トランプ思想の軸は? まだ見えない政治哲学
嶌信彦(ジャーナリスト)
「嶌信彦の鳥・虫・歴史の目」
外務省をはじめとする日本の官僚にとっては、来年1月20日のトランプ政権発足までの約1ヶ月は、これまでになく頭の痛い厄介な月日になるだろう。まさかの大逆転で、ヒラリー・クリントン氏が敗北したため、各省庁とも外交チャネルを一から作り直さなければならないからだ。
アメリカでは政権が代わると、閣僚や官僚トップ、中堅どころが総入れ替えになり、その数は数千人に上るとされる。さながらワシントンD.C.の民族大移動が行われるのだ。閣僚や次官、次官補などの幹部は議会の承認が必要なので、1月20日までに全員が決まることはまずない。大体8割ぐらい決まれば“良し”とされるほどである。
■新たな人脈構築の苦労も
特に今回の場合は、オバマ大統領の後を継ぐとみられた同じ民主党の本命ヒラリー・クリントン氏が敗北したため、その影響は大きい。ヒラリー氏なら同じ民主党の人脈の中から発掘できる。オバマ大統領も支持を約束していたから政権移行はスムーズに出来るとみられていたし、ワシントンにある各国の大使館も新たな人脈作りにそれほど苦労をしないで済んだだろう。
しかし今回選ばれたトランプ新大統領はアメリカの政治経験、軍隊経験を持たない、いわば一匹狼的な不動産ビジネスマンだ。その上、トランプ氏の思惑、考え方は選挙中の発言を聞く限りTPP反対、NAFTA(北米自由貿易協定)にも否定的だし、メキシコ国境に壁・フェンスを作り移民を入れない、不法移民のうち200-300万人に上る犯罪歴を持つ者も直ちに追い返すという激しさだ。
■今後は人事案がカギに
アメリカが戦後掲げてきた自由貿易、市場主義、移民受け入れなどの価値観には否定的で、保護主義思想、さらに女性蔑視や人種的偏見の発言も多い。アメリカの掲げてきた自由、民権、公正、包容力のあるアメリカ的思想を否定し保護主義的であり偏狭な人種差別さえ感じられる発言が多い。日本に対しては、世界を守る軍事的負担が少ないとか、農業の関税、特に牛肉に課している関税38%は高すぎるので、現行の対米自動車の輸出関税2%を牛肉の税率と同じにすることも考えるなどと発言。これまで積み上げてきた貿易ルールなどにも批判的だ。いわばアメリカ・ファーストの考え方でアメリカが有利となるようにルールを改正し、アメリカの経済をよくし、雇用を増やすと述べている。今後その方針を強行するか、修正しつつ海外とうまく調和してゆくかは“政権移行チーム”が選択する人事案にかかってくる。
■早くも懸念される移行チーム
政権移行チームの責任者にはマイク・ペンス次期副大統領(下院議員6期経験後、インディアナ州知事)が就任、政権の要となる首席補佐官には共和党の穏健派ラインス・プリーバス氏(共和党全国委員会委員長)、そして新たに設けた首席戦略官には右派の参謀役スティーブ・バノン氏(保守系オンラインメディア「ブライトバート・ニュース・ネットワーク」の会長)を充てると発表した。バノン氏は超右派で移行チームがはたしてうまく機能するか懸念されており、早くも内紛の報道も出ている。トランプ氏は早くもビジネスマンとしての手腕ではなくステーツマンとしての資質が問われている。
■安倍首相は世界の不安を拭えるのか
アメリカが戦後世界のリーダー役を担えたのは、軍事力、経済力が世界一だったからだけではない。アメリカが掲げる思想・価値観(自由、公正、人権尊重、多様な価値の承認、努力すれば報われる社会風土――等々)が、世界から支持されていたからだ。ロシアや中国などが世界の覇権を握るに至らず、崩壊したり、変容したのは、まさに社会主義的な思想、価値観に世界が共鳴しなかったからだろう。その意味でトランプ新大統領がどんな思想で世界を引っ張る基軸となるべき考え方を表明していくかのかが今後の最大の注目点だろう。過激な発言について一部では修正されつつあるが、本心はまだよく見えていない。世界中が1月20日までの人事、その後の所信表明で何を言うかに注目している。トランプ氏の一挙手一投足に、まだまだ大揺れすることだろう。安倍首相は先進国で最初に会う首脳だ。言うべきことは言い、世界のトランプ不安を取り除く責任は重い。
(この記事は日本時間18日、安倍ートランプ会談の内容が出る前に入稿したものです)
あわせて読みたい
この記事を書いた人
嶌信彦ジャーナリスト
嶌信彦ジャーナリスト
慶応大学経済学部卒業後、毎日新聞社入社。大蔵省、通産省、外務省、日銀、財界、経団連倶楽部、ワシントン特派員などを経て、1987年からフリーとなり、TBSテレビ「ブロードキャスター」「NEWS23」「朝ズバッ!」等のコメンテーター、BS-TBS「グローバル・ナビフロント」のキャスターを約15年務める。
現在は、TBSラジオ「嶌信彦 人生百景『志の人たち』」にレギュラー出演。
2015年9月30日に新著ノンフィクション「日本兵捕虜はウズベキスタンにオペラハウスを建てた」(角川書店)を発売。本書は3刷後、改訂版として2019年9月に伝説となった日本兵捕虜ーソ連四大劇場を建てた男たち」(角川新書)として発売。日本人捕虜たちが中央アジア・ウズベキスタンに旧ソ連の4大オペラハウスの一つとなる「ナボイ劇場」を完成させ、よく知られている悲惨なシベリア抑留とは異なる波乱万丈の建設秘話を描いている。その他著書に「日本人の覚悟~成熟経済を超える」(実業之日本社)、「ニュースキャスターたちの24時間」(講談社α文庫)等多数。