ベトナム戦争から半世紀その62(最終回) 日本側での錯誤と教訓
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」1080回
■ 本稿のポイント
・日本では「米国の帝国主義的侵略」と捉えられていたが、現地の市民の多くは共産化を防ぐ盾として米軍を歓迎していた。
・ベトナム戦争の実態は、日本が信じた「南独自の民族自決」ではなく、北ベトナムが巧妙な偽装(和解や中立の標榜)によって隠蔽した、周到な「共産主義革命」の貫徹であった。
・建前や虚構を事実として受け入れてしまう当時の日本の姿は、現代においても国際情勢を正確に把握する力を欠いているという重大な教訓を残している。
ベトナム戦争終結から半世紀、現地特派員として激動の南ベトナムを歩いたジャーナリストの古森義久が、当時の日本社会が陥っていた「巨大な認識の誤り」を総括する。米国を絶対悪とする侵略の図式や、「解放勢力」という虚構を事実として報じ続けた日本のジャーナリズムは、なぜ真実を見誤ったのか。民族独立の美名の裏に隠された共産主義革命の実態を暴き、現代の国際情勢把握にも通じる日本人の構造的な弱点を鋭く突く、連載完結の一篇である。(Japan In-depth 編集部)
日本が抱いていた重大な誤認
さて3年半に及んだ私の南ベトナムでの報道の軌跡を改めて振り返り、最も強く指摘したいのは、当時の日本側でのこの戦争の本質に関する巨大な誤認である。この点こそ実はこの長い連載でも最大の重点をおいて報告したかった。
この長期の連載ではこの日本側の誤認、錯誤についてあちこちで指摘してきた。だが連載のこの最終回で改めて、その点をまとめて報告したい。
ベトナム戦争の激化、変転、そして終戦、さらにその後の革命と続く歴史の流れに対して日本側の主要メディアや、いわゆる識者の間では重大な事実誤認があったのである。現地に赴いた新聞記者としての私自身もその誤断の多くの部分に当初はまみれこんでいた。
この誤認はこの連載の冒頭部分でも触れたように、わが日本にとって国際情勢の正確な認識という重大課題として重い今日性をも有している。日本列島の外で起きる変動を正確に把握するか否かは、日本の国運をも左右する。このあたりの日本のときにはDNA的とも思わされる弱点を、おこがましいとはいえ、私は半世紀前のベトナムで実感し始めたともいえるのである。
現地で見た米軍と市民の距離
ではなにが間違っていたのか。
まず第一はベトナム戦争でのアメリカの役割についてである。
私自身、ベトナムに赴任するまでは、ぼんやりとながら、この戦争はアメリカの帝国主義的な侵略だろうと思っていた。同時にその戦場である南ベトナムの国民も大多数はアメリカを敵とみて、その侵略と戦い、アメリカを憎んでいるのだとも推察していた。この考察は日本での大手新聞の報道や識者とされる人たちの見解を信じた結果だった。
だがいざ現地の南ベトナムでの生活を始めて、周囲をみると、まったくそんな実態がみえてこなかった。首都サイゴンの大多数の人々は明らかに米軍の存在を歓迎しているようにみえた。この点は私が未知の国にきて、現実をよく理解しないまま、誤った判断を下してはいないか、何度も何度も慎重に考察を試みた。だが考察の結果は同じだった。
アメリカの政策の歴史をみても、南ベトナムという一応の自由民主主義の国家が北ベトナムという共産主義体制の国家に軍事力で崩されることを防ぐという大義名分がうたわれていた。
繰り返すが、南ベトナムで生活する人たちが米軍の存在を敵視して、その排除を意図するという実態はみえてこなかった。むしろ米軍に守ってもらうことを願う、というふうなのだ。もちろん南ベトナム領内で米軍や南ベトナム政府軍を攻撃する勢力が存在することは事実だった。だがその勢力は南ベトナムの一般社会ではみえてこないのだ。だから日本側での「ベトナム人民は米軍を敵視して、闘争している」という構図は南ベトナムに関しては間違いだと断じざるを得なかった。
北ベトナムが演出した「解放勢力」
第二は、南ベトナム領内で政府軍や米軍に攻撃をかける勢力とはなにか、という点だった。
日本の主要メディアはほとんどの場合、この勢力を「解放勢力」とか「南ベトナム解放勢力」と呼んでいた。ところが現地では官民ともにこの敵対勢力を「コンサン(共産)」と呼んでいた。つまり共産側という意味である。そしてその主役はあくまで北ベトナムそのものだと断じていた。
北ベトナム自体は公式に「南ベトナムでの民族独立闘争はあくまで南領内の独自の解放勢力による」と断言し、北ベトナムの人民軍は南領内には一切、入っていないと宣言していた。この主張は革命闘争の戦術としての巨大なフィクションだった。だが日本側ではこの虚構がほとんどの場合、事実のようにして報じられたのだ。
しかし米欧のメディアの南ベトナム駐在の特派員たちは革命勢力の部隊を明確に「北ベトナム軍」、あるいは「北ベトナム軍と南の革命勢力部隊」と呼び、「北」の軍事面での主役の実態を正しく報道していた。
「南ベトナム解放戦線」という組織は存在していた。だが事実上は北ベトナムが南での戦術として創設した支部だった。
私自身も現地に着いてしばらくすると、「北ベトナム軍」という表現を使うようになった。とくに1974年1月に中部のビンディン省の革命側支配地区で、10日間を過ごした体験で私は南領内での革命闘争はすべて北ベトナムが主体となっている実態を改めて直接に目撃した。北ベトナムの人民軍の将兵はみな南領内に入ると、本来の肩章などを外し、「南解放戦線戦士」となるのだった。
美名に隠された共産主義思想
第三はベトナム革命闘争は民族独立と同時に明確な共産主義革命だった点である。
民族独立と共産革命はベトナム戦争の車の両輪だった。だが日本側ではこの共産革命の部分をほとんど無視していた。南ベトナム政府やアメリカに対する闘争はイデオロギーを超えた民族の独立、自立だけを目指す戦いだと誤認していたのだ。
闘争の主体のベトナム共産党はソ連のコミンテルンで教育を受けたホー・チ・ミンの主導で1930年に創設された。マルクス・レーニン主義の信奉に基づく政党だった。この政党は南での闘争での偽装作戦として1950年代にはベトナム労働党と改称する。だが南制圧の後にはまたベトナム共産党という名に戻って、今日にいたる。
この政党は闘争期間中は共産主義を外部に向けては隠し、「すべての民族独立主義者が集まり、特定の政治信条なしに祖国の解放を目指す」という建前を打ち出していた。だが実際には革命勢力内部では常に共産主義者が全権を握り、敵対する勢力は排除していった。日本側ではこの建前をほぼ全面的に信じるという誤認をしていた。
南ベトナム政府を粉砕した後のサイゴンなどの統治は南ベトナム臨時革命政府が全権を握るはずだった。南独自の解放勢力という建前だった。ところが大勝利を祝う集会で南の最高位に立ったのは北ベトナムの元副首相、労働党政治局員のファム・フン氏だった。故ホー・チ・ミン主席の長年の盟友だった。そのフン氏は労働党の南支部の書記長であり、南領内の政治面での闘争の最高責任者だったことを明らかにした。南での闘争はすべて北のベトナム共産党が主役だったことの自認だった。
「民族和解」という虚像
第四の日本側の誤認は革命勢力の「民族和解」や「第三勢力重視」の主張についてだった。
革命勢力は闘争中は共産主義という信条を隠し、民族独立だけが最終目標だと宣言していた。すべての政治勢力が融和しての民族和解なのだと主張していた。だが実際に南ベトナムを粉砕すると、その後の統治には政治的に中立な第三勢力の参加は認めず、共産党の独裁による革命を断行した。私有の財産や企業をも否定する徹底した共産主義革命だった。
北側は戦争の最終段階でも南側が当時のグエン・バン・チュー大統領を辞任させれば、停戦や和平の交渉に応じるとも言明していた。だが同大統領が実際に辞めても、交渉には応じず、軍事攻撃の激化に集中した。
こうした虚構はベトナム革命勢力の30年にわたるフランス植民地支配との戦い、そしてアメリカとその支援を受けた南ベトナム政府との戦いの苛酷さや大義という面を考えれば、自然ともいえる敵をあざむく巧妙な戦術だったといえよう。
だが中立の立場にある日本のメディアや識者がその虚構を事実であるかのように受け入れ、広めるという対応は明らかに誤っていた。
戦後の南ベトナム社会で起きたことは明白に民族和解ではなく、共産主義革命だった。南ベトナムの政府や軍の関係者はその家族も含め、新社会では「傀儡」とみなされ、大多数が山間の収容所に送られた。一定以上の財を持つ個人も企業も国有化というスローガンの下に私財を没収された。要するに革命をした側がされた側を制裁したのだといえる。
革命側が戦争中に主張し、日本側の多くが同調していた「民族和解」や「特定の政治主張のない新生ベトナム」ではなかったのだ。
以上がベトナム戦争に対する日本側での誤認だった。繰り返すが記者としての私自身もその誤認の一端にはまりこんでいた。しかし現地の実情に目覚め、大幅な修正をしたつもりである。だがミスはミスだったとして素直に認めることはジャーナリズムの客観性という観点からだけではなく、国際情勢の正しい認識という自明の理からも欠かせまい。
(終わり)
【よくある質問(FAQ)】
Q1:当時の日本メディアはなぜ「北ベトナムの主導」を見抜けなかったのですか?
A:当時の日本は反米感情や反戦運動の熱気が強く、「抑圧される民衆 vs 侵略者」という分かりやすい図式が好まれたためです。また、北側の情報工作(プロパガンダ)が極めて巧妙に「民族の悲願」を演出していたことも要因です。
Q2:南ベトナムの一般市民が米軍を歓迎していたというのは事実ですか?
A:全ての国民ではありませんが、特に都市部の住民にとって米軍は「共産化から自分たちを守る盾」であり、生活を支える経済基盤でもありました。著者は「敵視して排除を願う」という日本での定説とは異なる実態を目撃しています。
Q3:戦後の「再教育キャンプ(収容所)」はどのようなものだったのですか?
A:旧南ベトナム政府の役人や軍人、知識層などが「傀儡」として強制収容され、思想転向や過酷な強制労働を強いられました。これは戦前に掲げられた「民族和解」の約束とは正反対の現実でした。
Q4:この記事が指摘する「日本のDNA的弱点」とは何を指しますか?
A:外部の情報や建前(フィクション)を批判的に検証せず、自分たちの見たい「物語」や願望に合わせて国際情勢を解釈してしまう、情報のナイーブさや思考の癖を指しています。
Q5:ベトナム戦争の教訓は現代にどう生かされるべきですか?
A:現代の紛争や情報の氾濫においても、情報の背後にある政治的意図や「作られた物語」を疑い、現地の実情を多角的に把握する姿勢が、日本の国運を守るために不可欠であることを示唆しています。
(本稿のポイント、リード、中見出し、FAQの文責:Japan In-depth編集部)
シリーズ紹介
本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。
連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]
トップ写真)Views Of Ho Chi Minh City 40 Years After Fall Of Saigon
出典)PhotoQuest / 寄稿者 / GettyImages




























