[為末大]「客観的である」という事は「誰の視点でもない視点」からではなく「たくさんの視点」から見る事が出来るという事だ〜本当に「倫理的な人」はどんな人?
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
◆倫理の中で生きる人◆
客観的に見る。論理的に考える。…と言うけれど、一体それはどういう事なんだろうか。幾つかの要素があるように思うけれど、一つの特徴として倫理から一旦離れる事ができるかどうかは大きいように思う。
悪い事をしない人にも二種類いて、「悪い事を思いつかないからしない人」、もう一つは「悪い事も思いつくけれどしない人」。同じように見えて実は随分違う。倫理的にしか物事を考えられない人は、客観的に物事を見られないように思う。
「客観的である」という事は、誰の視点でもない視点から見るのではなく、「たくさんの視点からそれを見る事が出来る」という事ではないかと思う。そういう点で倫理的にしか考えられない人は悪人の視点がない。善人の視点しかなければ客観視は難しい。
倫理的な人は、時に議論ができなくなるのは、倫理の“タガ”を外せないから。というよりも倫理の中で生きている事を自分で知らない。一旦倫理は置いておく事ができないと議論する事は難しい。ダメなものが「なぜダメなのか?」を考えた事がない。
倫理の中で生きていると安心。自分は何も判断する必要が無い。悪いかどうかは既に決まっていて、自分で考えて決める必要が無い。決めたのは自分ではないから責任を感じる必要も無い。倫理を外して考えるのは怖い事でもある。
まずは善悪を取っ払って考えてみて、出てきたものを倫理的に眺めている。本当に倫理的な人というのは、悪い事もできるけれど、それをしない事をいつも選べる人だと思う。
◆意味化する記憶◆
“記憶は嘘をつく”という本を読んでいる。
著者が「自分の記憶の中にある白い手袋」が、実は存在していなかった事を例えに出して、記憶はどういう形で存在しているのかという事、記憶はそもそも確かなのかという事について展開されている。
私達は人生で見たもの体験したもの全てを頭の中に記憶していて、思い出せないのはそこにアクセスする事がうまくいかないからだと思っているのが、実は間違いかもしれないと書いてある。人の記憶は無意識のうちにかなり編集されてしまう。
一言で言えば、私達は見たものを記憶しているのではなく“意味”を記憶している、とある。あの日の夕日を記憶しているのではなく、自分にとっての夕日の意味を覚えている。夕日そのものではなく夕日を見たときの気分を覚えている。
僕は全く勉強ができなくて教科書に書いてある事を覚えられなかったのだけれど、「人が話した内容」や「本の内容」に関してはかなり記憶している。話を聞いて、「なるほど、つまりこれはこういう事か」という風に解釈をして、それを書くか話す。意味として覚えれば覚えられるらしい。
人の記憶がいかに曖昧で、正確でないかという事の一方で、つい先日スキーをやってみたら全くどうすればいいのかわからないままに滑ると身体が勝手に動いた。認知症の方は、例え忘れてしまっていたとしても、自転車に乗れるし、言葉もしゃべれる。身体の記憶は随分と残る。
子供のとき、橋の上を母親と二人で歩いていてひたすらに正面を見据えていた記憶を思い出す。あれが僕の人生にとってどういう意味を持っているのかは、僕もよくわかっていない。
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