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スポーツ  投稿日:2015/7/20

[神津伸子]【甲子園春夏出場 父・兄の背中を見て始めた野球】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 5~


神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)

執筆記事プロフィールFacebook

江藤省三。野球評論家。元プロ野球選手(巨人・中日)、元慶應義塾大学硬式野球部監督。今、尚、少年野球や高校球児の指導に情熱を降り注いでやまない。その熱い想いの源は、どこから来ているのだろう−。

江藤の野球人生は、父親と中日の伝説のスラッガー、野球殿堂入りもしている長兄・愼一の背中を見て、スタートしたと言っても過言ではない。

生まれは、熊本県山鹿市。野球は、父親・哲美の影響で始めた。父は戦前、社会人野球の八幡製鐵(現・新日本製鉄住金)の選手だった。ポジションはピッチャー。無類の野球好きで、現役引退後も、野球三昧の日々だった。子供心に、その印象が強かったのか、大きくなったら野球をするって、自然に思っていた。男ばかりの4人兄弟で長兄の愼一が、すでに野球をやっていて、体も大きく、とても上手かったことも大きく影響したという。

だが、幼少期、父から直接、球の投げ方ひとつさえ、野球の指導を受けたことは一度もなかった。キャッチボールをした記憶すら、ない。強いて言えば、野球部がなかったため、江藤が小学校でやっていたソフトボールを、グローブせずに、素手で投げ合ったことは、何となく記憶に残ってはいる。

熊本県山鹿市の山鹿小学校入学時(小5で松橋小に転校)から、宇城市で過ごした。幼稚園児の時は、すでに野球のユニフォームを着ていたから、物心ついた時から、野球どっぷりの生活だった。ところが、野球を初めて父に習ったのは、監督を務めていた同市の西部中学に進学してからだった。厳しい監督で、手も飛んで来た。当時、長兄の愼一は、すでに県下でも有名な野球選手で、省三の憧れでもあった。

4人兄弟の長男・愼一がプロ野球選手、二男・賢二は起業して事業家になり、三男が省三自身、四男・俊介は川崎市の教員になった。俊介は退職後も、絵画を教えている。皆それぞれ才能を生かした道に進んでいる。実に多才な家族だ。上三人が、それぞれ、名前に一、二、三と付くのに、四男だけは四を頂かない。どうしてかと尋ねると「親も、もうどうでもいいと、思ったらしい」(省三)。

プロ入りしてからは、兄弟スラッガーともてはやされ、何かと比較された長兄・愼一は激しい気性、感情を表に出す人間だった。対照的に、省三は温厚と言われていた。が、本人に言わせると「内に闘志を秘めるタイプ」。心の中は、ギラギラに燃えたぎっていたという。兄は尊敬する選手でもあり、良きライバルでもあった。

母・登代子は、奔放で家を野球のために空けがちな父を支えて、本当に良く家族を支えてくれていた。男4人の食べ盛りをお腹いっぱいにさせるのは相当大変なことだっただろうと、振り返る。

地元の熊本商業高校に進学したが、兄が中日ドラゴンズに入団したことから、名古屋市内に転居、中京商業に転校した。ポジションは、この当時は外野手で、主にレフトを守った。当時、中京商業は全盛期だった。学校の雰囲気が、もう甲子園優勝しないと学校に帰れないくらいだったという。実際、3年生の時には年間、練習試合を含めて70試合をこなしたが、戦績は68勝2敗。負けたのは春夏の甲子園で敗れた試合だけだった。この時には、サードにコンバートされ、主将も務めた。

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甲子園は、1961年の春の選抜1回戦で、小倉工業に惜敗。夏の大会では優勝した尾崎行雄(東映フライヤーズ、現北海道日本ハムファイターズ)を擁する大阪の浪商に、準々決勝で完封負けした。悔しかった。今でも、あの試合は忘れることが出来ないという。高校時代で、一番印象に残っている試合でもある。

「同じ高校生なのに」。

その後、野球を続けるために、兄・愼一の推薦で明治大学に進学するつもりだった。しかし、3年の夏の甲子園終了後、慶應義塾大学硬式野球部の当時の前田祐吉監督が、突然、中京商業まで出向いて来た。

「君、慶應で野球をやらんかね。
でも、慶應には、野球だけでは入れんよ」と。

「それならば、絶対に合格してやる!」
と、江藤は発奮。逆境に燃えるタイプだった。

当時、同大には推薦制度が無く、死ぬ気で勉強するしかなかった。秋の優勝した国体に出場した時も、宿舎で勉強していたくらい必死だった。
“四当五落”。
受験勉強のために深夜まで勉強をして、平均睡眠時間が4時間なら志望校に合格、5時間なら不合格という事だ。もちろん、江藤は4時間睡眠で頑張り抜いた。多少の睡眠不足も補える体力には、自信があった。それまで慶應に進学した卒業生は、数えるほどしかいなかった。「今だから言えるが、学校は登校しないで、受験勉強に没頭することを、認めてくれた」。

合格のコツは、とにかく受験科目が少ない学部を選ぶことだった。3年の秋からの取り組みでしたから、多くの科目数をこなすことは不可能。受験する学部は文学部と法学部政治学科に絞っていました。「当時は英語と社会だけで良かったように記憶する」。

残念ながら、政治学科への合格はかなわなかったが、晴れてというか、奇跡的に文学部に合格通知を勝ち取った。実に、勝負強い男である。

今で言えば、“元祖ビリギャル”ならぬ、奇跡の“ビリ男”。

春からは、あの憧れのグレーの慶應のユニフォームに腕を通せることになった。

( 6につづく。
【“24の瞳”少年・高校球児を指導する男】〜「野球は人生そのもの」江藤省三物語 1~
【誰にでも甲子園はある】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 2~
【教え子の一言に「ふるえた」。】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 3~
【教えは受け継がれてゆくものだから】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 4~
も合わせてお読みください。)

 

<江藤省三プロフィール>

野球評論家。元プロ野球選手(巨人・中日)、元慶應義塾大学硬式野球部監督熊本県山鹿市生まれ。
会社員(父は八幡製鐵勤務)の四人兄弟の三男として誕生。兄(長兄)は元プロ野球選手、野球殿堂入りした愼一氏。
中京商業高校(現中京大中京)で1961年、甲子園春夏連続出場。同年秋季国体優勝。
卒業後、慶應義塾大学文学部に進学、東京六大学野球リーグで3度優勝。4季連続ベストナイン。

63年、全日本選手権大会で日本一となる。
65年、ドラフト元年、読売巨人軍に指名される。
69年、中日に移籍。代打の切り札として活躍。76年引退。
81年、90年から2度巨人一軍内野守備コーチ。

以降、ロッテ、横浜でコーチ歴任。
解説者を経て、2009~13年、慶應義塾大学体育会硬式野球部監督。
10・11年春季連続優勝。
この間、伊藤隼太(阪神)、福谷浩司(中日)、白村明弘(日本ハム)のプロ野球選手を輩出。
14年春季リーグ、病床の竹内秀夫監督の助監督として、6季ぶりに優勝に導く。
 
※トップ画像:子供の頃から書き続けていた野球ノート、スコアブックなど。
※文中画像:「勝つのが当たり前だった高校時代。中京商業の全盛期だった」と、熱く語る江藤氏。

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