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.国際  投稿日:2016/11/8

知事選絡みのジャカルタ騒乱 インドネシアのタブーSARAとは


大塚智彦(Pan Asia News 記者)

「大塚智彦の東南アジア万華鏡」

11月4日、インドネシアの首都ジャカルタ中心部にある同国最大のモスク(イスラム教の宗教施設)「イスティクラル」で金曜礼拝を終えた多くのイスラム教徒が大統領官邸に向けて大規模なデモ行進を始めた。周辺地域から合流した白装束などに身を固めたイスラム教徒を加えたデモ隊は最終的には15万人以上に膨れ上がった。解散予定の同日夜になって一部のデモ隊が暴徒化して車両への放火や投石を始めたため、警戒に当たっていた警察部隊が催涙弾で応酬するなど騒乱状態に発展、治安部隊、デモ参加者の双方で約250人が負傷する事態となった。

スハルト長期独裁政権が民主化を求める学生などの運動で最終的に崩壊した1998年ごろはジャカルタをはじめとするインドネシア各地でこうしたデモ隊と治安部隊の衝突は頻発、日常の風景だった。2014年10月に誕生したジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領の下でこうした光景が久々に現実のものとなり、本格的なデモ隊と警察部隊との衝突が展開される事態となった。

デモ隊が求めていたのはジャカルタ特別州のバスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)知事の即時辞任という極めて政治的要求だが、その理由は「イスラム教徒の聖典コーランを侮辱した」という宗教的な背景であることが、このデモなど一連の動きを複雑なものにしている。

 

■社会の安全弁でもある禁忌「SARA」 

「多様性の中の統一」を国是とする多民族、多文化、多言語のインドネシア社会を理解する一つのキーワードに「SARA(サラ)」というものがある。これは「suku(民族)」「agama(宗教)」「ras(人種)」「antargolongan(階層)」の頭文字をとった言葉で、この4つが絡む問題は特に神経を使う必要があるのだ。

今回のバスキ知事辞任要求はこのSARAのうち、宗教と人種、さらに階層もが絡む実にセンシティブで微妙な問題であるとされる。SARAはインドネシアでは「触れてはならないタブー」「踏み込むことを躊躇する禁忌」と考えられているのだ。それだけにこの一線を越えると「容赦ない反発と批判、そして攻撃」が待っているのだ。多民族、多宗教、多人種、複雑な社会階層と出身地ヒエラルキーなどを内包する国家がその統一を維持するための「必要な安全弁」としての機能がこのSARAにはあるともいえる。

バスキ知事はスマトラ島ブリトゥン生まれ(地域の階層)のプロテスタント(宗教)で中国客家系の中華系インドネシア人(民族)である。国会議員を経て2012年に副知事に当選、2014年にジョコウィ知事が大統領に就任したのを受けて副知事から知事に昇格した。

9月27日にバスキ知事が住民の前で行った演説で「ユダヤ教徒とキリスト教徒を仲間としてはならない」とするイスラム教の聖典「コーラン」の一節(第5章第51節)に触れて「コーランの一節に惑わされているから、あなたたちは私に投票できない」と述べた。これが「コーラン、イスラム教徒を侮辱した」として強い批判と反発を招いたのだ。

バスキ知事は再選を目指して来年2月15日投開票の知事選に出馬しており、激しい選挙戦を展開している時期であったが、イスラム強硬派組織の「イスラム擁護戦線(FPI)」が知事の辞任を求めて大規模な集会とデモを計画。圧倒的多数を占めるイスラム教徒の聖典に言及したバスキ知事の発言は、SARAによるところのプロテスタントで中国系華人、スマトラ島の地方都市出身であることが相乗効果となって「知事辞任要求」「逮捕要求」へと一気に拡大してこの日の大規模デモへとつながったのだった。

 

■無視できない圧倒的多数のイスラム

FPIによるデモ呼びかけに対し、ジョコウィ大統領やユスフ・カラ副大統領は「デモはあくまで平穏に行うように」と呼びかけ、国家警察もFPIの代表を事情聴取するなど政府や治安当局は事態の沈静化に懸命に動いた。

インターネット上ではバスキ知事の発言とSARAを関連付けてデモや集会を扇動したり、知事を中傷誹謗したりする書き込みが急増。事態を重視した通信情報省が11のウェブサイトへのアクセスを強制的に遮断する措置を講じた。

なぜここまで「コーラン侮辱発言」が大きく発展してしまったのかを考えると、インドネシアが直面する課題が浮かび上がってくる。イスラム教を国教とするイスラム教国ではなく、キリスト教や仏教など他の宗教も認める世俗国家であるインドネシアだが、国民の約88%というマジョリティー以上、圧倒的多数を占めるイスラム教徒の力は社会のあらゆる分野でやはり相当のウェイトを占めているのが現実だ。

少女への暴行事件をきっかけに未成年の性犯罪に死刑や科学的去勢を含む厳罰化が国会で議論され、公の場での禁煙や禁酒が再び議論の対象になるなど、インドネシア社会を取り巻くモラル、規範の見直しの動きがこのところ顕著な傾向を示している。こうした流れの根底にあるのがイスラム教の教えであり、インドネシア社会の「モラル見直し」が図らずも「イスラム教のモラル実現」と密接に関連していることとが無視できない現実として横たわっているのだ。 

 

■デモの背後に政治的黒幕?

SARAに触れる問題というだけでも複雑な背景なのに、今回のデモについてジョコウィ大統領が「デモの背後に政治勢力がいる」と指摘したように、政治的背景の存在が今回のバスキ知事を巡る騒動の火にさらに油を注ぐ結果を招いている。

今回のデモに至るバスキ知事批判の一連の流れを背後で画策している黒幕として名前が挙がっているのがユドヨノ前大統領だ。ジョコウィ大統領は与党闘争民主党(PDIP)所属で、バスキ知事は紆余曲折があったもののPDIPの支持を受けて知事選に立候補した経緯がある。このPDIPと犬猿の仲とされるのがユドヨノ前大統領率いる民主党で、バスキ知事の「コーラン侮辱発言」を単にバスキ知事批判だけでなく、知事を支持するPDIP批判、さらにPDIPのジョコウィ大統領批判につなげようと画策した、と指摘されているのだ。

その理由はいたって単純明快で知事選にはユドヨノ前大統領の長男で元軍人であるアグス・ハリムルティ・ユドヨノ氏が民主党など4党に擁立されて立候補しているのだ。名指しされた形のユドヨノ前大統領はデモの2日前の同月2日にわざわざ会見して自らが黒幕とする見方に「誤った情報だ。特定の勢力を黒幕に仕立てるべきではない」と反論した。

バスキ知事を批判する勢力はインドネシア国民が等しく反発するSARAを持ち出すことで政治色を覆い隠し、知事選での巻き返しを突破口に現政権批判につなげようとしている、とみられている。デモの背後にそうした深刻な動きを感知したからこそジョコウィ大統領は5日から予定されていたオーストラリア訪問を急きょ延期して、副大統領を通じて指示したバスキ知事への2週間以内の捜査終了を見守る姿勢を示すなど事態の対応に取り組んでいる。

バスキ知事に対する国家警察の事情聴取が7日に行われ、9時間近い事情聴取を終えたバスキ知事は「全て明らかになったと思う」と報道陣に話し、捜査終結への期待をみせた。捜査当局は今後、問題となったバスキ知事の発言を編集してネットにアップし一連の騒動の発端となった大学講師など関係者の事情聴取を進める。大統領の指示で2週間以内に結論を出すとみられる捜査結果次第では「知事の即時辞任」や「知事逮捕」を要求する強硬派が再び大規模な街頭デモを組織する可能性もあり、ジャカルタは再び緊張状態に包まれる懸念がでている。


この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト

1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。


 

大塚智彦

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