[千野境子]【軍政の終わりと次なるステージの始まり】~ミャンマー総選挙とアウン・サン・スー・チー氏のこれから その2~
千野境子(ジャーナリスト)
自信を深めたのだろう。翌11年3月、軍政は民政へと移管する。選挙のお墨付きを得て、さらなる延命を図ったとも読める。
実際、軍服を脱いだ元大将のテイン・セイン大統領以下、閣僚のほとんどが元軍人の「民政もどき政権」であり、スー・チー氏も依然として自宅軟禁中だったから、内外とも先行きに懐疑的で、実力者タン・シュエ将軍が院政を敷くという見方がもっぱらだった。
ところで私はこの民政移管で、スー・チー氏が最初の自宅軟禁中だった95年1月にミャンマーを訪れた際に耳にしたエピソードを思い出した。
日本の経済界のリーダーが軍政幹部に「せめて軍服を脱ぎ背広で政権を運営した方が世間の印象も和らぐのではないか」と助言したところ、幹部はこう答えたと言うのだ。
「軍服は何時までも権力の座に居座らないという我々の意思表示です」。
果たして本当にそのつもりだったのか、諸般の事情で図らずも軍政を続けたのか、単なる言い訳だったのか真相は不明だ。ただ軍服を脱いだ彼らが着たのは背広ではなく、ミャンマー伝統の衣装だった。対立するNLDもスー・チー氏はじめ幹部も民族衣装でこの点は同じである。その意味ではどちらも伝統と歴史を重んじ、ナショナリズムを暗黙のメッセージとして発信している。
半信半疑のうちに始まった民政移管だったが、大統領に当時軍事政権のナンバー4だったテイン・セインが就任し、野心満々のナンバー2、シュエ・マンが下院議長に回った予想外の人事に、民主化進展のカギが潜んでいたように思う。
心臓病の持病があり引退さえ噂されたテイン・セイン大統領は就任するや、矢継ぎ早に改革を行い、とくに中国によるミッソン・ダム開発の凍結やスー・チー氏とのトップ会談は内外を驚かせた。
奇しくもそれは北アフリカのチュニジアで、ベン・アリ独裁政権を退陣させたジャスミン革命が始まり「アラブの春」が動き出したのとほぼ同じ頃だった。国際情勢というのはやはりどこか連動するものであるようだ。
長年のミャンマー・ウォッチャーが「いま起きている現象は5年、10年前の過去の経験則が通じない未知のところに入っている」と驚きを持って語っていたのが忘れられない。
〝未知の領域〟の一つは、軍政を厳しく指弾してきたスー・チー氏がテイン・セイン大統領と初めて会談しただけでなく、「信頼できそう」「本気で改革を進めようとしている」と評価したことだろう。欧米もこれを機に同政権をまともな相手として考え始めた。
もう一つ、アジア・リバランス政策の下、ヒラリー・クリントン米国務長官が2011年11月に国務長官としては実に56年ぶりにミャンマーを訪問、スー・チー氏とテイン・セイン大統領と相次ぎ会談したことも大きい。ミャンマーの動向は白日の下にさらされ、改革を勝手に後戻りさせるわけにはゆかなくなったのである。
それから今回の総選挙に至るまでの約4年間は、漸進的改革の時代と総括してもほめ過ぎではないと思う。「アラブの春」のその後の惨憺たる展開を思えばテイン・セイン政権の取り組みはもっと評価されてよい。
16日から現政権最後の議会が首都ネピドーで開催中だ。ミャンマー初の平和裏の中の政権交代のチャンスが近づいている。
(この記事は、 【国民から嫌われ続けた軍政】~ミャンマー総選挙とアウン・サン・スー・チー氏のこれから その1~ の続きです。その3に続く。本シリーズ全3回)