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.社会  投稿日:2024/8/16

「令和5年の年賀状」団塊の世代の物語(7)


牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・73歳になっても、現役のまま、週単位で生きている。

・元気が増してきたのだ。具体的には筋肉量の増加を実感している。

・そうした運動が私の読書と執筆を可能にしている。

 

『日本の生き残る道』(幻冬舎)というエッセイ集を出しました。朝日新聞への連載エッセイを取りまとめたものです。付録が良い、と言ってくださる方もいます。

「これだ!日本」というBSテレ東の番組に出ています。一昨年に始めた失われた30年についての連続対談が14回で終わったところで、テレビに発展しました。毎月の第一土曜日午前11時からです。第1回は岸田総理でした。

弁護士としては、長く、忙しい一年でした。

73歳になっても、現役のまま、週単位で生きています。変ったのは、アルコールを全く摂らなくなったことです。それに、コロナのおかげで8年前には週1日だった運動が2日になリ、もう4年目に入りました。

いつ、どこで、どう果てるのかと思案することがあります。天寿と天命。どちらも終わって初めて分かることですから、我がことではないのでしょう。自分の力で生きているのではないと、つくづく思わされます。

一日が無事に過ぎることを願って、日々生きて行きます。

やっと去年まで来た。

「73歳になっても、現役のまま、週単位で生きています。」だなんて書いている。いい気なものだ。でも事実ではある。

「アルコールを全く摂らなくなった」のも事実だ。だが、実はこの身体にはそれ以上のことが起きつつある。

元気が増してきたのだ。具体的には筋肉量の増加を実感している。「コロナのおかげで8年前には週1日だった運動が2日になり、もう4年目に入りました。」歩く速さ、力強さが違う。

今はそれから1年経ち、もう7年目に入っている。先日、トレーナーの方に800回を超えましたと言われた。塵も積もれば山となる、である。そういえば愚公山を移すという表現もある。こちらには目的感があるから、私は愚公なのかもしれない。

筋肉の増加はズボンを穿くときに毎回実感する。男性の多くと一部の女性にはわかってもらえるのではないか。あの、右脚を入れてから不安定な姿勢のまま左脚を入れる瞬間である。壁にもたれていないと不安だったのがウソのよう。

そういえば鍼はもっと長い。ぎっくり腰で鍼を始めた。10年以上前のことになる。

その後に運動が追加されたのだった。高校生のとき以来の定期的な運動である。

週単位の相変わらずの生活は、実はこうした日常で支えられているのだ。

いまは昔の話、先輩の弁護士さんたちの後ろ姿を眺めて「まるでズボンの中に割り箸が2本入っていて、それが前後に動いているようでなんともあわれな姿だと感じたことがあった。」と8年前に書いている(『身捨つるほどの祖国はありや』244頁、幻冬舎2020年刊)。

それがもはや他人事ではない、自分もそうなっていると思い知らされたのが運動のスタートだった。66歳の正月に抱いた感慨だった。

私は運動をするたびに、私を独特の創造の哲学で指導してくださった早川吉春さんを思う。私より1歳年上だっただけなのに、2年前に亡くなられた。もし私のように定期的な運動を習慣にしていらっしゃれば、どれほど人々の役に立った方かと考えるのだ。自分が運動して身体を動かしている瞬間に彼のことをよく思い出す。こうしていれば良かったのに、と。

残念でならない。

そうした運動が私の読書と執筆を可能にしている。

『夢をかなえるために脳はある』(池谷裕二、講談社、2024年)は面白かった。ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』(河出書房新社、2018)以来の衝撃を受けた。ハラリの「キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法に過ぎない」(下巻210頁)と書かれた部分を思い浮かべたのだ。ハラリの本を読んだのは2018年の10月11日のことだ。私はキリンとトマトの部分を『身捨つるほどの祖国はありや』(幻冬舎 2020年)で引用している。(417頁)

生命体である私が運動をして若さを保とうとすることは、エントロピー増大の法則に逆らっている。それが生命だ。しかし、池谷氏は洗面台の栓を抜いたときにできる「渦」を持ち出し、我々生命体との共通点をあげる。「渦の構成要素、つまり水の分子は渦の中でどんどんと入れ替わっている。それは生命とまったく同じだ。」(499頁)。渦が水の位置エネルギー低下を加速するように、我々生命体もエントロピーという意味では同じことをしているというのだ。

池谷さんはこうも書いている。

「僕らはラベルの中に生きている。脳内の膨大なピピピ信号に、ひたすらラベルをつけて、それに準拠して僕らはものを考えている以上、ラベルがないと、そもそも、感覚も嗜好も真実もなくなってしまう。(中略)私の本質は『実体』にあるわけではない。むしろ『私』というラベルの側にある。」(548頁)ピピピ信号というのは電気信号のことで、例えば網膜に光が当たり、それが電気信号として脳の送られるというのだ。それは聴覚も触覚も同じだという。

そして、池谷氏は宮沢賢治の『春と修羅』という詩集の序を引用する。

「わたしという現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)」

現在、私は『テクノ・リバタリアン』(橘玲 文春新書 2024年刊)、『統計学の極意』(デイヴィッド・シュピーゲルハルター 草思社 2024年)、そして『弱い円の正体 仮面の黒字国・日本』(唐鎌大輔 日本経済新聞出版 2024年)などを並行して読んでいる。

すべて、元気でいるおかげである。運動と加齢への抵抗がそれを可能にしている。

私の最近の口癖は、「2050年になると、人は100歳まで働き120歳まで生きる」である。私は1949年生まれだから、そのなかに入ることができるつもりなのである。個々の生命は宇宙のエントロピー増大の法則に寄与しているにすぎないにしても、私個人にとっては大問題なのである。その個人が「透明な幽霊の複合体」に過ぎないかどうかは、私の知ったことではない、とでもいう心境である。知り得ることではないから考えない、というほうが正直かもしれない。

常に楽観的な人間ではあるが、もちろん、ものごとがその考えどおりになるかどうかはわからない。

『日本の生き残る道』(幻冬舎 2022年刊)という本には、素晴らしい後日談がある。私は出版直後、いつもの習慣どおり畏友の丹呉泰健氏にこの本を差し上げた。彼はすぐに読んでくれ、電話をくれた。

電話口で彼は勢い込むようにして言ってくれた。

「君の書いているとおりだよ。」

そして日本の復活のための3つの重要なポイントをあげた。

一つ、政治頼みではダメ。

二つ、コーポレートガバナンスしかない。

三つ、海外の力も借りていい。

明快であった。私はこれを「丹呉3原則」と呼んでいる。

その彼が、その友人の山口廣秀元日銀副総裁を介して、私が経団連の十倉会長と会うようにアレンジしてくれ、おかげで私は十倉会長にお招きいただき経団連で講演をすることになった。もちろん私は喜び勇んで「丹呉3原則」についてお話をさせていただいた。

丹呉3原則については、いつでも、どこでも、どなたにもお話させていただく。メディアの方はもちろん、政治家にもビジネスに関わる方にも、だ。一介の弁護士に過ぎない私は、日本のエリート中のエリートである丹呉氏に褒められたことを単純に我が自信の源としている。その『日本の生き残る道』に収めた朝日新聞連載の『経済気象台』というコラムは、匿名コラムだったので私の考えを自由に書くことができた。90回分をまとめて一冊にするについては、発行元である幻冬舎の見城徹社長が名付け親になってくれた。私の本の多くは、最初の『株主総会』をはじめ、多くが彼の命名による。

丹呉氏をエリート中のエリートと私が呼ぶのは、開成高校から東大法学部に入り大蔵省に入った履歴だけからではない。彼は小泉純一郎総理の事務方秘書官のトップを5年半にわたって務め、その後財務次官になっている。我々の世代、団塊の世代の人間の履歴として、これ以上のものはないだろう。

もちろん、私は学生時代に知り合っているからその篤実な性格をよく知っている。したがって彼の大学卒業後の、大きく開花した人生を当然のものと思ってもいる。

その彼が、私の勝手な考えを書き連ねた本を読んで「君の書いているとおりだよ。」と言ってくれたのだ。私が一人でひそかに考えていたことが顕彰された思いがした。我ながらこうして書き連ねていても、我が人生の快事の一つである。

「自分の力で生きているのではないと、つくづく思わされます。」と書いている。

誰でも歳を重ねればそう感じるようになるのだろうか。

私はいつからそう思うようになったのだったか。

12歳、小学校を卒業するときに「不滅の栄光を求めていま飛び立つ若鳥たち」と文集に書いたのを憶えている。自分とその周囲に同級生たちについてそう感じていたのだろう。しかし周りの少年少女のほうはそんなことを考えていただろうか。

15歳、中学校を卒業するときには「金では買うことしかできない」と記した。変わった中学生だったことだろう。後に、堀江貴文さんが「金で買えないものはない」と言った。似ていて、少し違う。私なりに金の限界を理解していたのだろう。

18歳。あのときは東大受験に失敗したことが全てだった。

翌年は東大入試が中止になった。1月20日月曜日、未だ前日までの催涙ガスの臭いが鼻をつく安田講堂前に行った。まさか東大入試がなくなるとは思いもしなかった。

ところが、いま調べてみると入試の中止は前年の12月には決まっていたという。それではあの記憶はなんなのだろう。1月20日は東大が内閣の入試中止を受け入れた日のようだから、私は入試が本当になくなるとは信じられないでいたということなのだろうか。

機動隊が安田講堂を制圧するよりも前、安田講堂の屋上のスピーカーからは大音量で占拠した学生の宣伝が聞こえた。「こちらは解放放送」と自らを称していたのを憶えている。その電気代も東大が負担していたのだろう。

東大の先生の間では、あの入試を境に、戦前、戦後と呼び分けていると聞いた。

往時茫々である。

団塊の世代の物語(7)

「先生、お忙しいのはわかっているけど、夕飯をつきあってくれないかな」

三津野から大木の携帯に電話があった。

一瞬の間をおいて、「ぜひ」、と懇願とも強要ともつかないひとことが続いた。

「いいですねえ」

大木はいつもどおりに答えた。大木にとっては、三津野との会食の時間は人生の悦びの一つだ。というよりも、三津野との会話のときが大木の人生というものを定義する重要な構成要素の一部なのだ。いつ、どんなときに話しても、なにかしら、啓発されずにはいない。問題は日取りだった。三津野は明日にでもいう調子だ。だがさすがに大木にとってそうは行かない。大木なりに予定がつまっているのだ。

<それにしても、いったいどうしたのかな>

きっと英子のことだとは察しがついた。いつもの三津野ではなかったからだ。

そもそも三津野からの食事の誘いは、秘書を介してメールでだいぶ先の日程でというのが習慣になってひさしい。それを自分で、直接、大木の携帯に電話してくるとは。

<岩本英子に会った三津野慎一氏に、いったいなにが起きたのか>

大木に話したいというのは、単に突然に始まった英子のことを話したいだけかもしれない。話すとすれば、それはのろけということになるに決まっている。のろける相手としては、確かに、広い世間に大木しかいないだろう。三津野ののろけを受け止める前提知識を持っているのは大木だけだ。しかし、それだけではないかもしれない。そんな浮ついたことではないかもしれない。もしそうでないとすれば、たぶんそれだけではないどころかなにか重大なことが英子との間に起きたということになる。

<ま、「英子に子どもができちゃってね」って話じゃないことは確かだけど>

愛人が妊娠したという話をなぜ思い浮かべたのか。我ながら不思議だった。職業柄かと小さな声をたてて自分をわらった。

<いやあ、二人を見ていると年齢を忘れてしまう> 

246、青山通りぞいに伝統工芸青山スクエアという名の大きなギャラリーとも店ともつかない施設がある。王子製紙のビルの1階だ。赤坂見附から246を渋谷に向かって左側の角になる。そこの手前のT字形交差点を左に入っていくと赤坂新坂パークアークマンションという瀟洒なマンションが見える。大木が青山のツインタワーに事務所を構えていた時代にはもう存在していたから、いまや古いマンションということになるのだろう。さらにその先に行くと道が下り坂になる。まさにその下る間際に、三津野が指定した紫芳庵という小さな料亭はあった。

「いやあ、この辺は私にはとっても懐かしい場所ですよ」

先に来て座っている三津野にむかって、大木は頭をさげながら声をかけた。

「そうだったね、あなたの事務所って、昔は青山ツインにあったんだった」

答えた三津野の顔には、一刻も早く話を切り出したいという表情があふれていた。

ちょうど20年前に、大木は今の山王パークタワーに移転したのだった。

大木が、事務所を広げたい、ついては350坪を超えるから二つのフロアにまたがる、だから上下を貫く内部階段を設置したいとツインビルの管理担当者だった服部さんに相談をもちかけると、彼は親切にも、「先生、このビルじゃタッパからもワンフロアの面積からも限界がありますよ。この際です、良かったら永田町の山王パークをご紹介しますから、そこに移ってはいかがですか」と言ってくれたのだった。タッパというのは天井高のことだ。

青山ツインは大木にとってセンチメンタルバリューのあるビルだった。

大木が未だ雇われ弁護士だったとき、アンダーソン・毛利・ラビノウィッツという法律事務所のアソシエートという身分だったときのことだった。29歳半から35歳半までのまる6年間、丸の内のAIUビルの6階で働いた。その場所は今では日本生命のビルに建て替わっている。AIUビルはエアコンが10数階のビルなのに縦に4っつに分かれているという、いかにもアメリカ人の設計したビルだった。ワンフロア―だけを冷房するということができない仕組みなのだ。

畳敷きの部屋ながらコタツのように脚が入れられるようになった部屋だった。大木が座るやいなや三津野が話し始めた。なにを急いでいるのかと、やはりと感じながらも大木は不思議な気がした。そんな三津野はこれまで一度も見たことがなかったのだ。

「高校時代、僕は大学に入ったらきっとこの人と性関係をもつんだろうなと思っていた女性がいた。同じ学年の女性だ。でも、その人は学者になる道を選んで、まっしぐらに進み始めてしまった。縁がつながっているんだと思っていたけれど、本当はなかったっていうことなのかな。わからない。彼女がその後どんな男性関係をもったのかも、しらない。

どういう経緯だったか忘れたけど、英子さんにそんな話をしちゃったんだ」

「そしたら『フーン、どんな人なの?』ってきかれたんでしょ」

「参ったな、さすが弁護士さんだな。そのとおりなんだよ」

「よせばいいのに、調子に乗ってグラマーだったとか口走ったんじゃあないでしょうね」

「そんなこと言うもんか。第一、グラマーなんかじゃなかったからな。ま、頑張り屋さんだなって答えておいたよ。」

英子にとって三津野の返事はなんとも間の抜けたものだったにちがいない。性関係をもつだろうと感じていた女性のことを話しているのに頑張り屋はないだろう。それにしてもグラマーか。大木が使い三津野が受けたグラマーという単語も後期高齢者とその直前の男同士の間でいかにもでてきそうな単語だった。

三津野は、前夜の英子との逢瀬の報告をしているのだ。

オークラの久兵夷で寿司をつまみながら店においてあるシャンパンを英子が飲み、三津野はノンアルコールのオールフリーだったという。

「『違うの。そんなことじゃなくて、すてきな女、いい女だったかってきいているの』と英子さんに言われちゃってね。だから、

『どうかな。もう縁のない人、しらない人になってしまったんだもの、わかんないよ』って答えたら、英子さん、

『でも、すてきだったから性関係を持つだろうとおもったんでしょ』と来た。

僕が高校の同級生だったなんていっちゃったから、彼女からしてみると、2学年上の顔を見知った上級生になるからね。誰か知りたかったみたいだった」

「そりゃ英子さんのほうが正しい。性関係を持つだろうと思ったんだったら、魅力的な女性だと感じていたに決まっている。ところがそこをたずねると、『もう縁のない人になってしまった』じゃあ、答えてないですよ。

つまり、ごまかそうとしている。それはとりもなおさず、実は未練があるって聞こえる。少なくとも三津野さん、あなたを好きな英子さんにしてみれば、そうとしか思えない。そうじゃないですか」

大木がそう解説すると三津野は、へえそういえばそうかという顔をした。

「だってそうでしょう。

出発点は英子さんが高校1年のときに高校3年生だったあなたを好きだったことなんですよ。

だから、彼女はわざわざ私なんかにあなたを紹介してくれって頼まなきゃいけなかった」

大木は、二人の話が一段落するのを待っていた仲居の女性がノンアルコールビールを注いでくれるのに顔を向け、「あ、どうもありがとう」と礼を小声で言った。小柄な、和服が似合う女性だ。

「そうだな。そういえば英子さん、

<へえ、今でもこだわっているんだ、この人、その女に。私、妬けちゃう>っていう顔をしていたな。」

「そりゃそうでしょう。

三津野さん、最悪ですよ、言っちゃ悪いけど。

だって、目の前にいる男を好きで好きでしかたがないから、無理算段してやっと二人きりであっているのに、昔、それも自分が相手にもされなかった高校時代の話をして、その上、そのときに性関係を持ちたいと願っていた女性がいただなんて。

英子さんの心のなかには『妬けちゃう』どころか、嫉妬の炎がばあーっと燃え上がったんじゃないかな」

「先生、なに言ってんの。それって59年前のことだよ。しかも、僕は『縁のない人、しらない人になっちゃって、わかんないよ』って説明したんだよ。ほんとだもの。それがどうしてそうなっちゃうのさ」

「三津野さん、今、この瞬間、生きてるのが愉しくってしかたがないでしょう。」

大木が話の向きを変えると、

「え?やっぱりわかっちゃうかなあ」

三津野は嬉しそうに微笑んだ。その微笑が有能なビジネスマンの顔に浮かぶものとは全く違っている。恋を初めてした少年のようなあどけなさがふっと浮かび上がるのだ。

「そりゃわかりますよ。だって、いつもの三津野さんじゃないもの。滝野川不動産の会長の顔じゃないですよ」

「へえ、そうかい。そうだろうね。

いつもの僕だったら、女性相手にあんなに一生懸命しゃべらない。もうそんな習慣はとっくになくなってる。それどころか、ちかごろじゃ男相手だってこちらが努力して喋るのがめんどうになりかかっているんだからなあ。」

「それが英子さんだと違う」

「そうなんだよ」

これまで目にしたことのない三津野の表情だった。もともと柔和な丸顔ではあったが、目じりの下がり具合が違うとでもいうのか、遠くを眺めているようだというのか、いずれにしても両目のまわりの微細な筋肉の動き、緊張とその弛緩なのだろうが、大木の心までほのぼのとした思いに満たされてくる。

「いやー、先生、おかしいんだ。

英子さんと話していると英子さんの心にはおかまいなしに、僕の口はとまらない。どうしちゃったのかな。自分でもわからない。

余計なことを言ったよ。

5年前に亡くなった女房とは、会社に入ってすぐに知り合ったって、先生知っているよね。

その話がつい出ちゃった。そのころ会社の友人たちと小さなヨットを買っててね、それに恵子を誘ったなんてしゃべっちゃって。会社に入って2年くらい経った年の夏だったけな、とか。」

「余計なことを。でも三津野さんらしいですがね」

「そうなんだ。

そしたら、英子さん、

『イヤッ!

でも、教えて。結局、私が手に入れることになる男、あなたの過去の数々の恋物語の一つだもの。何もかも知りたい。私がつかみとってる男は、ばかみたいに女との恋の勲章をたくさんぶら下げた男に決まってる』

「いろいろな女性との恋があったな。でもあんなものが勲章なのかい。

わかんないけど、どうかな、やっぱ違うんじゃないか」

僕がそう塞ぐように言うと、

『ううん、あなたの勲章よ。だから、どんな色で、どんなデザインか、細かいことをみんな教えてちょうだい。ついでに、どうしてその勲章を捨てたのかも』と来たんだ。

英子さんて、すてきだろう。そんな女性、いないんじゃないか。

で、「わかった」といって、アナゴの白黒を摘むとぐっと冷えたノンアルコールを流し込んで、語ったのさ。」

「アナゴの白黒ってなんですか」

「ああ、あの店のアナゴはとってもうまい。で、アナゴをたれと塩とで食べるのさ。一貫を二つに切ってもらって」

「へえ、それで白黒」

「ああ、あそこではシャコもあればそうしてもらう。大きなシャコを出してくれたら、これも白黒だ」

「で、勲章の大きさと長さ、色、それにデザインの話にもどりませんか」

「それで、昔の恋を思いだしながら話した。どうしてそんな気になったのか。やっぱり英子さんが知りたいと迫ったからだな。男ってのはどうしたって花の女王の要求には逆らえないよ、なあ大木先生。先生も男ならわかるだろう」

「まあ、そんなもんですかね」

ふだんの三津野なら大木のそうした物言いを聞き逃さない。「そんなもんじゃない、はないだろう、先生、どっちかはっきりしろよ、弁護士なんだろ」と来る。

だが、今日は違う。三津野は自分がしゃべりたくてしかたがないのだ。

「で、だ。申し上げましたよ、勲章の色、デザイン。そのうち数まできかれちゃってね」

「でも数はうまくごまかした」

「ああ、そりゃあな」

三津野は目のまえのシャブリのグランクリュを見つめてしばらく黙り込んだ。

大木は人間というものの不思議さを改めて思い知らされる気がする。

眼のまえの三津野慎一は不動産業界の大立者であるばかりか、日本のビジネス世界で5本の指に入る男だった。それが、74歳の女性の話を大木にしたくて自ら携帯で大木を呼び出して、目の前のまるいワイングラスにじっと見とれている。

「さあ、お話しなさい」

英子さんに急かされちゃってね。

「はい、はい」って茶化すと、

「はい、は一度だけです」ときた。で、

「はい、って妙に素直に英子さんに答えることになっちゃったんだな。そして、57年前の恋の物語を不器用な手で紡ぎ始めたってわけだ。昔を今に返すよしもがな、ってとこかな」

あの話に違いなかった。

大木は三津野が英子にした話を知っている。三津野本人から聞いたのだ。未だ東大の学生だったころのことだ。

「でも、僕は言ったんだ。私は私の話をしますけど、でも、私のが一つ終わったら、次はあなたの番ですよ。あなたはあなたの恋物語の巻物を広げるんですからね。ながーい、ながーい巻物」

「いいですよ、もちろん。お互いを知るのは、過去になにがあっても、今となっては嬉しいだけ。あなたがどれほど女性と関係していても、もう、それは昔ばなし。私はあなたを掴みとりたいから、すべてを知りたい。

どっちの話のほうが章立てが多いのかしらね」

「そりゃ英子さん、あなただ。そうに決まってる。

愉しみだな、あなたの色恋話」

「二人の未来のために話すんですからね」

「もちろん!英子さん、あなたと僕の二人の未来のために、ですよ」

三津野慎一の第一話

僕が未だ学生だったときのこと、僕は広島と東京とを定期的に往復していた。兄もそうだったから、当たり前のことをしているとしか思わなかった。

飛行機には乗らなかったな。だいぶ値段がちがったのかもしれない。考えもしなかったから。

新幹線は未だ大阪までだったから、乗り換えとなると8時間かかっちゃう。でも、ブルートレインというのがあったんだ。僕がしょっちゅう乗って広島と東京を往復していたのは18歳で東京の予備校に行くようになってから23歳で大学を卒業するまでのことだから、西暦でいうと1965年から70年までということになる。大阪万博の年だ。そのころからブルートレインて呼ばれるようになったらしいけれど、僕はそんな洒落た名前は知らなかったな。

寝台専用の特急が何種類かあって、みんな夕方に東京駅を出るんだ。博多までのがあさかぜ、熊本か長崎までのがはやぶさ、宮崎回りで鹿児島まで行くのが富士で、僕は広島だからどれでもよかった。

それで、ある夏の帰省にそのブルーに塗られた車体の寝台専用列車のどれかに乗ったんだ。横に、鮮やかに一本、クリーム色の線が入っている。とってもしゃれてた。

寝台車ってのをあなたも知っているだろう。

僕には特に懐かしい。中学1年になるとき、1960年、昭和でいうと35年に一家6人全員があさかぜに乗って広島に引っ越したんだよ。それも、時代だね、幅50センチくらいの三段の寝台に二人が抱き合うようにして乗って寝てね。祖母と僕、母と姉、それに父と兄だったかな。兄は一番上の3段目からおっこちちゃって頬っぺたが青くなっていたよ。僕の6歳上だからまだ高校3年だったわけだ。それでも、寝台車に乗れるだけでもとても贅沢だっていう時代だった。

12歳だった僕は寝台列車に乗っての旅ってのが嬉しくってね、朝まだ広島に着くまえに母親にねだって食堂車へ行かせてもらった。お金がもったいないからって一人で行ったの覚えている。トマトジュースが80円だった記憶だ。僕がこの世でトマトジュースを飲んだ初めての日だ。

ごめん、その寝台列車に乗っていた大学生だったときのことを話そうとしていたんだ。

上と下だったか、向かいだったかに女子大学生が独りで乗っていた。その彼女に僕は当然のように話しかけたってわけだ。

思いだしてみると、そのころから僕はちっとも変わってないな。誰にでも、しらない人でも話しかける。物怖じしない。

寝台列車の構造、おぼえている?

車体の幅の3分の2くらいが寝台で、ま、進行方向と90度だから体が真横に運ばれていくんだ。こうして話していても、夜の寝台車の独特の雰囲気、真っ暗だった車窓がカーテン越しに一瞬少し明るくなることがある。どこかの駅を通過しているんだな。特急だし、寝台だからどこにも停まらないのさ。

車体の残り3分の1が通路だ。まっすぐ進行方向と平行して、狭くて長いながい通路があるってわけだ。

そして、その通路のところどころ、寝台の向かい合っている箇所ごとに、小さな折り畳み式の、板切れ一枚ぬい薄いクッションを貼っただけの腰掛が壁についている。通路側の外に開いた大きな窓のすぐ下だ。その女子大生と二人、そこに交代で座っていろいろな話をしていた。

しばらく時間が経つと「うるさい、眠れないじゃないか」と他のお客さんに怒られてしまった。「済みませんでした」と素直に謝って、二人は車両の連結部分ちかくのデッキに移動したんだ。

彼女は神戸の東灘区に実家があったから、僕が京都に住んでいる兄のところへ寄ったおりなどは、二人で京都の街を散策したものだった。

いや、あのころはちゃんとした恋人がいたんだけどね。でも、彼女との時間はそれとは別の臭いがした。性的な匂いはほとんでしない。いっしょに歩いているとき手をつないだりしただろうか。思い出せない。たぶん、つないだことないんだ。やあ、いまさらながらこいつは驚いたな。

或る夜、京都に土地勘のある彼女は、僕を導くように夜の京都の街中の小さな路地を選びながら先に立って急ぎ足に歩いた。男は京都の地理はほとんど知らない。緑のなかを鮮やかな朱色に塗られた八坂神社を経て南禅寺の近くまで行き、彼女の先導で三階建てのビルの地下にあるサパークラブのようなところに入った。そこで彼女は僕にインクラインという言葉と蹴上という地名を教えてくれた。その店で彼女はサントリーのオールドのオンザロック、未だ凍っていないで穴が開いたままの氷で割ったウイスキーを飲み、まだ酒を飲む習慣のなかった僕はコーラを飲んだ。勘定は僕が払った。

そんな彼女が、一夕、「あなた勉強大変だから、栄養のあるものを食べさせてあげる」と言って、ハンバーグを作って食べさせてくれたことがあった。荻窪の彼女の一室だけのアパートでのこと。

食事が終わって、どちらもアルコールは飲んでいないで、壁に背中を持たせかけた彼女の正面に向かい合って僕が立ったまま、いつまでも取り留めのない話をしていた。目のすぐ前50センチのところに、大きな二つの目と水色に白い糸の編みこまれたタートルネックの薄いセータ―から突き出した二つの胸があった。

<もし髪に手を伸ばせば、きっとキスをすることになる。そうなれば、始まるべきことが始まるにちがいない。もしそうなれば、簡単に別れることは難しいだろう>って、葛藤していた。

で、手、伸ばさなかった。

あれは、彼女にとって大学が最後のころだったのだったけな。

青山学院の英文科にいっていて、トマス・ハーディを卒論にしていて、『テス』という題の小説なのだ、と教えてくれていた。ハーディっていうのはサマセット・モームの『お菓子とビール』の主人公にされて嘲弄されてしまった大作家だ。

ちょっと話は変わるけどね、子どものころ、まだ小学校の3年とか4年とかのころ、僕は、なんていうのかな、一種の貴種流離譚に取り憑かれていたんだ。

家族そろっての食卓で、父親がなんどもなんども、まるで念押しするように「オマエは橋の下から拾って来たんだ」って繰り返して言っていたんだ。

子ども相手にだぜ。

だから僕は、きっと自分は本当は皇族のご落胤なんじゃないかなんて思っていた。

英子が「えーっ!私もそうだった」と口をはさんだ。

「親が本当の親でない子ども、か。そうか、あなたも子どものころそんなことを思っていたの。不思議だね。幸せそうな子どもに見えたけどな」

「幸せな子なんて、この世にいるの?」

「えっ、なんだって。あなたは不思議なことを言うひとだね」

英子の顔には目じりの皺がほとんどない。それが彼女を年齢よりも若くみせている理由の一つなのだろうと思っていた。だが、問題は表面ではなかったのだ。心、だった。

三津野は英子の子どもが二人とも正式の結婚から生まれていないことを思いだしていた。大木から聞いていたのだ。奇妙な話だと思った。初めの子の父親が大木とも小学校の同級生の眼科の医者で、二人目の子の父親が最近死んでしまった斉藤峰夫という、広島興産なる不動産会社のオーナーだった男だ。三津野は滝野川不動産の仕事をつうじて広島興産の名前は知っていた。ローカルだが堅実な会社だった。しかし、その会社の専務が女性で、しかもオーナー社長の子どもを身ごもったなどとは知るよしもなかった。

その女性と三津野が昔の知り合いだったとは。

「どうしてあなたは、正式な夫がいたのに、長友という方の子どもを産んだの」

三津野は聞かずにおれなかった。

岩本英子の勲章譚が始まった。

岩本英子の第一話

「ふふ、誰だってそう思うわよね。あなたにはいずれ聞かれるとはおもっていたけど、待ってました、よくぞ聞いてくれました、っていう感じ。

長友先生とは小学校の同級生なの。あ、これ知っているわよね」

「もちろん!」

「夫とは、それなりに惚れ合って結婚したの。お互いにそう信じてた。

でも、夫の好きと私の好きは意味が違ったのね。

夫は私を一番好きだったから妻の座を与えてやったということみたいで、それでいいじゃないかっていうことみたい。結婚ていうのは、そういう等価交換の取引だって信じていたのね。

私は違った。

男と女の違い。少なくとも団塊の世代の男と女の違い。」

「僕も団塊の世代だ。妻の座を与えた、か。そういうふうに思ったことはなかったな。まさか僕の妻はそう感じていて、そういう僕を身勝手だと思っていたのかな。話したことはないけれど。」

「個人差が大きいでしょうけどね。私は平均点」

「でも、亭主以外の子どもを産むのは平均からずいぶん外れているよ」

「そうね。

あんなことがなければ、そんなことにならなかった。」

英子が大きく息を吸う。言葉がとまった。

頃合いを見計らったように、ほい、と馴染みの寿司職人の声とどうじにムラサキウニの軍艦巻きが二人の目のまえに置かれた。

英子が右の箸でつかんで、閉じていた口を開けて放り込む。海苔を砕く音がかすかに漏れた。三津野も同じことをする。口のなかに海苔の香りがひろがった。

「新婚の自宅に別の女性を連れてきたりする?

男ってそういうことができる動物みたいね。」

手もとのシャンパングラスの表面に、泡が細長く縦の一筋になって絶え間なく上へ上へとのぼっている。ここにはいつものクリュグはおいてない。軽く一口すすってゆっくりと飲みこむ、英子は三津野に向き直った。

「男ってそういうことができるんだ、と思ったの。

だから、新婚だった長友君を誘い出して、奥さんが実家に帰る日を聞き出して、その日に会ったわけ。

妊娠するためにね。」

「えーっ」

三津野には想像もできない。

英子は半世紀前のできごとをまるで他人事のように語っていた。

「で、長友はうかうかと」

「そう、うきうきとね」

<男はそういうバカなところがある。花の女王の誘いとあればいそいそと、か。新婚だったというのに。この団塊の世代と言うのは少し狂っているのかな。この俺もその団塊の世代の一人なんだが>

三津野は急に徒労感に襲われた。自分は、今、ここで、いったいなにをしているのかと感じたのだ。自分の滑稽な姿に笑いがこみ上げてくる。

しかし、口は素直ではない。

「長友っていう人は、それであなたの子どもが自分の子どもだって知っていたの?」

「言ってない。だから知らないと思う。」

「ご亭主だった方、多額の保険金を遺して死んだ方は?」

「遺して死んだんじゃなくて、死んだら私に入ったの。そういう保険。」

「そうか、そうなのか。

それが34年前。

もうそのときにはご長男はおいくつだったの?」

「えーと、どうかな。私が結婚したのが25で最初の子が生まれたのが26のとき。あの人が死んだのが私が40のとき。」

「じゃ、14歳、中学2年生くらいだ」

「そうなる。

で、ご亭主はご長男を自分の子と思っていた?」

「そう」

「じゃ、次男の方についても同じに思っていたの?」

「そうでしょ。そうに決まってるじゃない。ふつうはそう思うでしょ」

「いくつ違い?」

「3歳」

「でも、次男の方は斉藤峰夫が実父なんだ」

「そう」

「でも、峰夫氏は子どもができない体だった」

「だから、どうしても私に子どもをつくってほしかった。だから、長友君に頼んで大阪にいって、峰夫の不妊治療をしてもらったの。」

「よりによって長友先生に、か。当時のあなたのご亭主はなにも知らないまま」

「もちろん。」

「あなたのなかの、その男性への冷酷な気持ち、無慈悲なふるまいは、初めの新婚当時のご亭主のふるまいに原因があるのかな」

「うー、どうかな。世の中はそんなふうにできているんじゃないの。私っていう女が、もともとそうできていたのかもしれない。わかんない。

みんな、たまたま与えられている場所でとり澄ました顔して生きてる。でもそれは外側から見えるところだけで、中身はわかりゃしない。旦那と抱き合っていても、心のなかでは別の男としているつもりって、どんな女にもあるんじゃないかしら」

「知らなかったなあ。人の世って恐ろしいんだね。」

三津野は大きなため息とともにつぶやいた。

「人間の業、深い深い闇」

「おやおや、滝野川不動産の中興の祖で、不動産業界の大立者がなに子どもみたいなこと」

「いやあ、子どもだよ。不動産業界では大物とかわれていたって、一個の男性としては赤ん坊同然だ。そういうものとして、今、僕はここにいる。そして英子さん、あなたと話している」

「三津野さんはご自分の子どもが確かに自分の子どもだって思っているの?」

「ああ、もちろん。疑問をもったことなんてないね、ゼロだ。だいいち二人とも僕に似てるからね。」

「そんな程度でのことでしょ」

「そういわれりゃそうだけど、間違いないよ。そう思ってる」

「いいのよ、それで、人の世の中は。みんなこの世はそんなものだと思って、生活に必死でいればいいの。私はそうだった」

英子の眉と眉が寄る。すると二つの眉の間になん本もの深いしわが刻まれた。花の女王は、夜の女王でもあるのかと三津野は感じた。モーツアルトの魔笛の夜の女王のことだ。三津野はあのソプラノの高音、コロラトゥーラを駆使した歌唱がたまらなく好きだった。あのディアナ・ダムラウの声が耳に入ると生理的に引き込まれてしまう。自分という存在が消えていってしまう感覚になるのだ。一時は毎朝、食事の前に大きな音で鳴らしていたものだ。

「あなたのご亭主も、僕とおなじに、おめでたくも浮世というものを信じていた。そして死んだ。」

「そう。だから保険金が入ったの」

「それで家族3人が生きていけるほどの?」

「そう。それ以上かな。5億だから」

「そんなに。

でも、あなたの人生物語は、あっという間に語られてしまったのかな。」

「どうかな。あなたもいろいろ訳ありなように、私も隠しごとがいっぱい。

でもね、私から告白したことはないの。

今回、あなたにしゃべるのが初めて」

「って、なん回言ったのかな、これまでに」

「ひどいことおっしゃるのね」

英子は視線を三津野からかずし、右斜めまえ10メートルのところに置かれた芥子の絵に移した。じっと見つめている。その視線の先にある日本画を三津野もみやる。

<美しい。芥子も英子も。どれだけの数の男がこの女性に惹かれ、人生を空費したことか。

それは、それに値したのか>

右側に座った英子の顔と芥子の花が重なる。そのすぐ下に白い胸がのぞく。

三津野は大木の言っていた水色のカーデガンとその下にあったという二つの膨らみの話を思いだした。それが、いま、62年経って、こんどは三津野の目のまえに存在しているのだ。

<なにをいまさら>

それにしても、白い。大きな胸を秘めた襟もと。

<どれも同じだったのに、そのたびに違う>

「5億円の使い道、未だ話してないでしょ。

あの5億円が私の次の世界を開いてくれたの」

「そうだ、1989年というとバブルの時代だからね」

「私は、広島興産っていう不動産会社に勤めていたから、不動産を買う気はしなかった。怖くて。だから預金のまま置いていた。あのころは金利も高かったし。5%はあった。毎年2500万も金利が入ってたの。」

「へー、ふつうは反対じゃないの。不動産にしないなんてバカみたい、っていう感じだったよ。

僕も不動産会社で営業やってたからね。課長だったかな。

二つの会社をてんびんにかけてる地主相手に、上司をむりやり説得したな。

そいつが、あとになってからたたった。『いやーすごい契約だったんですね、あれは』って地主さんに愚痴ったのが5年後だ。地主さんが、『売らないよ、税金がいやだからね。30年の借地契約ならいい』って言われて、こっちは大喜びで応じたんだよ。とにかく、土地が手に入ればというだけの考えさ。なにせバブルの真っ最中だ」

「私、まぢかでいっぱい見てたの、そういうの。たくさんの人間が次々と狂って行く。

お金って恐ろしい。人が人でなくなる」

「すべてがプラザ合意から始まった。」

「1985年ね」

「ああ、その後に日銀が公定歩合を下げた。下げに下げて、バブルを引き起こしてしまったんだ。」

三津野は目のまえに置いたままだった中トロを口に放り込んだ。

「僕の落語の一席、聞いてみる?」

一口噛むと、未だ口を動かしながら英子に誘いかけた。

「聞く、聞く。やって」

では、とお茶の一口すすってから、おもむろにバブルの時代とその後の日本の話を始めた。

「時は1980年代初めのアメリカだ。

英子さん、あなたがそのときアメリカに住んでいるアメリカ人のビジネス・パーソンという設定だ。

三津野慎一の即席落語

30代の後半の年齢であるあなたは、今日も一日会社で一生懸命働いて帰宅した。

「今日もがんばったな」と自分を慰めてやりたい思いで、愛車を駆って帰ってきた。

家に戻ると、いつもの習慣ですぐにテレビを点ける。未だリモコンではない時代なんだよ。

その日に限って、アメリカ人であるあなたは、「なぜ自分は日本製のテレビを観ているんだろうか」と戸惑い、考え込む。「そうだったよな、子供のころはゼニスやRCAとかいうアメリカ製のテレビばっかりだったのに、どうして?いつの間に?ソニーや東芝といった日本製に囲まれる暮らしになってしまったんだろう?」

その日にかぎってあなたがテレビのことを考えたのには理由がある。あなたは、会社からの帰り、車のディーラーに寄ったんだ。

あなたは、カー・ディーラーに寄ってオヤジに話しかけた。もう長い間のなじみだ。

「私のシボレーも少し草臥れてきたんでね。12,3年にはなるかな。最新式のシボレ―、ピカピカのまっさらなやつ、そいつに替えたいんだ。色も青空が映り込んだような、底抜けに明るいブルー!オヤジさん、そういうの選んでよ。シボレー、いまのやつはどんなに素敵になってるの?」

もちろん、あなたはカー・ディーラーのオヤジが大いに喜んで、「お客さん、これだよ!」と新しいシボレ―がずらっと並んでいるだだっ広い駐車場へ連れて行ってくれ、ボディを撫でながら自慢しつつ次々と案内してくれるものと思っていた。

ところがだ。

カー・ディーラーのオヤジはその場に立ったまま声をひそめると、なんと英子さん、あなたにこう話しかけたんだ。

「お客さん、悪いこと言わないからもうアメ車は止しにしたほうがいいよ。別にリベートとかなんとかいうんじゃない。あんたのためだ。悪いこと言わないからさ、これからは日本車にしなよ。安い、故障しない、燃費が安い。バカでなきゃ日本車にするぜ。」

このカー・ディーラーのオヤジとのやり取りが、あなたが帰宅してのテレビのスイッチを入れた途端に戸惑い、考え込んだ理由なのだ。

英子さん、あなたは一人で考える。『そういえば10年前くらいになるかな、繊維業界が日本製を締め出せとかなんとかワシントンで大騒ぎして政治問題になっていたっけな。遠い、ワシントンのお偉いさんたちの問題で、私なんかには縁のない話だと思ってた。そしたら次がテレビだった。ソニーだ!だけど、確かに映りがよかったからなあ。私も気軽に買い替えちゃった。

そういえば、なんのことかわからんけど、半導体がどうのこうのって問題もあったぞ。

だけどなあ、今度は車だ。車はアメリカ人の魂じゃないか。アメリカ産業の中心だ。それを日本製にしろだなんて。それじゃこのアメリカって国はいったいどうなってしまうの!日本がアメリカを支配するってことになりかねないってこと?じゃ、車の次は次はエンパイヤステートビル?悪い冗談ね。私の、私の子どもの、私の孫たちの偉大なアメリカはどうなってしまうっていうの。40年前にアメリカは日本と戦争したんでしょ。どっちが戦争に勝ったっていうの!あれはファシストに対する正義の、神聖な戦争だったんじゃなかったの」

「半導体が入ってるのね」

熱心に聞き入っていた英子は、三津野の話がおわったしるしに三津野が湯呑をとりあげると、三津野の目をのぞき込みながら問いかけた。

「すごい、英子さん。どうして?」

「だって、半導体協定が結ばれたのが次の年のことだもの。

なんだが、三津野さんの落語、続編がありそう」

「まいったな」

「聞かせて、その次」

「まいったな。でも、そのとおり、大あり名古屋のこんこんちきだ」

「え?」

「知らない?」

「聞いたことない。こんこんなんとかって、なに。狐?」

「いや、ただの景気づけだろ。あります、ございますとも、って感じかな」

「おかしい。三津野さんの口からでてくると、とってもおかしい」

「そうかい」

三津野が嬉しそうにはにかむ。英子は三津野からじっと目を離さない。

「半導体の話は、日本の悲劇につながる。」

「じゃ落語の続編じゃなくて、こんどは悲劇?」

「どうかな。まるでマルクスだね。」

「反対でしょ。一度目が悲劇で二度目が喜劇ってマルクスは言ってる」

「そうでございました。」

「でも、その喜劇、聞かせて」

「いや、悲劇だよ。いまも未だ演じられている悲劇だよ。

というか、車の話もなにもかも、戦後日本の悲劇なんだ。僕はそう思っている。」

三津野の指がカウンターを強く挟んだのを英子は見逃さなかった。胸が高鳴る。

「続き、部屋にいってからにして」

英子はその右肩で三津野の左肩にすがるようにしながら、耳元にかすかに息を吹きかけるようにささやいた。すぐに目のまえの職人に右手で宙に折れ線を描いてみせた。

トップ写真:イメージ 出典:Sammyvision/GettyImages




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


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牛島信

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