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.経済  投稿日:2017/4/22

日本解凍法案大綱 15章 社長の妻


牛島信(弁護士)

「先生、私、沙織おばさんに電話して、どうしてあんなことを知っていたのか聞きました。そしたら、先生の名前を教えてくれました。私が先生にお会いすることも承知してくれました」

梶田紫乃が、大木弁護士の事務所の会議室に座っていた。高野が座っていたのと同じ椅子だ。向かい側には、大木弁護士と辻田弁護士が並んでいる。

「叔母が株主総会で言っていたこと、ぜんぶ本当だったんですね。

先生はすべてご存知なんですよね。先生のところでお調べになったことですもの。

先生のところの弁護士さん、凄いですね。

資料、全部拝見しました。徹底的に会計帳簿とかが分析されていて、キチンと整理されている。感動ものでした」

株主総会が終わった翌日、梶田紫乃は大木弁護士に電話をしたのだ。

向島運輸の株主として相談がしたい、三津田沙織と同じ立場で話を聞いてほしいということだった。

「叔母に聞いた」という表現を梶田紫乃は使った。解任の株主提案にも、株主総会での三津田沙織の株主としての発言にも、自分は叔母に賛成だ。だから三津田沙織と同じ側に立って会社の建て直しをしたい。そのための第一歩が社長の追放だと思って、大木弁護士に会いたいのだと言った。離婚はとっくに決めているとことも無げだった。

「私は会社大事で生きてました。それが亡くなった創業者の三津田作次郎の遺志にいちばん添うことだからです。私にとっては私という人間を育ててくれた三津田作次郎が最も大事な方です。

夫も同じ思いでいるんだと頭から思い込んでいました。すべて任せてきました。でもとんでもないことだったのです。夫には私の知らない別の生活があったのです。想像もしませんでした。すべて信じていたから社長を任せていたのに」

そこには、会社のオーナーは自分で、夫の梶田健助は雇われ人に過ぎないというニュアンスがあからさまにあった。しかし、妻の考えは必ずしも夫の考えではなかったのだ。大木弁護士は、目の前の梶田紫乃の姿を眺めながら、口には出さなかったが心のなかでそう自らにつぶやいていた。

「いいえ、先生、私ももう63歳です。夫に女がいたからって、そんなことくらいでびっくりしません。初めてでもありませんし。

そりゃ、最初のときは大変でした。でも、夫が平謝りに謝って、それで終わり。大昔の話です。

今度は違う。あの人には外に子どもがいるんですよ。それも8歳の女の子。

私の子どもも8歳のときがありました。そのころのこと、よーく覚えています。昼間は会社で経理の仕事で目いっぱい働いて、夕方に飛ぶように家に帰って子どもの世話。夫はなにも手伝ってくれない」

「そうですか」

「そう。

先生、男ってみんなそうなんでしょうか?」

大木弁護士はたずねるように隣の辻田弁護士の顔を見ながら、

「そんなことはないでしょう。人によるんじゃないですか」

と素知らぬふりを決め込んだ。

辻田弁護士はなにか言わないわけには行かなくなってしまった。

「もうしわけありません。存じません。私は子どもはいますが、夫というものを持ったことはありませんから。

でも、夫にしたからにはお互いに愛し合った結果ですよね、誰に強制されたわけでもなないんでしょうから」

大木弁護士は穏やかな微笑を浮かべた。その微笑に安心したように、梶田紫乃が再び口を開いた。今度はずっと落ち着いた声だった。

「8歳だった私の娘にも今は子どもがいます。私の孫です。梶田健助の孫でもあります。ちょうど8歳です。女の子です。真代といいます。

私は梶田が外に作ったという子ども、万喜絵っていう名でしたよね、その子が、どういうわけでか私の子のような気がしてなりません。いえ、私の孫のような気がするんです。

変でしょう、先生?」

こんどは大木にともなく辻田にともなく問いかけると、二人の答えを待たず、

「でも、私は夫を許せない。

私を裏切ったからではありません。会社を裏切った男を許せないのです。創業者の三津田作次郎の思いの籠もった会社の金を横領するなんて。

せめて自分の金で遊んで欲しかった」

「でも、梶田健助氏には会社の金を持ち出す以外に自分の金を作る方法はなかったのではないですか?」

辻田弁護士が冷静な調子でたずねると、紫乃はさしたる関心事でもないかのように、まるで赤の他人の話のように、

「そうですね。そのとおりです。あの男には金を作る能力なんてなかった。

変なお話。

じゃあ、先生、私が悪かったことになるのでしょうか?

亭主に浮気代をやらなかったから悪い妻?

でも、どこの世界に亭主の浮気代を作ってやる女房がいますか?」

「それはそう。そうですね」

辻田が口を開く前に、大木が引き取った。真剣な表情を崩さない。

「梶田紫乃さん、あなたは会社の株主としてご相談にお見えだ。だからお会いしました。

もしあなたが会社の取締役専務さんのお立場なら、私どもがなにかお手伝いするというわけにはいきません。

向島運輸は私どもの依頼者である三津田沙織さんという株主の相手方からですからね。

会社を、株主同士、誰からみてもフェアに経営するつもりだということでしたからお会いしました。

あくまで、会社をフェアなものにするためです」

「安心してください。そんなことは心得ているつもりです。

私は、株主として向島運輸から梶田健助社長をどうやって追い出したらいいのか、その後でどうやって建て直したらいいのかを、株主と言う立場で教えていただきたいのです。オーナーだから好き勝手にするのではなく、会社をすべての関係者、ステークホルダーというのですか、その人たちにとってフェアな存在にしたいのです」

そう言ってから、悪戯っぽい目つきと声の調子で、

「先生たちへのお支払いには会社のお金は使いません。株主である私の依頼ですから私個人のお金でお支払いします。ご安心ください」

と言い足した。

大木が、

「ところで、梶田健助氏の持株はどのくらいの割合なんですか?」

とたずねる。

「個人ではほとんどありません。私も同じことです。51%のほとんどは家族だけが株主の会社、向島不動産という名前の資産管理会社のものです。それがパート・ワン、パート・ツー、パート・スリーの3社あります。どれも夫が社長です。株主は3社とも私たち夫婦と子どもだけです。」

「ほう、その3社の株の保有割合は?」

「私が33.7%、夫が17.3%。二人で51%です。それと子ども3人がみな平等で16.3%ずつです」

「で、お子さんたちはどちらの側につくとかあるんですか?」

辻田弁護士の質問に、答えるまでもないと言わんばかりに紫乃は、

「もちろん、全員私です」

とピシャリと跳ね返した。

「ほう。なんにしても少なくとも一人の子どもがあなたにつく限り、その二人で過半数になるようになっているんですね。

その3つの会社の社長を梶田健助氏からあなたに替えてしまえば、向島運輸はあなたの思うままになる」

大木弁護士が確認した。感に堪えないといった調子の声だった。梶田健助の立場が予想したよりもずっと脆弱なことがわかったからだった。社長といっても、乗っている舟は泥でできていたのだ。確かに、自分が本当のオーナーだと柴乃が思っているはずだった。妻に頭が上がらない、うだつの上がらない亭主というだけの話ではなかったのだ。

「では、その3社の取締役会を開くことになりそうですね」

「取締役会?そんなもの」

「法は法です」

辻田がきっぱりと言う。

「そうですか。

でも先生、私はあの人を地獄へ落とす必要があります。

そうでないと、私、あの世へ行って三津田作次郎に会わせる顔がありません」

大木の胸に「どうしてそこまで」という質問とともに「そもそも人間にとって地獄とはなにか。それはあの世にあるのか、この世にあるのか」という問いが浮かんだが、大木はそう口にする代わりに、

「地獄ねえ。まあ、この世のことですから、会社と縁がなくなるようにすることはできるでしょうね。損害賠償も取れるかもしれない」

と笑いながら、

「でも、経営は大丈夫ですか。従業員の方や取引先がありますが」

「会社なら、あの人の代わりならいくらもいます。不動産を貸しているだけの会社ですから、少しもののわかった人間なら誰でもいいのです。三津田作次郎が生前いつもそう言っていました」

柴乃はこともなげにそう言い放つと、

「でも、私にとってはたった一人の夫だったのですが」

ちらと寂しそうな声音になっていた。

やはり応えているのだ。当然だと大木弁護士は思った。26歳で結婚して40年近くになるのだ。感慨がないことはあり得ない。

(それでも、この目の前の女性は会社のことばかりを気にしている。

会社か。法人、組織、人の集まり。

そこに存在する、個人を超えた何か。

それだけじゃない。どうしてなのか創業した個人への思いが溢れている。

組織を創りあげた個人、か)

大木の頭のなかで、いつもの疑問が持ち上がってきた。

組織と個人、だった。

大木の事務所の若い弁護士たちが大車輪で動き始めた。5人の弁護士が動員された。

梶田柴乃も社外取締役を入れたいと言い出した。三津田沙織の願いでもあった。もともと大木弁護士が高野と話していたことだった。

同族会社、非上場会社こそ独立した社外取締役が要る。経営者の力があまりに強すぎるのだ。経営者以外のステークホルダーの利益に配慮するためには、どうしても経営者におもねらない取締役が必要だった。

だが、現実問題として簡単なことではない。

大木もそう思わないではなかった。上場会社ですら、結局のところは社外取締役など数合わせに過ぎないと非難されている。社外取締役に適した人材が不足しているのが現実だった。

「私、これからは向島運輸も他人様が経営者になって経営してゆくのだと思います。一族が経営者になると甘えばかり。自分の会社でもないのに、自分個人だけが存在していると錯覚してしまう。他にも株主がいるなんて露ほども思わない。

株主だけじゃありません。従業員もいます。取引先も大事です。

それに、不動産賃貸といってもお客様が大事です。うちのように小さな会社は、お客様がなにを望んでいるかに敏感に察知しなくては生きていけない時代になりつつあります。

私はオーナーとして、つまり会社を支配している株主として取締役に残りますが、経営に関与はしません。これまでと同じことです。

少しでも関われば言いたいことは一杯出てきてしまいます。すると、みんな私の言うことをきくしかありません。

でも、それでは会社のためになりません。私も私の人生がこの会社にしかないとは思っていません。考えようかもしれません。こんな会社でも、それが自分の人生の果実だと思えばそれなりに嬉しい。手を離すなんて考えられない。私が一番思いを込めているし手もかけてます。一番力もあります。そんな自負があります。私は年をとっても、会社を思う心では誰にも負けない。そんな自信みたいなものがあります。

いえ、多分あり過ぎるのです。

それに、こんなちっぽけな会社ですけど、働いているみんなのそれぞれの人生が注ぎ込まれています。その人たちが自分の人生を実現できたと思える会社であってほしい。

ですから、経営から独立した取締役にいて欲しいのです。経営に当たるのは私の部下。だから、経営から独立した立場の人に取締役として監視していていただきたいのです。

私のことも、会社のことも、私以外の株主のことも、なにもかも考えてくれるような人」

梶田柴乃はそこでいったん口を閉じると、大木弁護士と辻田弁護士の顔を相互に見比べるようにしてから、

「私、無理な望みだとはわかっているんです。

でも、先生、そういう人を探してください。

今度は失敗したくありません」

さびしそうに微笑んだ。

(なにもかも持っている者ゆえの哀しさか。

人間は贅沢なものだ。欲に限りがない)

大木の心のなかで、梶田紫乃に対する微妙な、アンビヴァレントな思いが交錯する。

依頼者としての梶田紫乃個人への弁護士としての忠実義務はもとより当然の前提だった。紫乃の個人としての思い、惑いはよくわかる。だが、梶田健助のやったことにも、人間のしたことなのだ、彼なりのなにかの理屈があるに違いない。もとより、それは大木の知ったことではない。だが、その観点を失えば、依頼者は全体像を見失ってしまう。それは依頼者にとって大きな不利益になりかねない。

なんにしても、いったい梶田と言う男はどうしてあの株主総会の場から逃げ出してしまったのか。なにが隠れているのか。

合理的に理解できない現象の背後には、自分の知らない要素が隠れている。大木はいつもそう思って仕事をしてきた。では、今回の隠れたファクターは何なのか?

梶田紫乃は向島運輸という会社を所有している。会社には物がくっついているだけではなく、人がたくさんつながっている。取引先も従業員もビルや駐車場のある地域も。それに少数株主がいる。少数株主には個人もあれば会社もある。無限の鎖のつながり。向島のある墨田区には26万人の人間が住んでいるのだ。東京都ならば1400万人近い。日本全体なら1億2700万。日本の外側には世界があって、73億が生きている。

漆黒の無限の宇宙空間に漂っている無数の鎖の束、千切れてしまった鎖の一つ一つ。大木はその光景を想像するたびに軽い眩暈を感じるような気がするのだ。

梶田紫乃という個人。一人の限りある命を生きる女性と生まれた人間。その人間は、向島運輸という会社、組織が生身の身体全体を鎧のように覆いつくしている。会社を支配している人間は、決して個人にはなれない。一人の人間になって、「良い人」になることはできない。

それが人類の創りだした文明の精華である株式会社の避けられない性質なのだ。

(社外取締役の候補は高野だな)

大木は直感した。

三津田沙織に事務所に来てもらって、大木の口から梶田柴乃の話を伝えた。沙織は大木弁護士と辻田弁護士に向かって、

「先生。あの人は結婚する前に私の夫と関係があった女性。だから紫乃っていう女性、最初の結婚がうまくいかなかったのです。離婚したら直ぐに三津田作次郎のところ舞い戻ってきて、こんどは三津田の部下になったばかりの年下の梶田健助とくっついた。

ご存じでしょう。

因果は巡るってことのようですね。昔風の小説みたい。

梶田健助さんにしてみれば、三津田作次郎の影をいつも感じていたに違いないでしょうね。

だから中野光代さんに走ったのかどうかは、私にはわかりません。たぶん、違う。

梶田さんのは、血。おじいさんがそういう人だったって聞いたことがあります。根っからの女好きだったそうですから」

「男と女のことは他人にはわからないものです」

大木はそう言うと、隣の辻田弁護士の顔をそっと覗き見た。優しい、しかし戸惑いを隠しきれない顔だった。

(16章に続く。最初から読みたい方はこちら


この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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