[神津伸子]【輝く時 慶應義塾大学野球部選手時代】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 6~
神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
江藤省三の最も輝いた選手時代。それは、慶應義塾体育会硬式野球部に所属していた4年間だったと、江藤は言う。3回のリーグ優勝、4季連続ベストナイン。アジア選手権優勝、MVP獲得。だが、天狗だった自分も、そこに…「自分の球歴の中で1番輝かしかったのは、慶應義塾大学体育会硬式野球部での、現役時代」。江藤は、迷わず口にする。
3年生の春季リーグから、二塁手として、レギュラーポジションを獲得して、東京6大学野球リーグで3回優勝。1964年から、セカンドで4季連続ベストナインを獲得した。当時は、恐いもの知らずで、かなり天狗になっていた自分が、そこにいたという。主力選手とは思えないくらい、173cm67kgと小柄だったが。
「生意気なチビって、よくいますよね。当時一緒だった仲間たちに今会うと、『お前、本当に変わったなぁ』と、言われます。のぼせ上って、実に性格が悪かったのだと、思います」。
一番印象に残っている試合は、3年生の時、エース渡辺泰輔(南海、現・福岡ソフトバンクホークス)の完全試合だ。1964年春季リーグ戦、対立大2回戦(5月17日)で、東京6大学野球史上初の完全試合を達成した(慶大 1-0 立大)。当時、立教には土井正三(巨人)らもいて、なかなかの強豪チーム。
当時は、内野が土のグラウンドで、ゴロが飛んでくると、イレギュラーバウンドしないか、ひやひやしながら守っていたという。半端ない集中力で試合にのぞんでいたことを、江藤は昨日のことのように覚えている。
自身の一発で思い出深いのは、4年生の春のリーグ戦で、立教戦に放った逆転サヨナラホームラン。人生の中でも、そう何本もないサヨナラだ。
さらに、65年にマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会に、東京6大学選抜チームが、日本代表として出場。優勝に貢献し、MVPも獲得した。
ひとたび、普通の大学生に戻ると、「まじめな学生だったはず」(江藤)で、文学部の社会学を専攻。1,2年生の間に出来るだけ単位を取得し、レギュラーに昇格した3,4年生の時は、レポート提出が主体の授業を多く選択して、練習に打ち込んだという。
大学の学費は、兄・愼一が負担してくれた。慶應に合格した時は、本当に喜んでくれた。明治大を最初は推薦していた兄ではあったが。愼一は、プロ選手時代にユニフォームの一番上のボタンを空けて着たり、肌寒い4月から袖をまくり上げたり、バンカラ気質だったので、明治をイメージしていたのだろうか。誰よりも慶應での活躍を、喜んでくれたのも、そんな兄であった。
頭を使う野球をすでに実践
一期下の捕手・杉山敏隆は、江藤をあらゆる意味で、絶賛する。江藤自身はこの頃の自分を「調子に乗っていて、天狗だった」と、振り返ってはいるが。「江藤さんはバランスが取れた人で、人に不快感を与えない。当時は、僕の方が打てば、ボールを遠くに飛ばす力はあったと思いますよ、でも…」フリーバッティング練習のことだ。杉山は、ジャストミートすること、気持ち良く打つこと、遠くに飛ばすことなどを考えて打っていた。だが、江藤は違った。当時から、頭を使う野球を心掛けていた。
「相手の野手が守っていないところへ、どう飛ばすかを考えて振っていましたね。さすがだと思いました。この人にはかなわないと」(杉山)。
また、こうも言う。「江藤さんの言う“Enjoy Baseball”は、ただ、野球を楽しめという話ではないのです。とことん練習をやって、勝って、勝つ喜びを知る。“勝つことを楽しむ”ことなのだと、知りました。当時から、自ら実践されていましたね」。そんな学生離れしたセンスと考え方の持ち主、江藤の大学時代の成績は、東京6大学リーグ通算48試合出場、173打数45安打、打率 260、3本塁打、8打点。4年の時は主将を務めた。
同期には、中日に進んだ広野功がいる。広野も、日本学生野球協会から認定を受け、学生野球指導者資格を回復して、江藤と同じように、現在アマチュア野球の指導に尽力している。頼もしい同志だと、江藤は話す。
慶應義塾大学硬式野球部で、数々の偉業を成し遂げた江藤は、1965年、プロ野球ドラフト元年、一期生に当たる。当時、ドラフトというものが何かも良くわからなかった。が、サッポロビールなどノンプロ数球団から誘われていたので、プロから指名されなければ、そのまま実業団で野球を続けようと考えていた。
読売巨人軍から3位指名され、当然、兄・愼一のようにプロの道を選んだ。
(7に続く。
【“24の瞳”少年・高校球児を指導する男】〜「野球は人生そのもの」江藤省三物語 1~
【誰にでも甲子園はある】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 2~
【教え子の一言に「ふるえた」。】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 3~
【教えは受け継がれてゆくものだから】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 4~
【甲子園春夏出場 父・兄の背中を見て始めた野球】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 5~
も合わせてお読みください)
<江藤省三プロフィール>
野球評論家。元プロ野球選手(巨人・中日)、元慶應義塾大学硬式野球部監督熊本県山鹿市生まれ。
会社員(父は八幡製鐵勤務)の四人兄弟の三男として誕生。兄(長兄)は元プロ野球選手、野球殿堂入りした愼一氏。
中京商業高校(現中京大中京)で1961年、甲子園春夏連続出場。同年秋季国体優勝。
卒業後、慶應義塾大学文学部に進学、東京六大学野球リーグで3度優勝。4季連続ベストナイン。
63年、全日本選手権大会で日本一となる。
65年、ドラフト元年、読売巨人軍に指名される。
69年、中日に移籍。代打の切り札として活躍。76年引退。
81年、90年から2度巨人一軍内野守備コーチ。
以降、ロッテ、横浜でコーチ歴任。
解説者を経て、2009~13年、慶應義塾大学体育会硬式野球部監督。
10・11年春季連続優勝。
この間、伊藤隼太(阪神)、福谷浩司(中日)、白村明弘(日本ハム)のプロ野球選手を輩出。
14年春季リーグ、病床の竹内秀夫監督の助監督として、6季ぶりに優勝に導く。
※トップ画像:慶應義塾野球部時代の写真を野球カードで再現。ベースボールマガジン社。
※文中画像:子供の頃に憧れの早慶戦を、ラジオ中継で聴きながら、必死にスコアブックをつけた。