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スポーツ  投稿日:2016/9/26

自分だけの物語を生きる意味


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

今日電車に乗っていて、そういえば現役時代に、いくら努力しても叶わないことがあると知った時のことを急に思い出した。確か16、7年ぐらい競技を行なってきた頃だったろうか。それなりに陸上競技には時間を費やしてきて、自分ではエキスパートのつもりだったが、陸上を始めて1、2年のハードル選手に負けるということがあった。まだ高校生のアメリカの選手だった。ああ、持って生まれた能力が全然違うんだと打ちのめされたのを覚えている。

今考えれば、人生において何度も才能を持った存在に出会い、頑張れば必ず夢が叶うわけではないんだということを薄々気づいてはいたのだと思うけれど、この時に始めて直視することになった。それまではそれを認めてしまえば自分の人生がなんだったのか、今後一体何を頼りに頑張ればいいのか、そしてそもそもそれを認めることは弱さだと思っていたので見ないふりをしてきた。ある種の諦めがあったのか、大人になったのかわからないが、現実がそうなのにそうではないという風に思い込むことに無理が生まれてきたのだろうと思う。

あの時の感情を一言で言うと、正義感だった。努力と成果がイコールしないなんて許せない。生まれながらに差があるなんて許せない。みんな頑張っているはずなのに成果が出た人の声しか社会に届かないなんて許せない。俺が費やしたこの16年が報われないなんて許せない。どうして頑張った自分が持っていないものをあいつは持っているのか。ハンバーガーを毎日食べている彼に全く勝てないなんて許せない。

いくら努力しても努力しても、さほど努力もしない人に負けることはよくある。人は生まれた時に差があり、環境にも差があり、幸運に恵まれる人も、不運な人もいる。いいことをしたから報われるとも限らず、悪いことをしたからバチが当たるとも限らない。世の中は不条理である。必ずいつか報われるということはそう思い込むことで自分を奮い立たせる方便としてはいいが、現実はそうではないと思い始めた後にその価値観の処理をどうすればいいのか。

それから幸福とは何か、それを感じる自分とは、心とは何かということを考え始めた。おそらくそれがないともう頑張りきれなかったのだろう。人間には納得しないとやる気が出ないという、非常に厄介なところがある。

きっかけはなんだったかもう忘れてしまったけれど、ある時から、幸福というのは自分はどこまでいったかというよりも、自分という存在をどこまで使い切れたか、能力を引き出し切れたかによるのではないかと思うようになった。自分という存在を使い切った結果、社会のどの位置でどんなことをしているか知る由も無いが、おそらく自分は幸福なのでは無いか。振り返れば思うようなレースができた時の幸福感がそうではないか。結果ではなく今を見つめて、自分を表現しきるということをやってみようと。

人は物語を生きている。自分にしか生きられないと感じられる物語を生きている時、幸福なのでは無いか。

為末大 HP より)


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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