が発効してほぼ1年、南ベトナム領は47省すべて省都や都市部を支配していた。つまりベトナム共和国側のほぼ全土の支配だった。だがパリ和平協定は南の領土の一角は南ベトナム臨時革命政府により支配されていると認知していた。この「革命政府」は実態は北ベトナム勢力の一端だったが、建前としては南独自の民族解放勢力とされていた。そしてその「解放勢力」は南ベトナム領内のある程度の地域を支配していることも事実だった。ただしその地域はその時点ではみな山間部や辺境だったが、革命勢力側はそれを「解放区」と呼んでいた。
サイゴン駐在の各国記者たちにとってその解放区、つまり革命地区の取材は切望する対象だった。和平協定が定義づけた南ベトナム領内の二つの政治勢力の革命側地区というその一方がサイゴンにいては少しも見えてこないのだ。その地区に実際に足を踏み入れて実情を報道することには大きなニュース価値があったのである。私もその取材目的に力を投入した。ではどうしたのか。
当時、サイゴン近郊のタンソンニュット空港の軍事基地部分には和平協定の規定に従い、北ベトナムと南臨時革命政府の両方の軍事代表団が送りこまれてきた。代表団は原則として活動を基地内だけに制限された。だが各国記者団との会見は週に1回、認められた。私ももちろんその会見に出て、革命側の軍事代表の知己を得ることに努めた。そして革命政府の代表に毎日新聞記者として革命地区への訪問取材を要請して、なんとか認められたのだった。
革命側も南ベトナム領内に自分たちの支配地区が厳存することを国際的に知らせたいという意向は明白だった。日本のメディアとしては私がその許可を最初に得た。後で判明したことだが、和平協定成立後の革命地区への最初の訪問メディアはアメリカのテレビ大手のCBSだった。私が二番目となった。
さて取材許可は得たものの、いつどこにどのように出向くのか、想像もつかなかった。だが数日してきわめて具体的な指示が届いた。中部ビンディン省ボンソン郡の国道1号線のビンミン三差路という地点で一定の時間帯に左手に白いハンカチを巻いた人物を待ち、その指示に従え、という通知だった。私の方も右肩にカメラをかけ、その革紐には同様に白いハンカチを巻きつけておけとも指示されていた。
この取材にはその種の秘密性が必要だった。なぜなら南ベトナム政府の法律では革命地区への出入りが禁止されていたからだ。その法律が外国人記者に適用されるか否かは不明だったが、革命地区との境界線では戦闘がいつ起きてもおかしくはなかったのだ。
やがて私は目つきの鋭い中年の農婦が白いハンカチを左手に握り、それとなく合図を送ってくるのに気づき、彼女の跡に後った。国道を離れ、水田地帯を抜け、ひたすら歩いた。丘を越え、森を抜け、小さな集落を通り、私の案内役は頻繁に代わっていった。やがて明らかに武装ゲリラとわかる青年4人が先導するようになった。4人ともこれまで写真でみてきたような典型的なゲリラの服装だった。黒い上着に同じ色のだぶだぶのズボン、足はゴム製のサンダルで、3人ともAK47という小さな銃も持っている。カラシニコフとも呼ばれるこの銃はソ連で初めて製造され、共産主義国一般に広まった性能のよい武器である。そんな革命側の武装ゲリラの護衛されて歩くことにはなんともいえない緊張感があった。サイゴン側ではこの種の革命側武装要員は明らかな敵なのだ。
やがて着いたビンディン省ホアイニョン郡ホアイチャウ村というところで、地元の農家の一室を与えられ、その夜は初の宿泊となった。食事もかなり美味のベトナム料理だった。翌日にビンディン省革命委員会の代表や地元の解放軍の司令官という人たちが登場して、私を公式に出迎える会合が開かれた。革命側の代表たちは「日本の人民との連帯につながる日本の記者の来訪を歓迎する」と述べ、アメリカや南ベトナム政府への闘争の言葉も当然ながら強調した。私は取材の希望として革命地区での軍事、政治、経済、教育などの活動をみたいと要請した。その要望はほとんどかなえられた。
私は結局、ビンディン省内の革命地区で旧正月のテトをはさんで合計10日間を過ごした。ホアイニョン、ホアイアンという二つの郡内の計6つの村を訪れた。全日程を通じて、まず英語の通訳2人、省や郡の革命委員会の幹部2,3人、そして明らかに軍人とわかる2,3人が一貫して同行した。私の訪問はハノイ放送でも報じられた。革命側としては自陣営の支配区の実態を国際的に知らせる重要な機会だったのだ。私のために送られてきた通訳2人はいずれも北ベトナムの外交学院出身で、立派な英語を話した。そのうちの1人はビンディン省の山岳地帯に潜伏する北ベトナム人民軍の正規軍師団本部から派遣されてきたと率直に告げた。この時点で私はベトナム語もかなり習得していたので、ベトナム語で話しかけられることも多かった。
ビンディン省はフランスとの戦闘の当時から革命勢力が強い地域だった。その地域では農民一般にまでアメリカ側、サイゴン側と戦うという意識が浸透しているようだった。和平協定が発効したとはいえ、南ベトナム政府軍からの砲撃や空爆はなお起きるとして警戒を保つ状態も実感できた。
革命地区を支える両輪は人民解放軍と人民革命委員会だった。解放軍は正規軍、地方軍、地区ゲリラの3段階に分かれる。そのうちの最大戦力となる正規軍は疑いなく北ベトナムから送り込まれた人民軍の正規師団だった。人民軍将兵はみな階級を明示する肩章をふだんはつけているが、南ベトナム領内に入ったとたんにその肩章を外し、南ベトナム解放戦線軍将兵になるという仕組みを当事者たちが淡々と話してくれた。
こうした体験を通して、私が確認したのはこの革命勢力による闘争はあくまで主体は北ベトナムの政府であり、国家であること、そしてその北ベトナム当局は和平協定にもかかわらず、南ベトナムを軍事力によって打倒すると決意していること、だった。
(その11につづく。その1,その2,その3,その4,その5,その6,その7,その8,その9)
トップ写真)ビンディン省の田園風景(イメージ)
出典)Photo by Nguyen Minh Tam/Getty images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

