[神津伸子]【誰にでも甲子園はある】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 2~
神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
野球指導者江藤省三が憂いているのは、目先の事ではない。野球界全体のこと。子供たちがキャッチボールを、野球を、やらなくなってきて・・・。このスポーツの楽しさを伝えたくても伝えられない。子供たちに正しい指導が出来る人間も少なくなり。江藤の新たなフィールドは、千葉県のとある県立高校。梅雨明けを思わせる好天の週末の朝7時から、2日後の全国高校選手権大会千葉県予選1回戦を目指した、緊迫した練習が展開されていた。この日も、朝からすでに気温は30℃を越え、しかもグラウンドは照り返しと土埃で暑さが増幅される。グラウンドは野球場が1面取れ、さらに隣ではサッカー部が練習出来るほどで、都会っ子が羨む広大さだ。周囲は、田畑、森林に囲まれ、最寄駅からはバスで片道30分。
部員11人の小さな普通の部活動。そのような遠隔地でも、江藤の人徳で練習に多くの人が集まって来る。慶應義塾大学硬式野球部時代の一期下の後輩である会社会長・杉山敏隆、大リーグ評論家、福島良一。そして、江藤が育てた慶大野球部OBの塾経営者、茅根徳人。
茅根は現役時代のポジションがキャッチャーだったことから、「パスボールが多いので、見てくれないか」江藤の依頼を受けて、駆けつけた。炎天下、3年生捕手を相手に何球も何球も向き合って、ワンバウンドの球を投げながら、グラウンドの片隅で基礎練習を続けていた。汗が容赦なく吹き出す。的確な指示が飛ぶ。3年生捕手の眼鏡の奥の真剣な眼差しは、茅根の指導を一言も聞き逃すまいと、必死だ。グラウンドの全体練習が終了しても、2人は向かい合ったまま、黙々と基礎練習を重ねた。
「あんな本格的なキャッチャーとしての指導は、彼はこの3年間で初めて受けた」
江藤は言う。野球指導者不足が言われて久しいが、正しい指導を受けることもなく、卒業していく高校生が、いや、野球をやめていく子供たちが本当に多いのだとも話す。
「もう一度入学し直してぇ」3年生のショートで、4番打者が、グラウンドでつぶやいた。予選一回戦を2日後に控えている。「今になって、もっともっと野球を教わり、上手くなりたい気持ちになったのではと思う」(江藤)
野球を続けたくても、厳しい環境
まだ、やれることが沢山あると思いながら、彼らは高校最後の公式戦になるかもしれない1戦を迎えなければならない。つぶやいた3年生遊撃手は、大学でも野球を続ける意志を強く持つが、他の3年生は野球はここまでと、考える。続けたくても、経済的な理由からも続けられない者が少なくないのだという。野球の用具一式揃えれば、数万円。疲弊すれば、買い直し。同校でも、経済的事情から、野球が続けられずハンドボール部で頑張る部員もいる。試合には、助っ人として登録される。
グラウンドでは、この日の練習を終えた部員たちがグラウンド整備を始めていた。ふと手を休めると、元気な女子マネージャーから檄が飛ぶ。彼女も中学まで野球をやっていたが、高校野球は規定で女子は選手登録出来ない。「慶應では部員が200人いたから、5分で終わった。ここは11人でやるから、1時間かかる」(江藤)
日本高等学校野球連盟の調べでは、加盟校数は2005年の4253校をピークに、なだらかに減少傾向にある。今年は4021校。近年は連合チームでの試合出場などが、珍しくなくなってきているが、部員が集まる高校が偏ってきており、その一方で部員不足が顕著になってきているところも多いという。
整備が終わると、選手たちはホームベース上に横一列に整列した。一息置くと、校歌をグラウンド中に響き渡る大声で歌い始めた。いつも、練習後、歌っているのだろうか。”勝つ”イメージ作りのために、監督が初めて歌わせたという。良いアイデアだ。その後、組んだ円陣の中心で江藤は「今、出来る事を精一杯やろう」言葉少なめに〆めた。
隣のグラウンドでは、25名ほどのサッカー部員たちが、まだ練習を続けていた。白紺の野球部の練習着の横で、カラフルなウェアが眩しく映る。「周囲の中学でも、野球部員が減って来ている。かつては20数人いた部員が、10人前後になっていると聞く。普通の学校で、普通の子たちが続けられる環境を整備したい。そして、まずは、近くの中学校に出向いて、一人でも泉高校に来るように応援していきます」
(この記事は【“24の瞳”少年・高校球児を指導する男】〜「野球は人生そのもの」江藤省三物語 1~
の続きです。
【教え子の一言に「ふるえた」。】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 3~
に続く。)
<江藤省三プロフィール>
野球評論家。元プロ野球選手(巨人・中日)、元慶應義塾大学硬式野球部監督
熊本県山鹿市生まれ。会社員(父は八幡製鐵勤務)の四人兄弟の三男として誕生。
兄(長兄)は元プロ野球選手、野球殿堂入りした愼一氏。
中京商業高校(現中京大中京)で1961年、甲子園春夏連続出場。同年秋季国体優勝。
卒業後、慶應義塾大学文学部に進学、東京六大学野球リーグで3度優勝。4季連続ベストナイン。
63年、全日本選手権大会で日本一となる。
65年、ドラフト元年、読売巨人軍に指名される。
69年、中日に移籍。代打の切り札として活躍。76年引退。
81年、90年から2度巨人一軍内野守備コーチ。
以降、ロッテ、横浜でコーチ歴任。
解説者を経て2009~13年 慶應義塾大学体育会硬式野球部監督。10・11年春季連続優勝。
この間、伊藤隼太(阪神)、福谷浩司(中日)、白村明弘(日本ハム)のプロ野球選手を輩出。
14年春季リーグ、病床の竹内秀夫監督の助監督として、6季ぶりに優勝に導く。
※トップ画像:勝って歌うイメージは大切。と、練習後、整列して大きな声で校歌を歌った。
※文中写真上:炎天下で、高校球児にノックする江藤氏。ユニフォームの胸には”Keio”の文字が刻まれていた。
※文中写真下:パスボールを減らす基礎練習を、ずっとグラウンドで繰り返した3年生キャッチャーと、助っ人に来た江藤の教え子、茅根。