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.国際  投稿日:2019/6/1

宗教改革と「海賊国家」 悲劇の島アイルランド その2


    林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・16世紀のイングランドは、名実ともに「海賊国家」だった。

・イングランドのカトリック対峙はアイルランドの悲劇的運命に拍車。

・イングランドは周辺国から信仰と経済活動の面で恨みを買った。

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て見ることができません。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=46077でお読み下さい。】

前回、イングランドにおいて国教会が成立し、ローマ法王庁と袂を分かったことから、アイルランドは宗教対立に飲み込まれて行くことになったと述べた。

 

もう少し具体的に述べると、国教会が成立したのは1534年のことで、それ以降、法王庁への忠誠すなわちカトリックの信仰を保ち続けたアイルランドは、イングランドの王家から目の敵にされるようになったのである。

 

もちろん、イングランドにはイングランドの事情というものがあった。この当時、ヨーロッパ大陸においてはスペインの勢力が台頭し、黄金時代と呼ばれていた。具体的には、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(1500〜1558)が、ヨーロッパ大陸のほぼ西半分と広大な植民地を領有し、その息子フェリペ2世(1556〜1598)はポルトガル王も兼ねてイベリア半島を統一したのである。

 

このフェリペ2世は、よくも悪くもカトリックの信仰に篤く、「異端者の上に君臨するくらいなら、命を100度失った方がましだ」との言葉まで残している。

写真)フェリペ2世
出典)Antonis Mor

 

もともと神聖ローマ帝国自体、中央で勃興したハプスブルク家が、法王庁の政治・軍事部門を勝手に買って出た、というべき存在で、フェリペ2世はカトリックによるヨーロッパ再統一を真剣に考えていたのだ。

 

このため。同じカトリックの新興を守るポルトガル人に対しては、まことに寛大な当地を実施した反面、法王庁に刃向かった「異端」のイングランドに対しては、「いつか叩きつぶしてやる」と言ってはばからなかった。

念のため述べておくと、信仰だけが両者の対立の原因であったとは見なしがたい。

 

スペインの黄金時代を支えていたのは、中南米の植民地からもたらされる豊富な銀や物産であったが、イングランドはと言えば、王家までが海賊に投資して(!)その交易船を盛んに襲わせていたのである。投資の見返りとして上納金を受け取ったわけだが、その額たるや、当時の国家予算に匹敵したという。

 

昨今、国際社会から白眼視され、経済制裁を受けている国が「瀬取り=会場密貿易」を続けているとして問題になっているが、16世紀のイングランドの行為は、それどころの騒ぎではない。事実スペインからは「海賊国家」と非難されていた。

 

もちろんここでも、イングランドにはイングランドの論理がある。スペインによる侵略の脅威にさらされている以上、その経済力に打撃を与え、海上輸送能力を削ぐことは、国防上きわめて有効な手段であった。

 

それゆえ16世紀イングランドの人々の目に映る「カリブの海賊」とは、冒険心と愛国心を兼ね備えた勇者たちだったのだ。

写真)海賊黒髭と闘うメナード大尉
出典)Wikipedia

 

20世紀以降のハリウッド映画や日本の漫画にまで、こうした世界観が持ち込まれるとは、まさか思わなかったであろうけれども。

 

話を戻して、信仰の面からも、また経済的な思惑からもイングランドに対して堪忍袋の緒が切れたフェリペ2世は、1568年、無敵艦隊を差し向けて来た。

 

これを迎え撃ったイングランド王こそ、エリザベス1世女王である。彼女はなんと、海賊の親玉であったフランシス・ドレイクをイングランド艦隊の副官(事実上の司令官)に任じた。そのドレイクは、遊撃戦法で無敵艦隊を疲れさせ、最後は薪などの可燃物を満載した船に火を放って敵艦隊のまっただ中に突入させるという特攻作戦で、辛くも勝利を得た。

写真)フランシス・ドレイク
出典)Art UK

 

かくして、イングランドがやがて連合王国=英国となり、スペインに代わって「日の沈むことなき帝国」の座を得るに至る道が開かれるのだが、それはまだ先の話で、無敵艦隊を追い返したからと言って、スペインの脅威が消えたわけではなかった。

 

そしてこのことが、アイルランドの運命を一層悲劇的なものとする。

 

これまたイングランドの立場から見れば、スペインを中心とするカトリック勢力を正面と見て対峙した場合、カトリック国アイルランドは「背後の脅威」以外のなにものでもない。事実、前述の無敵艦隊は、まず北方に遁走した後、ブリテン島北部を迂回してスペインに逃げ帰ったが、一部は途中アイルランドに寄港して補給を受けていた。この間イングランド艦隊はと言えば、兵糧の準備が充分でなかったため、再度の出撃はできなかったのである。このためイングランドは、アイルランドを制圧すべく、派兵を繰り返し、1600年代からは世に言うアルスター植民を開始した。

 

アイルランド北部のアルスター地方に、主にスコットランドから多数の移民が送り込まれたのだ。前回述べた通り、アイルランドとスコットランドの住民はともに「島のケルト」すなわち民族的に同根で、文化的な結びつきも強かった。しかし、この時期にスコットランドから渡ってきた人々は、古来のゲール語をすっかり忘れて英語を母国語とし、プロテスタントの信仰を持つようになっていた

 

さらには、彼らの言う「植民」とは、もともとアルスターで暮らしていたカトリックの住民を特定の居住区に押し込め、奪った土地に自分たちの生活圏を築く、というものであった。言い換えればカトリックの住民の立場は、新大陸における先住民、あるいはアフリカにおける黒人と同様のものとなったのである。

 

その後300年を経て、具体的には20世紀末の統計ということになるのだが、このアルスター地方においては、金融資本の100%、製造業の70%以上、サービス業の過半数がプロテスタントのもので、カトリックは下層労働者階級と同義語であった。

 

とどのつまり、スペインにおいてもアイルランドにおいても、イングランドは信仰と経済活動の両面から敵視され、恨みを買うに至ったのである。

 

繰り返し述べるが、イングランドにしてみれば、強大なカトリック勢力の脅威に対抗するため、という大義名分があったわけだが、いつの時代、どこの国でも、もっとも立場の弱い者が最大の被害者になるという構図だけは変わることがない。

 

しかしその構図も、永遠に変わらないというものではなかった。

 

追い詰められた弱者が武器を手にした時、歴史はまたも大きく動き、そしてさらなる悲劇が招かれるのである。

    

トップ写真)バーバリーコルセアとの海戦
出典)UK ART

(3に続く、全6回予定)


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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