トレーニングとパフォーマンスの関係を考える
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
今週末、試合に出る。できれば10秒を切りたいが、スタートダッシュを狙い通り低く飛び出せるかも重要だ。前回の試合では、後半の腕振りの感触をつかめてタイムが上がった。同じようなことが起こせるかが気になっている。
例えば試合を前にしたこんな選手がいたとして、彼が今週末目指すのは、高いパフォーマンスだろうかそれともよりよいトレーニング効果だろうか。お気付きの通りどちらの要素も入っているけれど、いったいどちらをより重く捉えるべきなのか。
全てのパフォーマンスにはトレーニングの要素が入っている。たとえオリンピックであったとしても数年後に振り返った時には、そこから何らかの学びがあり次に生かされているという点で、トレーニングとして捉えられる。よりよりパフォーマンスを目指すということは、それがそのままよいトレーニングとなる。
パフォーマンスを高めるためにトレーニングはあるのだけれど(道の世界では人生がトレーニングそのものであるとも捉えられるが)、パフォーマンスから離れすぎると、トレーニングが単体で存在するようになる。そうなると本来パフォーマンスを高めるために素振りをしていたはずが、素振りをすること自体が目的となる。私たちの世界では手段の目的化という。
一方でパフォーマンスすることだけを繰り返す人間は、局所的に強化するということができない。例えばボクサーが(ボクシングは全く無知なので見当はずれのことを言っているかもしれないが)あるパンチが相手に読まれるので、これを予備動作なく打ちたいとする。その場合そのパンチだけを引っ張り出して無意識で予備動作なく打てるまで繰り返す。パフォーマンスの最中に見えた癖を引っ張り出しトレーニングで強化するというのはよく行われる。一方、パンチを改善してパフォーマンスをしてみたら予備動作をなくそうとするあまり、反対の手が違う動きをしてしまっていたりする。部分が変われば全体は変容する。
パフォーマンスは常にトレーニングの要素を含み、トレーニングはいつもパフォーマンスを想定する。スポーツにおいてはまだわかりやすいが、社会ではこれらが相当にわかりにくい。パフォーマンスだけでトレーニングは十分だという人もいるし、日常のトレーニングの積み重ねこそ偉業を支えるという人もいる。明日の会議はパフォーマンスなのかトレーニングなのかよくわからない。ただパフォーマンスという概念を持ってミーテイングに入っている人や、トレーニングだと思い雑談をしている人との差は大きい。これは結果を出すためか。これは学びを得るためか。だから能力は低くてもパフォーマンスとトレーニングを意識してこだわれば、圧倒的一位は無理にしてもそこそこまではいけると思う。
1日は全てパフォーマンスとも言えるし、トレーニングとも言える。私としては朝起きて今日のパフォーマンスを最大限に高めようとして、1日の終わりにいったいどういうトレーニングだったのかをまとめようとしている。それが今のところ一番しっくりくる。
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この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役
1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。