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スポーツ  投稿日:2018/7/11

「卓越すること」は能力なのか


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

【まとめ】

・何かが気になって仕方がなくなりそのうち卓越することがある。

・卓越を能力と捉えるのか、偏執的な何かと捉えるのかはその人次第。

・何に卓越しているかは他者との交流を通し平均値を捉えることでわかる。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されず、写真説明と出典のみ記されていることがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=40958でお読み下さい。】

 

私は現役時代に左の股関節を痛めている。変な歩き方をすると痛みが出るので、歩きながらどの位置に乗っかると痛くて、どの位置だと楽にハマるのかをいつも考えている。そのうちに自分の頭の中に骨盤と大腿骨が組み合わさった絵が浮かぶようになった。大腿骨を正面に向けながら骨盤の中にカポッとはめる、それだと痛くないのでそれをいつもイメージしている。

人間が何かに卓越する時、その人がそこに向けて努力を繰り返し到達する場合もあるが、理由はともあれ何かが気になってしょうがなくなってしまい、そのうちに卓越するということがある。人はだいたい繰り返すことに卓越するからだ。卓越するとは私の中では、役に立つ技能だけではなくて、良い悪いともあれ優れてしまうという意味で捉えている。

▲写真 イメージ図 pixabay photo by JanBaby

例えば、昔引きこもりだという男性に会ったが、恐ろしいほど自己分析に卓越していて、驚いたことがある。本人はそれを誇っているようなそぶりを見せながら苦しんでもいて、長い間話すうちに自分のことを考えすぎて自己嫌悪に陥るのをやめたいと言っていた。だけれど一人になるとまた自分のことを考えてしまうのだそうだ。

同じように他人からどう見られているかに関し、極端に恐れている人は、他人の本当に細かい言葉遣いを覚えていて、それが自分を嘲笑しているのではないかという考えにはまり込んでいる。その事のよしわるしはともあれ、他人の言動が気になってしょうがないという人は、他人の言動を覚えるということに関し恐ろしいほど卓越していた。問題は、そこに偏りがあることだが。

いつの間にか卓越していたことを能力と捉えるのかそれとも偏執的な何かと捉えるのかはその人次第だ。そのためには他者との交流が必須になる。私は引退して、人と話をするまで、多くの人は自分の姿勢を常に自分で把握していると思っていた。自分が何に卓越しているかは平均値を捉えないとわからない。

ちなみに私は今でもぼんやり人ごみを眺めていると、大腿骨がきちんとはまっていない歩き方をしている人が気になってしょうがない。これを生かして何か儲けられないかと思うが今の所何の役にも立っていない。

(この記事は2017年12月9日に為末大HPに掲載されたものです)

トップ画像:イメージ図 pixabay photo by geralt


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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