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スポーツ  投稿日:2017/7/26

私と外界を隔てるもの


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

脳を鍛えるには運動しかないという本を書かれたレイティ教授と対談をしました。人間は本来動物であるから、人類史で長らく置かれていた状況を再現する方が、人は健康になるし、可能性も広がるということを提唱されている方です。

一例ですが、イリノイ州の子供達が、授業開始の前に0時限授業と称して運動を行なったところテストのスコアが上がりました。朝早起きしたことによる影響の可能性もありますが、著書では運動の効果ではないかと結論づけられています。

人類史のほとんどの時間は狩猟で生活をしていたわけですから、運動時に思考が働くということが重要だったのだろうと思います。狩猟を行なっているときは一日に10マイル以上歩行か走るという行為をしていたそうです。

マインドフルネスという概念がありまして、これについて少し伺ったのですが、通訳を入れて行なったのであまり理解が進みませんでした。ですが、著書を読んだ時に詳細にわたって書かれていまして、とても納得をしました。シンプルにいえばマインドフルネスとは自分と外界を分けるという感覚が薄れる世界なのだろうと思います。いまここの世界です。

近代とは観察し、名前をつけ特定し、構造化し、こぼしてしまうものがありながらもモデルとして理解するということが多いように思います。それは何かを理解する上でとても重要なことですが、一方で自らが観察者になることがどうしても必要になります。眺める私は、眺められる対象と切り離しが必要になります。

エーリッヒフロムは、著書の中で”最初は隔たりのなかった自分とそれ以外が分かれてしまい、私たちは孤独を感じるようになった”と話しています。

日本にNatureという言葉が入ってきた時に、それらはしぜんと訳されたと書かれた本を読んだことがありますが、以前には自然をじねんと呼んだ頃があったそうです。しぜんとじねんの違いは何かというと、シンプルに言えば自分が入っているかどうかだそうです。つまり私がしぜんを眺めるは成り立ちますが、私がじねんを眺めるは(私自身がじねんの中に入っていますので)成り立ちません。

そういった世界観を私たちは持っていたのではないかというわけです。

現代社会において何かを客観的に観察し、特定し、構造化し、理解することは多いですが、人類史の多くの時間では、私という感覚は薄く、外界とも切り離されていなかったのではないかと思います。そうは言っても仕事のほとんどはこのような行為を必要とされますから、私たちの日常のほとんどは観察者として過ごしていると思います。

人々が何かに夢中になる時、心を奪われる時に、まさにそれはその瞬間に客観的に見る私の不在を意味するのではないでしょうか。釣りをしたり、スポーツをしたり、ゲームに興じたり、またはアートを見たり。我を忘れる夢中の行為が余暇では好まれているというのは示唆的だなと感じます。

(この記事は2017年6月26日に為末大HPに掲載されたものです)


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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