[林信吾]【ロンドンのJJエリアを知っていますか?】~ヨーロッパの移民・難民事情 その4~
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
……などと突然聞かされても、一体なんの話だ、と思われることであろう。
ロンドン北西部、ゴールダーズ・グリーンという街だが、ここはもともと、ユダヤ人街であった。ヨーロッパ大陸の古都で、強権的に生み出されたゲットー(ユダヤ人居住区)とは違い、自然とユダヤ人が集まるようになったものらしい。
大体において、移民と呼ばれる人たちは、まとまって住む傾向にあり、東京の例で言うと、上野界隈は昔から在日コリアンが多く住むことで知られていたが、昨今コリアン・タウンあるいは韓流タウンと称される新大久保は、実はニューカマーと呼ばれる、新たに日本にやってきた韓国系住民が多いそうだ。私見ながら、この、まとまって住む傾向というのが、移民を取り巻く問題(たとえば在日の政治参加)にも微妙な影を落としていると思うが、今回の主題はそのことではない。
なぜゴールダーズ・グリーン界隈がJJエリアと呼ばれるかと言うと、もともとユダヤ人街だったところに、日系企業の駐在員が多数住むようになったからである。読者ご賢察の通り、JewとJapaneseの頭文字をとってJJなのだ。
第二次世界大戦後、英国市民の対日感情がとても悪かった当時も、ユダヤ系の人たちは、日本人にこころよく部屋を貸した。日本人はユダヤ人の受難の歴史と無関係なので……などとよく言われるのだが、先の大戦に関しては、なにしろナチスの同盟国だったわけだから、これは鵜呑みにはできない。
ではなぜ、ユダヤ人と日本人がロンドンで共存する状況が生まれたのか。「ユダヤ人コミュニティーの間で、日本人は部屋をきれいに使うし金払いもいい、という話がひろまった結果、ユダヤ人の大家と日本人の店子、というケースが増えた」
「日本人がまだまだ敵視されたり差別されたりしていた当時、ユダヤ系の人だけはこころよく部屋を貸してくれる、という話が、日本企業で知られるようになった」
とふたつの説があり、どうもニワトリと卵みたいな話であるらしい。
なみに前者の説は、1970年代から英国に住み、『大人のロンドン散歩』(河出文庫)などの著書があるフォト・ジャーナリストの加藤節雄氏から、後者はその名もロンドン東京プロパティー・サービスという不動産エージェントの代表である菊地邦夫氏から、いずれも私が直接聞いた。私がこの地域に住んだのも、菊池氏がよい物件を紹介してくれたからである。たしかに当時、外に出れば一度くらいは日本人を見かけた。
ところが1990年代から、様相が変わり始めた。日系企業の駐在員たちがJJエリアを離れ、別の沿線に住むようになったというのである。そういうことになった理由は、簡単だ。
それまでゴールダーズ・グリーンと同じ沿線のハムステッドという街にあったロンドン日本人学校が、1987年に西部のアクトンに移転したのである。折からのバブル景気で、日本企業が海外進出ラッシュの様相を呈し、家族ともども赴任してくる人が増えた。その結果、今までの校舎が手狭になったというのが主たる理由であったと聞く。企業駐在員達が西部に多数移った理由は、もはや多言を要しないだろう。家を選ぶ際、子供の通学事情を考慮しない親などいない。
つまり、移民がまとまって住む傾向があると言っても、本当のところ、それは結果に過ぎないのではないか。文化とか国民性といったことではなく、もっと現実的な理由で、便利なところに人が集まったのではないか。未だ早計には言われないことだろうが。
ここでひとつ言っておきたいのは、日本人も海外に出ればガイジンなのだから、国内でも「よそから来た人」には、もっと寛大であらねば、ということだ。
(この記事は
【“移民”なくしてロンドンなし】~ヨーロッパの移民・難民事情 その1~
【スポーツと政治と移民問題】~ヨーロッパの移民・難民事情 その2~
【ユダヤ人問題は“いじめの構造”】~ヨーロッパの移民・難民事情 その3~
のつづきです)