「令和6年の年賀状」団塊の世代の物語(8)
【まとめ】
・過去の記憶は、未来において初めて創り出されるものだ。
・老いを感じ、死を意識する中で、過去の記憶は変化し続ける。
・未来への期待と死への恐れを抱きながら、人生の意味を探求する。
明日は今日の翌日ではなく、毎日が新しい日です。
へミングウェイは晚年に『移動祝祭日』を書きました。若く貧しかったパリの日々の回想です。
でも本当は裕福だったと知って、私なりに考えるところがありました。
過去とは、現在の時点で創りだす昔についての記憶なのです。
世界的な文豪となっていた62歳のへミングウェイの記憶では、金がなく腹を空かせてパリをさまよっていた青年こそが自分だったのでしょう。
七四歳の私にとっては?私は六〇代以前をどう思い返すのか。
新しい日が、私の過去の記憶をこれから創ります。私の記憶する過去は、未来になって初めて創られ、そのときに過去として心に刻まれるのです。
週2回の運動による身体がそれを支えています。
「私の記憶する過去は、未来になって初めて創られ、そのときに過去として心に刻まれるのです。」
どの未来のことなのだろう?つまり、74歳のこの男は、果たして何年後の現在を想定して「過去として心に刻む」などと言っているのだろう?
そういえば石原さんは、「誰もそうとは知っていても、最後の未来について自分自身のものとしては信じようとはしない。しかし、予感するようにはなる。」と書いている。(石原慎太郎『私という男の生涯』10頁 幻冬舎)80歳を過ぎていた石原さんの思いである。
もちろん最後の未来というのは死のことである。では、今の私は最後の未来について予感しているだろうか?
石原さんは上記の直前に「七十の半ばを過ぎて折節に自分の老いを感じ認めるようになると、誰しもがその先にあるもの、つまり死について、それも誰のものならぬ自分自身のこととして予感し意識するようになるようだ。」と書いている。
私はもうすぐ70の半ばを過ぎる。しかし死を予感しても意識してもいない。それは自分の老いを感じ始めていないからなのだろうか。
いや、私は今年に入って顧問弁護士を相手に遺言書の相談を始めたくらいなのだから、自分の死を予感し意識しているということではあるのだろう。日常生活のうえでも、たとえば歯と歯の間の隙間が大きくなってくると食事のたびに感じさせられるし、なんということがなくても簡単に咳きこむ。朝ベッドを出るのに腰が痛い。どれも老いの兆候に違いない。それどころか老いそのものかもしれない。
「週2回の運動による身体」があるがゆえに、私は老いを認めないでいられるつもりでいるのだろうか。だから自分自身の死を予感しないのだと言いはるのだろうか。
そうなのだろう。たぶんそうに違いない。
私は、66歳から運動を始めた。ことに4年前コロナになってからは1回を増やして週2回にした。その定期的運動のおかげで筋肉量が増えていることを感じている。触れればわかる。大腿筋や大臀筋は確実に太く強くなっている。これから先、もっともっとそうなるだろう。
しかし、筋肉と内臓は違う。筋肉が強くなっても、内臓や血管が元に戻るわけではない。老化は多かれ少なかれ日々確実に進んでいる。
でも、自分自身のものとしての死が近づいていると信じてはいない。いや、別に信じられないわけではないし、理窟もよくわかっている。ただ実感がないというだけなのだろう。これまでの何十億の死もそれぞれの人によってそのように迎えられたのだろうか。
では、私はいつになったら過去を思いだしたいという気になるのだろうか?
「現在の時点で創りだす昔についての記憶」が過去だとすれば、私はいつになったらその時点が現在であるとして、過去なるものを創りだすときがついに来たと考えるつもりでいるのだろうか?
たぶん、私は途方もない野心家なのだ。滑稽なほどに、といってもよい。
だから、未だ来ていない74歳以降の未来の或る時点を、最後の時点である死の直前と思い定め、そのときになって初めて過去として認知し創り出すつもりでいるのだ。だから、私にとって当面のところ過去などというものは存在するはずがない。まだ来ていないのだから、過去として創り出していないのだから。
だがそうはうそぶいてみても、「2歳か3歳のとき」のこととして平成31年の年賀状に書いている若松の小石海岸での記憶は、既に来た過去についての記憶として心のなかにあるのではないか?
ある。そのとおり。
しかし、未だ来ていない過去についての記憶は未だ存在しない。その過去こそが自分にとって最も重要な過去なのだと言い張るつもりなのだ。
その過去は、「30代の父親が私を両腕に抱いた、腰より下くらいまでの海に立っていました。」という過去の事実を含む、もっともっと長い人生のほとんど全体にわたる、長い長い過去の最後尾の部分になるのだろう。
そのときになったら、ひょっとしたら、私は小石海岸で泣いていなかったという過去を思い出すようになってしまっているかもしれない。
そう、未来の或る時点で私が過去をそう「創りだせば」、それが過去になってしまうのだから、そうなることはあり得ることだ。たとえばヘミングウェイがそうだった。
なんにしても重要なのは、過ぎてしまった時間ではない。これから来る時間、やがて過去になってしまうところの、しかし今の時点では未だ来てないところの未来の時間なのだ。
そこまでの日々には、どれほど甘美な人生の瞬間が待っていることか。
私の心はときめかずにはいない。どんな至福の瞬間が私を待っているのかという期待、胸の高鳴り。
しかし、或る意味では恐ろしい話だ。
私は22歳のときに要町にある鉄筋コンクリートのマンションの小さな部屋、1Kのバストイレ付の快適な区画に引っ越した。月2万9000円の家賃だった。それまでの6畳の木賃アパート暮らしで隣人の気配を常に感じていた生活からは、私にとってなんとも夢の空間への飛躍だった。
小岩に住んでいた郵便局に勤めているという若い夫婦が大家さんだった。その方の公団住宅にあるご自宅に伺い、その後は奥さんが更新のために私の1Kの小さな区画に見えたこともある。
何人かの大切な方を迎えた。初めて出前をしてくれた近くのABCという洋食屋の店員の方は、凄いね、6階なのにエレベータがないんだ、と弾んだ息でなかば感心してくれた。
私は結婚するまでの3年間、そこに住んでいた。いま思い返すとたったの3年。それからもう49年。鈴木さんという名の大家さんとは、ずっと年賀状を交換していた。今年も差し上げた。お二人からはいただいたのだったかどうか。
その間に過ぎた時間。そこでは司法試験も受けたのだった。カップヌードルにネギを刻んでたくさん入れ、さらに生卵をいれてかき混ぜる。スープまで飲んでしまえば完全食品だと一人納得がっていた。司法試験の日もその朝食をとった記憶がある。
しかし、あそこでの記憶は、死ぬ直前には、過去として回想されないかもしれない。
ヘミングウェイがフィッツジェラルのくれた『日はまた昇る』出版に際しての貴重な助言、そのおかげで素晴らしい作品に仕上がったことをすっかり忘れてしまったように。私にとっては大事な青春の輝きだったのに。
ちなみに冒頭の「毎日が新しい日です。」というのはヘミングウェイの言ったというEvery day is a new day.の訳である。彼の『老人と海』のなかに出てくる。
私には、『移動祝祭日』の末尾、本当は裕福だった最初の妻ハドリーとの生活について、「初めてのパリ生活は、こんな風に二人とも貧しくてもとても幸せだった。」と書かずにおれなかった理由がわかるような気がする。私はその部分を原文で29歳の11月11日に読んでいる。それは私が検事をしていたころで、豊かになりたいと願って弁護士に転職することに決めたころのことだ。
4回離婚し3回結婚したヘミングウェイにとって、その最初のパリでの生活ほどの倖せは、どんなことも、ノーベル賞すらも、もたらしてはくれなかった。であればこそ、自殺する直前のヘミングウェイが自分の60年の人生での最も大切な記憶として心に抱いていた「過去」がこれだった、ということなのだろう。
人はそのように考え、記憶し、死んでしまうもの。
団塊の世代の物語(8)
オークラの客室フロアへ通じるエレベータは、ホテル発行のカードがなければ動かない。
英子が鈍い金色のオークラ発行のカードをハンドバッグから取り出して、各フロアの数字の並んだ下の黒い接触部分にあて、紫色に小さく輝いたのを確認してから32階のボタンに触れた。
「ほー」
3209号の部屋にはいると、三津野は、照れ隠しにまっすぐに窓に歩み寄ってレースのカーテンを開けようとしてカーテンに触れた。「右のレースの書いてるボタンよ」と英子の声が後ろからした。言われたとおりにボタンを押すとかすかな音を立ててカーテンが上に巻き上げられていく。すこしずつ現れる窓の外に溢れるビルの光に大きく吸った息を吐いて挨拶をする。三津野のオフィスのあるビルも遠くに見えた。
「コーヒー淹れます?」
英子が三津野の背中に向けて声をかけながら近づき、左に並んだ。
「いや、いまはいらないな」
と答えてから、
「あそこ、あそこに僕いつもはいるんだ」とガラス越しに丸ビルを指さした。89年前、昭和10年に三津野の父親がサラリーマン生活を始めた場所でもある。もちろん建て替えまえの丸ビルである。未だ新丸ビルはなかったときのことだ。
英子が「何階?ここからあなたの部屋、見えるの?あなたの座ってる椅子、わかる?」とさらに寄り添う。身体ぜんたいが触れる。
「そりゃムリだよ。わかりっこないさ」
「残念」
英子は丸ビルの方角を見つめている。三津野はコーヒーテーブルの横にある肘掛け椅子に腰をおろすと、両脚を長く伸ばしてた。
「それより、僕の落語、続けさせて」
「聴きたい。続けて」
英子はそれだけ言うと、三津野の目のまえのソファに脚をそろえて腰かけた。真紅に近いハイヒールが燃えている。
「ありがとう」
伸ばしていた両脚を戻すと、三津野はハイヒールから視線を外し、英子の目をのぞき込みながら話をはじめた。
「戦後日本の歴史と構造そして復興と発展。それが現在のコーポレートガバナンスの必然性につながるという話になる。」
「いいわね」
英子は三津野を吸い込んでしまいそうなくらいに見つめたままだ。
「後編はJDCのことから始めることになる。ジャパニーズ・トラディショナル・カンパニーだ。
「知ってる。峰夫がいつも言ってたもの」
「そうかい」
三津野は英子が亡くなった男に触れたことが不快な気ばした。そんな自分が少し不思議だった。
「そうそう、言っとかないと。僕の話の相当部分は大木先生に教えてもらったことなんだ。彼はメディアの取材をよく受けるからね。『メディアの方には、いつも熱を込めて話す。なぜなら、と僕は前置きをするんだ。『日本の裁判システムは未だ発展途上なのでね。コーポレートガバナンスの監視役はメディアしかないのが現実なのです。独立社外取締役ひとつをとったって、早い話がおめでたい性善説に乗ったしろものじゃないですか』って説くんですよ』って言ってる。ま、受け売りだ」
「でも、あなたに聞きたい。あなたが大木先生の喋ったことのうち自分の考えとして受け入れたもの、それを聴きたいの。半導体も入っているんでしょう」
「そうだよ。聞いてくれてありがとう」
英子が、突然手を胸元へ上げ、手のひらをまっすぐに伸ばして拍手をした。三津野は英子を抱きしめたい衝動に駆られる。しかし、いまは落語の続きだった。
「例え話を一つ。寿司屋での前編の復習だ。
僕のところへも、コーポレートガバナンスの話を聞きにたくさんのメディアの方々が訪ねてくださる。そのときに僕は、時間の許すかぎり、手始めにこの話から始めることにしている。
僕は経団連でその種の委員会の役員をやっていたからね。メディアの方がわざわざ訪ねてくださる。いつも真剣勝負だ。」
「そうね、峰夫もそう繰り返してた。私、弁護士でもない峰夫がなぜ裁判所の話なんかと思って聞いていたけど」
「そうかい」
またあの不快感がこみ上げた。どうしたというのか。
「始まりは『もしあなたが1980年代のアメリカのビジネス・パーソンなら?』という設定だ。でも、そいつは前編で、さっき寿司屋でやったから、省略だ。でもプラザ合意だからね、大事なのは。そこに戻って来る、たぶんなんども」
「プラザホテル、よく知ってる。なんども泊まったわ」
<誰と?>
という問いをやっと抑え込んだ。
「実は、前編には前書きがあってね。
それが『戦後日本の企業史の真実』ってわけだ。」
「なんだか凄いお話なのね」
「どうかな。とにかく『聞き給え』ってとこだ。いいかい。」
「ランボーね、好きよ。Écouterっていうあの響き、とっても素敵」
「お互い、小林秀雄だね、岩波文庫の『地獄の季節』、星一つで50円だったよね」
英子が軽くうなづく。
「戦後すぐ、GHQが財閥を解体したために、三菱地所が陽和不動産と開東不動産っていう二社に解体された。その陽和不動産が、1951年に買い占めにあった。
藤綱久二郎という相場師が、銀座の商店主の金を集めて株の3分の1強を買い占めてしまったんだ。
もちろん、三菱銀行をはじめ三菱財閥の総力をあげての株の買戻しをした。高値での買い取りとなったことは言うまでもない。しかし、なんといっても丸の内の大家で、三菱グループの象徴的な会社だからね。当然の対応だと誰もがおもった。で、この陽和不動産はもうひとつの開東不動産といっしょになって現在の三菱地所になるんだよ。
要するに、株の「持ち合い」による三菱財閥再統合だったってわけだ。しかし、三菱財閥といっても岩崎家はもういない。オーナーはいない。もともと三菱本社の従業員にすぎなかったグループ会社の社長たちが集まって決めたのさ。
幹部従業員協同組合が誕生いたしましたってわけだ。実質は組合、形式は上場株式会社というキメラだ。
上場会社の株の持ち合いの始まりがこれさ。」
「ふーん、それでどうなるの」
こんどは英子が峰夫の名を出さなかったことに三津野はすこしほっと救われる思いがした。そして次の瞬間、声にも表情にも出さずに自分を嗤った。一人のピエロが花の女王の前に座っている図だった。
「上場会社が株の持ち合いをするとどうなるか。
上場の形式をとってはいても、実質は幹部従業員の協同組合となる。お互いに株を持ち合ってはいても、どこも議決権には興味がない。なぜなら、株の持ち合いとは、実質が協同組合である上場会社が、お互いの議決権を、それぞれの上場会社に任せるという約束なんだよ。つまり、ウチはオタクの株を持っている。オタクはウチの株を持っている。議決権?あ、それはそれぞれの株主じゃなくて、発行会社の社長が言うとおりに行使しましょう、ってわけだ。
つまり、社長は株の持合いを通じて疑似オーナーの立場にある。もちろん、協同組合の代表としての機能、その任にある間かぎりの立場に過ぎない。幹部従業員のハシゴを最後まで昇った人間を上場会社の社長と呼ぶだけのことだ。」
ここで三津野は英子の淹れてくれていた紅茶を口に含んだ。アールグレイだった。もう時間が経っているので冷めている。しかし、本当に美味しい紅茶は冷たくなると一段とうまみが増すのだ。
「この話、実のところ大木先生に教えてもらったんだけどね。でも、ビジネスマンの僕の感覚とぴったりと一致する。そういうことだったのか、という思い知らされる気がしたよ。
彼の最初の小説、『株主総会』は30万部のベストセラーになった。知っているよね。総務部の次長が自分の会社を乗っ取ってしまう話」
英子がこっくりとうなずく。ほんの少し微笑んだ気がした。花の女王の謎の微笑ってわけか、と三津野はまた自嘲的な気持ちにおそわれる。峰夫でなければ大木弁護士。まったく、なんなんだ。
「大木先生の本が出たのは1997年、平成9年だった。総会屋問題が巨大銀行首脳の利益供与事件として東京地検特捜部の捜査の対象になったときと同時だった。当時、先生、『特捜部が私の本の広告をしてくれているようなものだ』と上機嫌だったな。私自身の会社、滝野川不動産もやられた。私はそうした部門にいなかったけど、同僚が逮捕されてしまったなあ。
会社のために仕事として尽くして、捕まったらオマエが悪い、でおしまいだった。哀れなものだ。もし自分がその部門に配属されていたら、って思うと、ぞっとしたよ。なにせ新聞に写真まで出ちゃうんだから。ご家族はどうしかなあ。子どもは学校でいじめられたろうと思う。会社の大きな仕組みの片隅で株主総会の仕事に携わっていただけのことなのにね。そして、もう会社は面倒をみてくれない。」
「そうなるのね。」
三津野がティーカップをとりあげたところを見はからって、英子が、「私はあなたが滝野川不動産に入ったことも、そこでどんな仕事をしているのかも、いつも、ずっと、知っていたわ。」
と窓の外の丸ビルの方角をみやりながらつぶやいた。
「え?」
「不思議でもなんでもないでしょ。あなたと私は同じ高校を出ているの忘れたの。」
「あ、そうか」
「そう。そういうこと」
「ああ、最近は同窓会名簿に死去って出てくるようになった。ああ、あいつ死んじゃったんだと思うね」
「人はすべて死す」
「ボーヴォワールか。読んでないけどね」
「そうなの。私もどこかでフレーズを覚えただけ」
「サルトルの浮気に苦しんだと読んだことがある。」
「ええ、彼女は『多くの愛人を作り、別々のアパートに住み続けたサルトルが、ランズマン氏と同じようにボーボワールを肉体的に満足させたことが一度もなかった』なんて手紙に書いているらしいのよ。」
「へえ、そうなの。本は読んだことないけど、でもとっても綺麗な女性だね」
「綺麗、かあ。だけど、フェミニストの彼女には侮辱かもしれない」
「綺麗っていうの、変なの」
「いや、美人という表現じたいが女性を性の対象としてしか見ていないことを示しているって感じる人もいるってことじゃない」
英子はその場で座り直すように腰を動かすと、
「ちょっと待って。私は美人?」
「一般的に、それとも僕にとって?」
「どちらとも答えて」
「厳しいね。
お答えします。
一般的にいって美人だ。とっても。昔も今も。そして、僕にとっては美人であるよりももっと大事な部分でつながっている。そして、つながりたい」
三津野がそういうと、英子はベッド脇のコントロールパネルを摘みあげて、ルームライトを消し、さらにベッド灯も消した。部屋はほとんど真っ暗になった。
しばらく二人とも声を出さない。
「来て、触って。そして掴んで」
英子は一気に言った。
ベッドのなかでもう衣服は脱ぎ捨てている様子だ。大きなダブルの白いシーツのかかった毛布のしたに隠れている。さっきまで来ていた服はいつの間にはきちんとたたまれて、長いソファにとそろえてかけられている。もちろん下着は上からみえないようになっていた。一番上にはセーターが二つ折りに広く折られて、カバーになっていた。
三津野は「わかった」とだけ言って、ベッドの脇でネクタイを取り去りワイシャツを脱いだ。靴を脱ぐと、あとはズボンをゆっくりと下げ、折り目にそって壁の向こうにあるハンガーにかけ、ベッドの脇にある肘掛け椅子に軽く腰をおろすと、もうパンツ一つの裸に両脚ハイソックスだけという間の抜けた格好だった。椅子に座ったままハイソックスを脱ぐといつもの習慣でひじ掛けに垂れ下がるように左右そろえて置いた。
英子が大きなシーツの下の毛布を少しめくって、隣にくるように促す。
三津野はパンツだけを履いた姿でベッドとシーツの間に滑り込んだ。この7年間にわたって鍛えた太腿とお尻が、我ながらほれぼれするほどたくましい。
英子の両腕が三津野の上半身を絡めとった。
<昔なら、もう勃起していたのだが>
要らざる思いを抱いた。
英子がからめとったまま、三津野のパンツをはぎ取るとその上に全身でのしかかった。
英子の大きな乳房が三津野の胸の上に広がる。
<ああ、あの大きな乳輪が自分の皮膚に貼りついている>
三津野は、あのことを思いだし、脳のなかで感じていた。
こんなことがあったと大木に聞いていたのだ。
「小学校のときのこと、僕たちのクラスで身体検査があって、男女が一つ部屋のなかで高い間仕切りで仕切られて別々に分けられていたんです。どちらも上半身は検査のために裸だった。
すると、どういうわけか、女の子たちがその高い仕切り越しに、われわれ男子の方を上から覗いた。なぜかわかりません。
それで、僕ら男子もつい立て越しに女子を覗いた。
僕は、岩本さんだけを見ていて、彼女の大人の女性のような発達した乳房と黒くて大きな乳輪を目にしました。」
三津野にとっては、花の女王についての重要な情報だった。だから、もう何年も以前に聞いたことなのだが、はっきりと覚えていた。
「あなた、好き。
あなたは、好き?」
顔を、鎌首をもたげたようにあげ、視線は一瞬も三津野の目から離さずに問いかける。
「好きだよ。
とっても」
「生まれてこれほど好きになったことはない?」
「いや、なんどもそう感じた。そのたびにそう感じた。」
英子は微笑みながら、
「正直ね。
そういうとこ、とても好きよ。」
視線を外さないままそう口にすると、三津野の唇に唇を重ねた。
「ほら、最後のあの感じになるでしょう。これがあなたの人生にとって最後の、女を好きという感覚よ。
わかっているわよね」
「ああ、そうだと思っている。
いま僕の体のうえに花の女王がのしかかかっている。そして、僕がお気にめさないことを口走ろうものなら、この身を食いちぎろうとしている。」
「食いちぎりはしない。だって、あなたは私の気に入らないことは決して言わないから。」
「そうだね。
どうしてそうなのかわからないけど、そうだと思う、強く思う。そう欲求する。」
どちらも声を出さず、ベッドのシーツの下で重なって伸びたまま、5分の時が過ぎた。
「落語は一時休止のまま?」
「いやね。あたりまえでしょ」
「お望みのままに」
「待って。
いいわ。落語、つづけて。ただし、このままでね。」
「大木先生に聞いた話だ。」
自分でもこの格好で大木弁護士の話をするのか、という気がした。しかし、三津野の落語の重要な一部なのだ。
「2021年、大木先生はサンフランシスコにあるコモンウェルズ・クラブの依頼で、「弁護士事務所を経営する傍ら小説を書いてベストセラーとなった」からという理由で講演をした。その時点では、うかつにも大木先生は、そのクラブがニューヨーク州知事であったフランクリン・デラノ・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領への出馬宣言をした由緒あるクラブとは知らないでいたそうだ。
なにはともあれ、大木先生はその英語での講演のために自分の書いた『株主総会』を再読することになった。作家というものは、書いて出版してしまえば自分の本への興味などなくしてしまうものなのだそうなんだ。自分の書いた小説の再読なんてしませんよ、って言っていたな。
でも、再読してみて、はたと気づくことがあったそうなんだ。自分は、実はGHQの財閥解体が生み出した「日本的株式上場会社のシステム」について書いていたっていうことに改めで気づいたっていうことなんだな。
コーポレートガバナンスのない時代のことと言ってもいい。」
ここまで三津野が話したところで英子は腕を解き、身体を話して隣で長くなった。もちろんぴったりとくっついたままである。
すこし呼吸が楽になったので三津野は続けた。
「つまり持合い株主とは、お互いに議決権の行使をそれぞれの会社の社長に任せる。協同組合の実質はどの会社も同じだからさ。
単純化していえば、こうなる。
A社はB社とC社の株を持っている。B社はC社とA社の株を持っている。C社はA社とB社の株を持っている。議決権はそれぞれの会社の社長が行使する。そのために、株主である会社は委任状を社長にだす。だから、社長の意志は株主総会でも貫くことができる。ただの社長ではない。株の大半を、委任状を通じて押さえているのだ。疑似オーナーと呼ぶ所以だね。ただし、疑似オーナーであるのは、その代表者の地位にある限りに過ぎない。幹部従業員の協同組合なのである。梯子の下にはたくさんの後輩たちが組合員として待っている。そのなかに、現社長に指名されて後継ぎになる人間がいる。
日経の『私の履歴書』に決まり文句のように出てくる、あれだよ。
『ある日、突然社長に呼び出された。目のまえに座ると、『次は君がやってくれ』といきなり切り出された。『え?』と声が出た後、やっと『すみません、一日待ってください。女房に相談させてください』とだけ言うのが精いっぱいでした。』というお定まりの名場面だ。
実務上の便法としては、持ち合い株主は、議決権の行使を社長の指揮下にある総務部長や次長という個人宛の委任状を出すという方法で株主総会を安穏に乗り切ることになっていた。そこを突くのが総会屋という一種の職能集団だった。総会屋に金品を渡せば、会社の人間も犯罪を犯すことになる。後になってそこを特捜部が突いた。形式は上場会社、実質は幹部従業員の協同組合という仕組み。そのやり方から生まれたあだ花が総会屋でという、特別の職業だった。どちらも、特捜部によって退治された。
悲劇も起きたよ。
一時は大木先生の講演での十八番だったな。
『私が田原(総一朗)先生に初めてお目にかかった日を、今でも鮮明に覚えております。1997年6月29日の日曜日です。「サンデープロジェクト」という日曜午前中の報道番組で、私が呼ばれてお話をしていたときに、第一勧業銀行(現みずほ銀行)の頭取、会長を務めた宮崎邦次さんが自殺をしたというニュースメモが、田原先生に渡され、それを見て「みなさん今……」と言われたのです。」(弊著『会社が変わる!日本が変わる!! 日本再生「最終提言」』18頁)
自殺の原因は総会屋事件での特捜部の犯罪捜査であったといわれる。』
と、こうくるわけだ。」
また大木の話になってしまった。それも大見えを切る話だなんて。
三津野は、並んで横にいる英子の指を掴むと強く握った。英子が反対の手で大木の胸に触れる。そして優しく手のひらを前後に動かした。
「落語の続き、このままやる?」
英子が、大きくうなづいた。
トップ写真:東京の夜景 出典:Krzysztof Baranowski/GettyImages
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html