[山本みずき]【若者の政治的判断能力が試される】~特集「2016年を占う!」18歳選挙権~
山本みずき(iRONNA特別編集長)
山本みずきの「モノ申してよかと?」
2015年は「観照」の年だった。観照とは、物事の本質を客観的に冷静にみつめることである。思うに、今年は日本人にとって国家の根本的なあり方が問われた年であった。2015年9月19日、平和安全法制関連2法が成立し、限定的な条件の下で集団的自衛権の行使が認められるようになった。法案をめぐる右派と左派の対立は、これまで日本が長いあいだ安全保障に対して取ってきたうやむやな態度を見直し、「国家とはどうあるべきか」を国民同士で議論する契機を与えてくれたように思う。
「徴兵制の復活だ」「若者が戦争に駆り出される」
安保法制に際して、これほどまでに非現実的な言説が横行したのも、「日本」という国を未だ第二次大戦の傷の癒えない一人格として捉えると頷ける。
傷つき果てた人間が、辛い出来事を思い起こさせる一切のものを拒絶するのと同じように、日本も戦時下の記憶を想起させるあらゆるものを遠ざけてきた。その最たる例が軍事力ではなかろうか。辛い記憶に蓋をしてしまうのは容易い。しかし、「何故、私は傷ついたのか」「何故、あの人と衝突してしまったのか」と過去を顧み、いつかはこちらから過去の記憶へと歩み寄って原因を探りださなければ、根源的な解決とはならない。過去の行動を反省し、自らの言動に慎重にならなければ、また同じ轍を踏むことになる。
終戦より70年が過ぎ去り、日本人が負った敗戦の傷は徐々に癒え、イデオロギーを越えて先の大戦を客観的に見つめ直すことが可能になりつつあるように思う。そして安保法制の議論は、戦争を回避し平和を維持するという理想に必要な、現実的な手段としての「軍事力のあり方」を考え直す契機となったのではないだろうか。
つまり、軍事力を絶対悪として捉えず、軍事力それ自体は行使すると危険を伴うことも事実でありながら、上手にコントロールすることができれば国際秩序の安定を図るために有用であること、さらには軍事力が自国民の生命の安全を保証するために重要な役割を担う側面もあることを認識する土壌が形成されたように思う。現に軍事力の弱体化によって悲劇に見舞われた共同体は無数にあるのだから。現代を生きる私たちは無闇矢鱈に軍事力を批判するのではなく、どのような経緯で軍事力をコントロールできない環境が生み出されたのかを学び、反省すべきだったのではないか。
遡ること90年。1920年代から日本では政友会と民政党による政党政治が確立され、政権交代を繰り返していた。他方、メディアは政権与党の腐敗を喧伝し、国民は次第に政党政治に対する不信感を募らせていった。その反動として、軍部の国粋主義者たちが腐敗した政党政治を掣肘し始めた。自分たちこそ腐敗なき純粋な政治をできるものと考え政治の舞台に登場し、国民の支持を集めていったのである。軍部の台頭のはじまりであった。田中美知太郎は、敗戦後、次のように述べている。「政治家の醜聞を聞くと愉快ではないが、その反動として生じた革新的・非実際的な人々によって我が国にもたらされた弊害を考えると、どちらが大きかったか明らかであろう」と。統帥権の干犯はその後の出来事である。
国民が政党政治に不信を募らせ軍部に期待を寄せ始めた頃から数えて、約90年の時が経った本年、18歳選挙権が成立した。2016年は参議院選挙を控え、いよいよ18歳が投票する権利を行使できる年が到来する。未熟な若者が適切な政治的判断を下せるのか、そのような懸念の声はしばしば聞かれる。しかし、賢明な判断を下せる人間は10代にもいるし、逆に愚かな判断を下す50代もいるだろう。重要なのは、いかに判断能力を養うかである。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。とにかく歴史によって奥行きのある考え方を身につけることが肝要である。「個人のための国家」でもなければ「国家のための個人」でもなく「個人⇄国家が互いに支え合う」という姿こそ理想である。各人の判断によって、国家は行動するのだから。