団塊の世代の物語(14)
【まとめ】
・三津野は、寝室で横たわったまま妻英子に話しかけている。
・死期が近い三津野は英子に最期の願いを託す。
・英子は戸惑いながらも、夫の願いを受け入れ約束を交わした。
「英子、僕はずいぶんと大きな役回りを果たすことになりそうだね。77にもなって。考えもしなかったな。大木先生はあんなことを言って帰ったけど、やっぱり自分でもとてもできそうな気がしない。他人の物語のようだ。フィクションもフィクション。おとぎ話のようだ。
でも、違う。現実だ。目の前に突きつけられている。
もうひとつ違う。これが僕にとって決定的に重要なこと。君がいる。」
三津野は寝室のベッドに横たわって天井をみすえたまま、ダブルベッドに滑りこんできた英子に話しかけた。
「君、さっき吉田松陰って言ってたね。君がそんなことを言うなんて思いもしなかった。松陰。若くて、無謀な人がいたんだな。
っていう辞世は知っていた。彼が日本を導いたんだとは知っていたけどね。でもね、大和魂っていうそういうものなのか、って、ね」
これは死の前日。」
英子が三津野の胸に右の手のひらをあてると、小さな声で、しかし鋭く、声に出した。「死の前日」というところで手のひらを前後に動かす。
「そうか。そういうことだったのか。」
三津野には身体じゅうから力が抜けてゆく感覚があった。
すかさず英子が羽毛布団をめくって、顔を三津野の胸に押しあてた。
「彼の死が日本を救ったの。」
英子が、そのままの姿勢でつぶやいた。
「死、か。」
三津野は大きなため息をついた。
「そう。死。死に甲斐」
「言ってくれるね。」
「ええ、私は『私的な潔癖や徳義』を大切に思わない人間だから。
好きよ、あなたのこと大好き。これが女が男を愛しているっていうことだと思っているの。だから、あなたには世のため人のために死んでほしい。一人では死なせない。」
「ま、僕も君も十分生きてはいるしね」
「いいえ、本当はもっともっと、1年でもひと月でも、1日でもいっしょにいたいの。あなたにくっついて、肌と肌であなたを感じていた。いまこうしているように。でも、それはあなたのためにならない。人は天命を生きるもの。あなたはそういう星の巡りあわせの人なの。」
三津野はしずかに立ち上がって書斎へゆくと、スマホを手にして戻ってきた。ベッドにもぐりこむと右手にスマホを掲げて英子に示す。
「ほら、こんなにたくさん組合員からの電話やメールが入っている。パソコンにはもっと来ている。誰もが、僕がどうするのか、バカなことをするんじゃないかって心配してくれている。」
「そう。『私的な潔癖や徳義』を大切にする人。国を誤る男たち。」
「君はどうしてそんなにハッキリとしているんだい」
「女だからよ。女だから、辛い目に遭って、でも負けないで、そのときに流されながら、でも歯を食いしばって、自分を叱咤しながら生きて来たの。女だから、あなたに会いたかった。死ぬ前にあなたをつかみ取りたかった。」
「そう言っていたね。えらいものに取り憑かれたってことかい?」
「知らない。そうかもね。嫌?」
「反対だ。これが自分の宿命だったんだな、っていう安心感がある。
あと何年生きるかしらないけれど、たぶん僕が先に逝く。死ぬ前には痛い痛いって泣きながら死ぬんだろうけど、よろしく頼むね」
子どもが母親にすがっている響きがあった。
「未だまだ先。すぐには来ない。でも、来たら、二人だけ。あなたは天命を果たして、もう思い残すことはないはず。」
「君を遺しているのが悲しい」
「悲しいのは私。先に行くひとは独りで歩き去ってしまうだけ。」
「そうだね。とぼとぼと独りだけで暗い道を歩いて行くらしいからね。」
「そう。もう私のことは忘れている。でも、追いかけて、思い出せてあげる。追いつけるように急ぎ足で追いすがるつもりよ。」
英子は三津野から身体を離すと、ぼんやりと上を向いたまま、
「でもその前に、あなたを顕彰しなくっちゃね。それが私の最後の仕事になる。」
「顕彰、ときたか。死んでしまった身には、もうなにもわからない。それは未だ生きている君だけの問題だ。」
「私だけじゃない。生き残っている私たち、それにこれから生まれてくる日本人たちの問題。」
「なにをどうするつもりか知らないけど、まあ、なんでもしたらいい。」
三津野は口をつぐんだ。英子も黙っている。
「でもね。」
三津野が他人事のように、虚空に向かって話しかける。
「頼みがあるんだ。僕が死んだら、しばらく、オシロスコープが心拍の停止を告げて医者がご臨終です、と宣告しても、しばらく、手をぎゅっと握ったままでいて。そして耳元で『好きよ、好きよ』って大きな声で叫び続けてほしい。
きっと未だ僕に伝わる。もう反応を返すことはできない。でも死んだ僕にはわかると思っている。
そのうち、君の声が聞こえなくなったとき、君の手の力が感じられなくなったとき、僕はきっと無事にあちらの世界に向かって歩きはじめることができる。そんな気がするんだ。
そのとき、ああ、英子と出逢って良かったな、悪い人生じゃなかったな、って最後の最後に思っている、その意識が薄れながら、暗いなかを独りで歩きはじめる。それまでの間、握って、叫んで。」
「え?いつまで?」
英子の困った調子の声が返ってきた。
「でも、わかった。そうします。」
そういって、英子は三津野の耳元でしっかりとした声で約束し、三津野の右手を左手で強く握ったまま離さなかった。
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出典)Photo by sudok1 /Getty Images
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
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