ベトナム戦争から半世紀その57 すべてが終わった
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」1074回
■本稿のポイント
・北ベトナム軍がサイゴンを制圧した4月30日午後、街頭では制服を脱ぎ棄てた南側の兵士や警官があふれ、勝者と敗者の極明なコントラストが広がっていた 。
・サイゴン陥落の最終場面では革命側が予告していた「人民総決起」は起きず、大規模な破壊や殺戮もほぼ皆無という奇跡的な幕切れとなった。
・陥落当日の夜、外出禁止令のなか支局の床で眠りながら、筆者は戦争の終わりと新たな支配の始まりをひとり噛みしめた。
1975年4月30日午後、制圧されたサイゴンの街頭では、制服を脱ぎ棄てた南側の兵士たちが市民に紛れ込み、革命軍の将兵と言葉を交わすサイゴン市民の姿があった。15個師団もの大兵力による四方八方からの入城、そして布告第一号の布達——。戦争はいかにして終わり、新たな支配はいかにして始まったのか。毎日新聞サイゴン支局長として現場に立ち続けたジャーナリスト・古森義久氏が記す、ベトナム戦争最後の日の記録。(Japan In-depth編集部)
制服を脱ぎ棄てた兵士たち 陥落直後のサイゴン市街に何が起きたのか
北ベトナム軍が完全に制覇したサイゴンで4月30日の午後、また市街に出てみた。
升岡記者とロック記者がいっしょだった。南側の兵士や警官は市内ではほとんどが制服を脱ぎ棄てて、一般市民の群れに入っていた。いたるところに捨てられた緑の軍福や青色の警官の制服の数はすごかった。市民のなかにはランニングシャツとパンツだけの、一目で元兵士とわかる髪の短い若者たちの姿が目立った。右往左往するその種の青年たちにはまだ幼い表情を残すものも多く、そのおびえきった様子は革命側の若者の喜びに酔うような表情とはまったくのコントラストを描いていた。
街路では外人記者たちの姿も目立った。みなベトナム人の通訳を同行し、革命側の将兵へのインタビューを試みていた。将兵たちはかたくなな態度を残しながらも、臆せずに質問に答えていた。もっとも革命側がいかにも慣れないという感じで、通りいっぺんの公式な発言の域を出ないという事例が多かった。
「サイゴンをどう思うか」
「高い建物がたくさん並んでいて驚いた。だがこうした表面の繁栄はアメリカ帝国主義者の援助があったからだろう」
こんなやりとりが多かったのである。升岡記者がタバコを吸おうとすると、ちょうど傍らにいた北側の兵士も自分のタバコをくわえようとするところだった。升岡記者はなかば反射的に自分のライターをつけて、その火を兵士に差しだした。すると兵士はそれをさえぎり、「そういうことは禁じられています」と断わった。
UPI通信のドーソン記者やダニエル記者も革命側将兵とのそんな会話に加わっていた。革命側には外国報道陣とあれば、主敵だったアメリカの人間か否かいうこだわりはないようだった。ちなみにドーソン記者らは前日、荷物をまとめて国外脱出の米軍ヘリの離陸地点まで出かけていったが、そのヘリにはあえて乗らなかったのか、乗れなかったのか、結果としてサイゴンに残留していた。
同じベトナム人として勝者と市民はいかに言葉を交わしたのか
周囲を見回すと、普通のサイゴン市民もこわごわながら、北側の戦士たちと言葉を交わし始めていた。鬼だ、蛇だ、と恐怖や憎悪の対象にしてきたコンサン(共産)側の闘士たちも意外と純朴で規律の正しい青年たちだと認識したのか、市民と兵士たちの対話は少しずつとはいえ、幅を広げていった。一方が戦車を先頭に外部から突入してきた軍隊であり、他方がその軍隊を敵として、激しく戦ってきた国家の市民であっても、同じベトナム人だった。話す言葉も同じだった。極端に異質な二つの世界で生きてきた人間同士でも最初はためらいがちでも、会話の分量は少ずつ増えていくようだった。
破壊も殺戮もなかった なぜサイゴン陥落は奇跡的な幕切れとなったのか
しかしベトナム戦争が終わった日、流血や破壊は驚くほど少なかった。長年の激しい戦争が最後の段階では殺戮は皆無に近い状態で終わったのだった。組織的な抵抗と呼べる衝突はミン大統領の南軍への停戦命令の直後、サイゴン市内の動物園近くにいた南側のレインジャー部隊が進撃してくる北軍の大部隊に抵抗し、あっけなく鎮圧された。市内中心部の下院議事堂前では北軍の入城直後、南側の国家警察の中佐の制服を着た人物がみずから所持していたピストルで頭を撃ちぬいて自殺した。市内中心のフランス系のグラール病院内でも南軍の第二軍管区司令官だったファム・バン・フー将軍が自決した。そうした情報がつぎつぎと入ってきた。敵前の逃亡や降伏ばかりだった南ベトナム軍にも別の道を選んだ軍人たちはいたわけである。
しかし以前にも述べたが、ベトナム戦争の最終場面のサイゴン陥落でも、革命側が明言していた「人民総決起」は起きなかった。この総決起とは、南ベトナム側にいた市民が革命側に同調して、一気に立ち上がり、南側の権力機構を倒す、という事態を指していた。
北ベトナム側、つまり革命勢力側はいざ自陣営が勝利をおさめる際には人民の多数派が立ち上がり、敵を倒す闘争を助ける、と予告していたのだった。だが首都サイゴンでは住民の圧倒的多数は北ベトナム軍の攻撃を恐れ、逃げまとい、国外脱出までをも図ったのだった。
だがそれにしてもサイゴンに入場してきた北ベトナム軍の規模や戦力はものすごかった。おびただしい数の部隊がありとあらゆる方角から市内に入城してきた。多様な軍事車両からオートバイ、自転車までを足として、市内に入ってくる将兵の人数は測りしれないほどだった。最も多いのは当然ながら徒歩で行進してくる将兵たちだった。大きなリュックを背負い、小銃を脇に抱え、手投げ弾を腰に巻き、だぶだぶのズボンの兵士たちが黙々と歩いてくるのだ。
サイゴン市内の主要道路もそんな草色の制服の兵士たちで埋まり始めていた。北軍のズン司令官の戦記によると、なにしろ北側人民軍の合計15個師団もの大兵力がサイゴン攻略に投入されていたのだ。ざっと見積もっても十数万の大部隊だった。
そのうちの主力部隊は大統領官邸前のトンニヤット(統一)大通りの大広場に野営する態勢をとった。その広場をみると、さながら近代兵器の展示場だった。C130ミリ砲に始まり、各種の野砲、ロケット砲、さらには戦車、装甲車、大型軍用トラックと、とにかくありとあらゆる兵器の集まりだった。「第一汽車製造廠」という中国語のマークが記されたトラック部隊など中国製、ソ連製の兵器ばかりである。
しかしこんな大兵力の北ベトナム正規軍がこれほどの規模でサイゴンへの四方八方からの攻撃をかけてきたのだから、万が一にも南ベトナム軍が必死の抵抗をしたならば、首都地区は大破壊と大殺戮をもたらす激戦場となっただろう。
だが現実には南軍の停戦により、そんな惨事はまぬがれたわけだ。
新たな支配の始まり 革命軍布告第一号が命じたこと
さて同じ30日の午後4時すぎ、ラジオから革命軍の初の布告が流された。サイゴンを制圧した「南ベトナム人民解放軍」の布告第一号だとされた。
一、外出禁止を午後6時から午前6時までとする。
一、サイゴン政権のすべての軍、警察構成員は各地区の解放軍機構に出頭して武器を提出する。
一、電力、ガス、水道、交通、保健衛生など公共事業の機能を確保する。
一、すべての人民は勝利を祝い、革命政府の旗を掲げる。
以上のような布告は合計6項目から成っていた。新しい統治機構からの指令の第一弾だった。改めて戦争の終わりと新たな支配の始まりを象徴する布告だった。ベトナム共和国という国家が消滅し、その国家が首都としたサイゴンという都市も、その根幹の帰属を変えてしまったわけだ。
だがその変化の最終段階では電気も水道も止まることなく、また破壊も殺戮も皆無に近かった。この展開は奇跡に等しいとさえいえるだろう。
私は支局でこのあたりの状況を改めて記事の草稿にまとめたりしていると、すぐに新たな外出禁止令の時間となってしまった。この夜は支局で過ごすことにした。いくら遅くなっても自分のアパートに帰るのが常だった私はさすがにこの夜の外出禁止令を無視することは止めることとした。
なにしろ前日まで外出禁止令の例外とされた記者証を出していた政府はもう存在しないのだ。革命軍の入城の初の夜となれば、なにが起きるかわからない。だからその夜は支局に泊まることにした。ベッドなどのない支局では床に新聞紙などを敷いて寝ることにした。疲れ切った体を横たえると、意外と快適だった。ベトナム戦争の最後の日の出来事がまた走馬灯のように頭によみがえった。
国家が崩れ去った。戦争が終わった。ベトナムの歴史が激変した。全世界にまで衝撃が走る。ベトナムには平和が訪れる。だがその平和はどんな内容になるのか。そして毎日新聞サイゴン支局はどうなるのか。私自身の立場はどうなるのか。様々な疑問や灌漑が私脳裏を駆けめぐった。改めて体を長々と延ばすと、堅い床も妙に心地よかった。
(つづく)
【よくある質問(FAQ)】
Q1:ヴァン・ティエン・ズンとはどのような人物か?
A:北ベトナム人民軍の将軍で、サイゴン攻略作戦「ホー・チ・ミン作戦」を指揮した総司令官です。後に統一ベトナムの国防大臣も務めました。作戦の経緯を記した戦記を著しており、記事中でもその記述が引用されています。
Q2:C130ミリ砲とはどのような兵器か?
A:ソビエト連邦が開発した「M-46 130mmカノン砲」。射程は約27キロに達し、冷戦期に北ベトナムをはじめ多くの共産圏諸国に供与されました。
Q3:「ホー・チ・ミン作戦」とは何か?
A:1975年4月、北ベトナム軍がサイゴン攻略のために展開した最終攻勢作戦です。建国の父ホー・チ・ミンの名を冠したこの作戦により、南ベトナム政府は崩壊しベトナム戦争は終結しました。
Q4:外出禁止令とはどのような措置か?
A:政府や軍当局が治安維持を目的に、一般市民の屋外での行動を特定の時間帯に禁止する措置です。戦時や政変直後に発令されることが多く、違反者は拘束・処罰の対象となります。
Q5:サイゴンはその後どのような都市になったのか?
A:1976年の南北統一後、ホー・チ・ミン市と改称されました。現在もベトナム最大の経済都市として発展を続けており、旧大統領官邸は「統一会堂」として一般公開され、観光名所となっています。
(本稿のポイント、リード、中見出し、FAQの文責:Japan In-depth編集部)
■シリーズ
本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。
▶️連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]
写真)Soldier Playing a Guitar
出典)Bettmann / 寄稿者 / GettyImages




























