[為末大]「自分はいる」という自己確信〜本当に欲しかったのはメダルではなくて、メダルを取る事で世間に認められることだった
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
◆自覚的欲求と無自覚的欲求◆
本当に自分のやりたいもの、欲するものを追いかける事が人生の成功の秘訣だ、という言葉を成功者はよく言う。これは「そうなんだろうな」と僕も思うけれど、実は多くの人は自分が本当は何を欲しているかがよくわかっていないようにも思う。
「負けず嫌い」が僕が前にいたスポーツの世界には多かったけれど、よく見ていると「負けず嫌い」にも二種類あったと思う。一つは自分の本職で負けたくない人、もう一つは例えなんでも他人より劣っていたくないから負けたくない人。
後者の「負けず嫌い」を分析すると、突き詰めれば自信の無さに行き着く。本当に欲しいのは勝利ではなくて、自信なのだけれど、自分の内側からは自信を生み出せなくて、それで他者からの評価に自信の源を求める。
一所懸命に働いて、人生を成功させた人が、なぜか一所懸命に自分の力や実績を誇示しているのを見ていると、姪っ子が母親の気を引こうとして頑張るものとさほど変わらないように思える。お母さんにこっちを向いてもらう事が、結局本当に欲しいものだったりする。
メダルを初めて取った時、これが欲しいと思っていたけれど、本当に欲しかったのはメダルではなくて、メダルを取る事で世間に認められる事なんだと思った。そして世間に認められる事で私が得たかったのは、「自分はいる」という自己確信だったんだと思う。
本当に欲しいものが何なのか。それを自覚する前に欲しいものを追いかけても、手に入れては違う、手に入れては違うの繰り返しだと思う。眼鏡を探しているお父さんが、探し疲れて座り込んだ時に「おでこにかかった眼鏡」に気づく。そんなもんじゃないかと僕は思う。
◆帰りの会式批判法◆
僕は広島出身で、広島の僕のいた学校では一日の終わりに「帰りの会」というのが行われていた。そこでは反省や思った事を告げるのだけれど、時に誰かを糾弾する場にもなっていた。僕はあまり素行が良くなかったから、よく女子に『帰りの会で言うてやる』と言われていた。
今、引退して報道番組に出ていたり、ネットで情報を集めていたりすると、基本的には日本はこの「帰りの会で糾弾する」形式の批判が多いんだなと思う。私が私の価値観であなたを裁くのではなく、世間に晒してあなたを裁いてもらう。
「みんながそれはよくないと言っている。先生がそれはよくないと言っている」
「私がそれはよくないと思っている」という批判の仕方を私達は子供の頃から習っていない。だから誰かの代弁者として怒るというやり方を知らず知らず身に付けている。
「帰りの会」で、煽る役割を担う人が必ずいた。悪い事をした人を糾弾する時に、生き生きと目を輝かせて、正義の鉄槌をおろしていた。不思議と彼らはいつも多数派に属していた。というよりも善悪や体勢がはっきりした時にいつも現れていた。
世間様という空気に狙われないように、刺激しないように、どううまく立ち回るか。私達はあの小さな閉ざされた教室の中でそれを学んできた。それはとても民主的主義的だったように思う。数が正義。多数派ではない事が罪。
「彼らは普通だと思っていた」という本がある。善良な普通の村人がどうやってナチスドイツのユダヤ人迫害に関わっていったかという話。彼らが一様に言うのは「僕のせいじゃない」という言葉。今も私達は世間という空気に流されて生きている。
※本連載は、為末大の公式ツイッターの内容をJapan In-Depth用にまとめて掲載しています。
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