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.政治  投稿日:2024/7/23

バイデン撤退 ドラマ伴う権力者の退場


樫山幸夫(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員長)

【まとめ】

・バイデン米大統領が選挙戦からの撤退を表明。決断は遅きに失した。

・高齢による健康不安への懸念を払拭できず、民主党内の圧力に抗しきれなかったのが原因。

・トップが不本意ながら退陣を余儀なくされる場合、いくつかのケースに分類される。日本にも共通したパターンでありドラマを伴う。

 

 早い時期に候補者交代できなかったか

バイデン氏は撤退を決定した理由について、「私が退き、残る任期、大統領の職務を全うすることだけが党と国にとって最善と考える」(Xに投稿した国民あて書簡)と説明した。

過去3年半の任期を振り返り、コロナ対策、インフラ投資など経済対策、銃規制、環境対策など実績を強調し、その一方で「あなたがたの大統領を務めることは人生における最大の栄誉だった」「再選をめざすつもりだった」とも述べ、抑えきれない悔しさをのぞかせた。

大統領選候補指名党大会の直前というこのタイミングでの撤退表明はいかにも遅い。トランプ氏の年齢、それによる知力、体力の衰えは以前から指摘されていた。それでだけに春の予備選開始前に、勝てる候補者の擁立を決めるべきだったろう。

現時点で後継に指名されたハリス副大統領がどう戦うかはこれからだが、候補者交代が早い段階で行われていれば、トランプ有利といわれる現在の状況はあり得なかったかもしれない。

■ 退陣にみられるパターンの多くは人気低迷

アメリカだけでなく日本を含め、指導者が退場に追い込まれるケースにはいくつかの類型がある。

少なくないのは、今回のように人気低迷というパターンだ。もうひとつは、選挙に敗れて退陣に追い込まれる場合。さらには、政治基盤は安定していても、不幸にして健康を損なって職務遂行不能に陥ってしまうこともある。

今回のバイデン氏の撤退は不人気が原因だが、現職の途中撤退は56年ぶりと各メディアが書きたてているリンドン・ジョンソン氏(民主党)の撤退もそのパターンだった。

暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の後を継いで1963年に就任し、64年の選挙では圧勝、68年には再選をめざした。

しかし当時、ベトナム戦争をめぐって米国内の世論が分裂、社会が大きく分断されていた。反戦運動の高まりとともにジョンソン人気は低迷、3月に行われた大統領選最初のニューハンプシャー州の予備選で、対立候補にあわやというところまで追い上げられた。

故ケネディ大統領の実弟で期待の高かったロバート・ケネディ上院議員が出馬表明するに至って、勝利不可能と判断、任期いっぱいでの退陣を表明した。

ちなみにこの年の選挙はケネディ氏が予備選途中で、兄同様に暗殺される悲劇に見舞われ、民主党は当時のハンフリー副大統領を候補に指名したが、11月の選挙では共和党のリチャード・ニクソン氏に敗れた。

日本の場合を見ると、人気低迷で退陣したケースとしては、菅義偉前首相が記憶に新しい、

安倍晋三首相が病で総辞職した後を受け2020年9月に就任した。

内閣発足直後こそ、66%(就任直後の共同通信調査)という高い支持率を誇り、コロナ対策、デジタル庁発足などそれなりの実績を残したものの長男の政府高官接待疑惑が明るみに出たことなどをきっかけに人気は低落。衆参の補選での自民が敗北、地元横浜市長選で推薦候補が敗れるなどして求心力を一気に失った。人事などでてこ入れして秋の総裁選を乗り切ろうとしたが、時すでに遅かった。

この時に勝利した岸田文雄総裁(現首相)に対しては思うところがあるようで、政権発足時から距離を置き、政治資金をめぐる問題では「首相は責任を取っていない」などと退陣を求めるような発言をしている。

自分に立ちはだかった勝者に怨念を抱くのは洋の東西問わず共通しているとみえ、トランプ前大統領も、自分の再選を阻んだバイデン氏に対しては、氏が撤退表明した後も、口ぎたない罵倒を続けている。

国民、自民党内から見放されたケースは、森喜朗氏だ。

小渕恵三首相が病に倒れた後、2000年に自民党総裁・首相に就任したが、普段からの軽率な言動が災いして一年余りで官邸を去った。

就任直後に「日本は天皇を中心とした神の国」という〝神の国発言〟を批判され、宇和島水産高校の練習船がハワイで米潜水艦と衝突した事故の際、ゴルフに興じて官邸に駆け付けなかったことなどで人心が離れた。

必ずしも首相が批判を浴びる理由もないが、森氏の総裁就任をめぐっては「密室での話し合いだった」という不信感が国民に間にも根強く残っていたことも手伝って批判が拡大した。

氏は首相退陣後も問題発言を繰り返し、東京五輪組織委会長の時は女性軽視の発言をして、辞任に追い込まれている。

■ 日本で多い選挙に敗れての退陣

選挙で敗れたケース。

現職アメリカ大統領は2期を全うすることがほとんだが、例外もある。

比較的新しいのは、1992年、ブッシュ大統領(父、共和党)が無名に近かったビル・クリントン・アーカンソー州知事(民主党)に一敗地にまみれたケースだ。

ブッシュ氏はレーガン大統領時代に8年間、副大統領をつとめた。

独裁者、サダム・フセイン・イラク大統領が隣国クウェートに侵攻したことに端を発した1991年のイラク戦争を勝利に導き、一時は国民から圧倒的に支持されたが、外交にエネルギーを費やしすぎて経済が停滞、それが災いして多くの予想を裏切り、一期だけの大統領で終わってしまった。

日本では、総選挙で敗北して非自民連立政権の登場を許した1993年の宮沢喜一政権、民主党に政権を明け渡した2009年の麻生太郎政権などが想起される。

筆者には1976年の総選挙で敗北した三木武夫氏、1978年11月の自民党総裁選で再選を果たせなかった福田赳夫氏が忘れられない。

三木内閣は、アメリカで明るみに出たロッキード事件をめぐって、その解明に積極姿勢をみせた。

しかし田中角栄元首相の逮捕、起訴に発展するにおよんで、当時の椎名悦三郎副総裁ら党内重鎮から、「惻隠の情がない」「はしゃぎすぎ」などの批判を浴び、退陣要求を突き付けられた。

戦前から政治の修羅場をくぐりぬけてきた三木氏は得意の粘り腰を発揮、退陣要求をかわし続けたが、解散権の行使もままならず、任期満了で行われたその年秋の総選挙で敗れ、在職2年で総辞職のやむなきに至った。

三木氏の後継が福田赳夫氏

2年後の自民党総裁選で再選をめざしたが、自民党幹事長だった大平正芳氏に敗れた。

ともに三木氏に退陣を迫った大平氏との間で「2年で禅譲」という約束があったともいわれたが、福田氏は自信満々、当時導入されていた自民党員による予備選で「1位以外は国会議員による本選挙を辞退すべき」と主張した。

ふたを開けてみればあろうことか、大平氏に最多得票を許してしまった。やむなく退陣表明したが、「昭和元禄」など造語の名人、福田氏が、敗戦の会見で悔しまぎれに「天の声にもヘンな声がある」と〝迷言〟を吐いたのはこの時だ。

福田赳夫氏は、後の首相、福田康夫氏の父、福田達夫自民党元総務会長の祖父だ。

■ 政権佳境の時に病で退陣

病を得て志半ばで挫折するのは気の毒というほかはないが、アメリカでは第2次大戦末期、異例の4選を果たしながら、その直後に終戦を待たずして亡くなったフランクリン・ルーズベルト大統領が有名だ。

日本ではさきに少し触れた小渕恵三氏が脳梗塞で倒れ、そのまま意識を回復することなく亡くなったのは気の毒だった。

1956年に就任した石橋湛山首相は、遊説の疲れから就任直後に肺炎を起こし、在任わずか65日で退陣を余儀なくされた。何の仕事もできないままの辞職は不運だった。

政権がもっとも脂がのってきたところで病に倒れたのは池田勇人氏だ。

1960年、安保騒動直後、岸信介内閣のあとを襲った池田内閣は、所得倍増、高度経済成長をスローガンに経済大国の基礎を築いたが、64年、自民党総裁に3選された直後に喉のがんが発見された。

退陣表明は10月25日。東京オリンピック閉会式の翌日だった。

五輪期間中に総理が病気で辞めるというのでは、せっかくの平和の祭典が暗いものになるだろうという配慮からだったという。

 どうする岸田

さまざまな人間模様、執着と諦観と思惑が複雑に交差するのが権力者の退陣ドラマだ。

日本国内でもいま、権力者に退陣を求め、促す声があちこちに満ちている。

部下に対するパワハラで自殺者まで出しながら県政トップに居座ろうとする兵庫県知事などもその一人だろう。

そして何より、野党はもとより与党の一部、メディアからの強い批判にさらされ、退陣要求を突き付けられている岸田首相その人だ。

バイデン撤退について、「最善の判断との思いだったのだろう」と言葉少なに語るだけだった。

その心の奥底はうかがい知れない。

トップ写真:第115回NAACP(全米黒人地位向上委員会)全国大会で演説するバイデン大統領(2024年7月16日ネバダ州ラスベガス)出典:Mario Tama/Getty Images




この記事を書いた人
樫山幸夫ジャーナリスト/元産経新聞論説委員長

昭和49年、産経新聞社入社。社会部、政治部などを経てワシントン特派員、同支局長。東京本社、大阪本社編集長、監査役などを歴任。

樫山幸夫

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