【日本解凍法案大綱】20章 鶴の恩返し
牛島信(弁護士)
赤坂8丁目、青山通りに面したカナダ大使館と王子製紙のビルの間の道を六本木に向けて200メートルほど下ると、新坂という名の坂に出る。端がクランク状の小さな交差点になっていて、その交差点の右手に濃いブルーの外壁をした小さなマンションが建っている。赤坂新坂パークマンションという名のとおり、三井不動産がつくった最高級ブランドのマンションだ。全9戸のマンションの一角、1LDKのユニットを紫乃は自分用に一つ持っていた。もちろん、これも会社のものだった。
ドアを開けると、1週間前に来たとき玄関のタタキに脱ぎ捨てたスリッパがきちんとシューズ・ボックスに収められている。紫乃のいない間に契約した清掃業者がしてくれるのだ。洗い立てのグラスが食器棚にきちんと並べられてもいる。
「なにか飲まれます?」
チーク材の北欧風ダイニングテーブルに向かって座っている高野に、紫乃が声をかけた。緊張した声だった。高野は少し落ち着かない様子で、背中を椅子の背もたれから離したままでいた。紫乃の身に着けたレモン・イエローのフェラガモの上下の内側から、そろいの色のブラウスに描かれた何匹もの猛獣がこちらを狙っている。
「あ、うん、そうだね」
高野はあらためて部屋のなかを見回した。胸の内では、今日はどうあがいてもアルコールの影響で何もあり得ないから落ち着いた気分でいられる、と自分に言い聞かせていた。
「いい雰囲気のスペースだね。あるじの心根がしのばれる」
窓に向かって視線を移そうとした高野が、ソファに目をとめて呟いた。真っ白な革を張ったル・コルビュジエのLC2だった。壁には赤や青の小さな花柄模様の壁紙が貼られている。
「素敵な壁紙だね。ウィリアム・モリス。好きなんだ。
真っ白なソファが壁紙の花に恋している。ソファの奴、近くに寄って話しかけたいのに動けないのが悔しいって顔している」
「まあ、それはそれは」
急須を傾けながら紫乃がほっと息を漏らした。
「ここ、買ってからしばらく使っていなかったんです。でも、場所がとっても気に入っていたから売らないでいましたの。
会社のことが一段落ついたので、自分なりに内装してときどき寄ってみようかしらと思って。
都心に出てきて買い物をした後、向島の自宅まで帰るのが面倒になったとき、都心のホテルに泊まるよりもドアを開けたとたんに自分の空間が広がっているっていうのも悪くないかもって。瞑想部屋ってところです」
「それはそれは、なんとも贅沢な瞑想部屋ですね。じゃ僕はとんだお邪魔虫ってことだ」
高野が冗談を飛ばしながら、常滑焼の湯のみに手を伸ばした。赤茶色の表に内側が白く塗られている。
「おやっ、このお茶はなんておいしいんだ。
静岡?それにしても、この鼻に抜ける甘さと爽快感は」
「ありがとうございます。表参道にある『茶々の間』という店で手に入れましたの。
あそこ、すばらしいんです。これ、青い鳥という名です。静岡から来ました」
「ほう、青い鳥か。好い名だ。若い鷗外がセイロンで青い鳥を買ったら、横浜に着くまでに死んでしまったことがあったっけ。そうか、そうなのか、これ青い鳥っていうのか。
でも、名があってもなくても、このお茶は美味しい」
「よろしかったら、この世で一番美味しい和菓子をごちそうさせてください」
「え、この世でとはまた」
「だってそうでしょう。和菓子は日本にしかない。ですから日本一ならこの世で一番。
私と歳の変わらないご夫妻が2人で、この近くで餡を練って作ってらっしゃるんです」
「そう。エイベックスの後ろにある『まめ』という名の和菓子屋さんだ」
「あらいやだ、ご存知でしたの?」
「ご存知もなにも、僕はもう何年もひいきにしている。
日本一はもう時間が限られている。
でも、あそこの春のウグイス餅は僕の人生の喜びの一つだよ。年に一度だけ。薄くて柔らかい餅とそのうえを包んでいる薄い緑色の大豆の粉。そして中に詰まった小豆のつぶ餡。
あー、いま思い出しても口のなかにツバキが溢れてくるようだ。
あのウグイス餅は人生の意味を定義する。人生がしょせんその場限りのものでしかないことを含めて」
「そう。そのとおり。でもご存知でいらしたんですね」
「残念?」
「がっかり。ちょっとだけですけど」
「おかしいね。美味しいんだからいいじゃないの。
でも、あのお店の女将さんを見ていると、僕はいつも鶴の恩返しの話を思い出す。
ほら、寒い雪の日、罠にかかった鶴を助けてやった男がいた話さ。
助けてもらった鶴は美しい女になって男を訪ね、夫婦になる。女は男のために見事な布を織ってやるのさ。男はその布を街に売りに行く。高い値段で飛ぶように売れる。
でも、女は織っている部屋を決して覗かないでくれと言う。そして、織物ができあがるごとに女はやつれてゆく。
哀れな、悲しい話だ」
「そうね。鶴は自分の羽を抜いて織っていたのよね。
『まめ』の女将さんもそうやって自分の羽を抜くようにして餡を練っているの?」
「そうなんだ。食べて美味しいとお客さまに感じてもらって、それぞれの人生の喜びのほんの一部にでもなれば、という思いを込めて骨身を削る。
小豆が練り上がれば、それだけ身が細る」
「じゃあ、これ止めておきます?」
柴乃が冷蔵庫から小さな白い箱を取り出した。なかに整然と生菓子が六つ並んでいた。
「いや、あそこのきんつばも僕の好物の一つなんだ。餡がたまらない。甘いものは別腹とは、昔の人はうまいことを言ったものだよ。
僕の友人に小説も書く弁護士がいる。心が挫けかけた女将さんは、その男の書いた小説を読んで働くことの意味、他人に喜んでもらうことのすばらしさを教えられて、気を取り直したそうだ。そして、またご主人と二人精出して和菓子を作っていらっしゃる」
一瞬言葉を止めると、高野は、
「その成果が、今、ここ、僕の目の前にある。生身から引き抜いた羽を織り込んで」
高野の右手の指がもう四角いきんつばをつまみ出していた。
つい先ほど、外苑前、絵画館からのイチョウ並木が246に突き当たったところにある寿司屋で二人だけの夕食を済ませたばかりだった。
「この店では海藻までが美味しいんだ」
高野の自慢の店だった。人に連れられて最初に来たとき、少しのご飯の上にのせられたイクラを口に入れた。その瞬間、「生まれて初めての味だ。イクラってこんなに美味しいものだったんだ」と小さく叫んでいた。何年か前の9月だった。オヤジがカウンターの向こう側でほんの少だけ唇を上げて反応したように見えた。
その寿司屋でモエ・エ・シャンドンのボトルが空くと、紫乃が誘った。
「一休みして、もうちょっとお話を聞いてください」
彫りの深い顔立ちの女将さん相手に勘定を済ませている高野に、柴乃がささやきかけた。二台の車を寿司屋の前、246に置いたまま、二人ならんで青山通りを10分ほど歩いて赤坂新坂にたどりついたのだった。
(ふーん、さすがに貸すほど不動産を持っているってわけか。これもその一つかな。
今いるこのリビングの向こうにあるドアの奥は寝室だろうか?それとも、ドアの外には、エドワード・ホッパーの絵のように何もなくて、一歩を踏み出したとたんに空中に放り出される仕掛けなんだろうか。まさか。
いったいどんなベッドなのか。ダブル?セミダブル?カーテンは薄い紫ってところだな)
高野の妄想がひろがる。
「私、ずっと少数株主の方たちのことを考えているんです」
「そうでしたか。
私はてっきり、前の社長が持ち出したお金のことかと」
「ああ、あれはもういいんです。あの人はあの人なりの考えがあったんでしょうし。任せていた私がばかだったんです。まあ、手切れ金と思えばいいことです」
「でも、地獄に落としてやるってすごい剣幕でいらっしゃるって辻田が言っていましたよ」
「そのとおりです。くやしかった。 でも、もういいんです。すべて辻田先生にお任せします」
「それがいい。彼女なら大津さんに一番良いことをしてくれます」
「それよりも、このあいだ高野さんが話してらした少数株主のこと。私、気になってならないんです」
「身を切られるよう、って言われましたよね」
「本当にそうなんですもの」
「もちろんわかります。私はムコージマでは社外の取締役ですが、自分でも会社をいくつも持っていますからね」
「でも、どれも上場していらっしゃらない」
「とてもとても、そんな規模ではありません」
「それなのに、会社にはガバナンスがとおっしゃる」
「私自身、いくつもの上場会社の株主ですからね。コーポレート・ガバナンスの議論は多少はわかります。
非上場では、オーナーの他に株主がいるかどうかが分かれ道です。
大木がこんな話をしてくれたことがありました。
『親子上場していると、子会社の社長はたいへんな目に遭うことがある。
親会社が子会社の金に目をつけて貸せと言ってくるのさ。社長としては困ったことになる。断れば、親会社だ、クビになってしまうかもしれない。といって、貸してしまえば自分が社長をやっている子会社の経営に差し支える。親会社は担保なんて出しもしない。子会社の少数株主たちの顔が社長の目に浮かぶ」
「で、その社長さん、どうするんですか?」
「大木弁護士のところに助けを求めてくるそうです。親会社の顧問弁護士では味方になってくれないので話にならない、と言って。
大木は法律意見書を書きます。
『少数株主の立場があるので、親会社からの要求といえども子会社はそんな貸付はできない』、と」
「へえ、なんだか不思議な話」
「でも、それで親会社は引っ込みます。親会社は上場している立派な会社ですからね。
最近も似たことがいくつかありました」
「上場しているって、すごいんですね」
「そう。他人にいつも裸の自分をさらさなきゃいけない」
「まるで小説家」
「渡辺淳一さんがそう言っていましたね」
「裸で往来を歩くようなものだ、って」
そう声に出しながら、紫乃は高野の椅子の後ろに回って両腕を高野の上半身に預け、しなだれかかってきた。高野は一瞬体の動きを止め、立ち上がると全身で紫乃を受けとめた。
(ああ、また同じことが起きる。同じ?違う相手でもしょせん同じ?いや、起きようがない。今の俺は安全な身体だ。)
高野はそう思いながら、手を伸ばして紫乃の上半身をきつく抱きしめていた。
体を離し、唇で唇を探す。紫乃が目を閉じている。
(ああ、ここに15歳の少女がいる。初めて男を受け入れる少女が)
二人、手と手をつないだまま隣の部屋に歩いて行くとベッドに倒れ込んだ。下になった高野には天井の灯りがまぶしかった。
(19章「人はそれぞれのタデを食べる」の続き。21章に続く。初めから読みたい方はこちら)
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html