日本のサポーターよ、原点に戻れ(中)スポーツの秋2023 その5
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林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・日本代表のサポーターたちがJリーグ発足で各クラブに散った経緯から皆が仲良く「理想の姿」の評も。
・世界で賞賛された試合後のゴミ拾いは浦和レッズのサポーターたちが始めたもの。
・リネカーは「浦和はロンドンよりはるかに文化的な街なのかも」と賞賛していたのだが・・・。
日本プロサッカーリーグ(以下Jリーグ)が創立されたのは、1991年11月のことである。私は英国ロンドンにいた。
現地発行日本語新聞の編集長として忙しく働いており、週末もサッカー観戦に行く余裕はちょっとなかったのだが、世界屈指のサッカー大国で暮らしている以上、そうした話題と無縁に過ごすことはない。リーグ戦や国際試合の模様はTVニュースで毎度大きく取り上げられていたし、新聞も、質量ともに日本とは比較にならないほどサッカー記事に力を入れていた。
その仕事に就く以前は留学生で、学校で独自に立ち上げられたサッカー・チームに所属し、週末は公園でイギリス人のチーム相手に試合をしたものだ。相手は草サッカーで、こちらは留学生の寄せ集めだから、いい勝負というのもおかしなものだが、5割くらいの勝率は残していたと思う。もう少し具体的に述べると、勝ったり負けたりしていた印象しかない。どこが具体的なのだ笑。
ただ、このチームに属したおかげで、サッカーに関する新たな知見を得た。
まず、チーム事情が特殊だった。ヨーロッパ大陸諸国(イタリア、ギリシャ、当時の西独など)から数名、中南米(ブラジル、メキシコ、チリ)から数名、プラス全アジアを代表して私一人という構成なので、連携に欠けることおびただしかったのである。
今度こそもう少し具体的に述べると、ヨーロッパ勢がボールを持つと、自分たちだけでパス回しを始め、中南米の連中は周囲を無視してドリブル突破を試みる。
私は右サイドバックを務めることが多かったが、当時すでに武道有段者だったので、イギリス人に当たられてもそう簡単には倒されない、という点を買われたようだ。ただ、ボールをかっさらっても、連携できる相手がおらず、ひたすらフォワードの頭めがけてロングパスを蹴りまくった。
ヨーロッパと南米で、サッカーのプレースタイルが違い、さらに言えば国によって好まれるスタイルがある……と言う程度のことは、なにかで読んだ記憶はあったのだが、具体的にはこういうことだったのか、とひとつ勉強になったのである。
自分でプレーするだけでなく、スタジアムにも観戦しに行った。
初めてスタジアムで見たのは、トッテナム・ホットスパーとリバプールとの試合で、学校で机を並べていたイスラエルからの留学生に誘われて、ロンドンの下町まで足を運んだ。当時はまだ、現在のホットスパー・スタジアム(2019年に開場)はなく、古めかしい建物だったのを覚えている。
試合は、たしかに素晴らしかった。2階席で見ていたのだが、みんな足も速ければ反応も素早い。当たりが激しい。結果は、2-1でトッテナム・ホットスパーの逆転勝ち。
問題は、試合が終わった後で、すぐに家路につくことはできなかった。
まずは、アウェイであるリバプールのサポーターたちが帰らされ、我々は1時間あまりも待って、別の入り口から帰らされたのである。それも、ゲートは警官隊(数百人はいたと思う)が固め、4列縦隊で進むよう命じられ、そこから左右を警官隊に挟まれたまま、駅まで行進させられたのである。
当時イングランドでは、フーリガニズムの問題がどんどん深刻になっていた。サッカーの試合の前後に、数人単位の殴り合いから、ひどい時には敵味方合わせて数千人がフィールド一杯に広がっての大乱闘まで、ともかく日常茶飯事であった。
そうした騒ぎの主体をフーリガンと呼ぶわけで、その語源については諸説あるものの、人名から来ているとする説が、もっとも広く信じられているようだ。
19世紀、ジャガイモの不作による飢饉に見舞われたアイルランドから、多くの移民がやってきてロンドンにも住み着いたが、差別と貧困に苦しめられた彼らの中から、一種の愚連隊が生まれ、地元の不良グループと抗争を繰り返すようになった。
そのアイルランド系不良グループの中に、パトリック・フーラハンという名うての暴れ者がいたという。彼の姓が「フーリガン」と訛って人口に膾炙し、そこから手の着けられない暴れっぷりを「フーリガニズム」と呼ぶようになったらしい。
ただ、それほど有名な人物であったにしては、生年月日など公的な資料はなにもなく(と言うことは、逮捕歴もないのだろう)、言わば伝説上の人物である。
実際に私は『ロングパス』(新潮社)という本を書いた際、わざわざ「フーリガン」と題して一章を割き、この問題を取り上げた。
元フーリガンとして有名な人物(自身の体験を本に著し、それが『デイリー・メール』紙で絶賛された)にもインタビューしている。
その本の後書きにも記させていただいたが、当時「本場の」フーリガニズムを目の当たりにした者としては、
「たかがボール遊びのことで、なんだって命がけの思いまでしなければならないのか。イギリス人というのは、少しおかしいのではないか」
という感想を抱かざるを得なかった。
さらには、
「将来にわたって、日本の若者が愚にもつかない〈イギリス文化〉に染まることが無いようにしたいものだ」
との考えも、本文で開陳させていただいた。
結果は逆だ、ということではないと、私は今でも思っている。
冒頭で述べた通り、Jリーグの旗が揚がったのは1991年のことだが、初期のサポーターは、もともと日本代表のサポーターだった者が各クラブに散っていったという由来があって、互いに顔見知りで仲もよかった。
この時期は、まだバブル景気の余韻が少しだけ残っていて、海外から多くのビッグネームがJリーグに招聘された。元イングランド代表のガリー・リネカーもその一人である。
Jリーグのオールスター戦に出場した際、観客席で各クラブの応援旗が仲良く振られているのを見た彼は、
「サッカーの理想の姿がここにある」
と感想を述べたものだ。
ワールドカップにおいて、日本のサポーターたちが、試合後に観客席のゴミ拾いをして帰る姿が世界中に中継され、賞賛されたのだが、この試合後のゴミ拾いも、実は浦和レッズのサポーターたちが始めたものだ。
「浦和は偉い。行ったことないが、ロンドンよりはるかに文化的な街なのかも知れぬ」
「よかったらゴミ拾いした後の爪の垢を集めて、ロンドンまで送ってもらえないだろうか。私が煎じて、イングランドの馬鹿サポーターどもに呑ませてやりたいと思う」
……こうしたことを、最初の単行本である『英国ありのまま』(中央公論社・中公文庫、電子版アドレナライズ)に記したほどだ。
そのような浦和レッズ・サポーターがなぜ、一部ではあるにせよ、繰り返し騒ぎを起こす「なんちゃってフーリガン」に成り果てたのか。
次回、日英のフーリガン事情とその背景について、もう少し掘り下げる。
トップ写真:浦和レッズのサポーターたち(2023年8月18日 埼玉 ※写真はイメージ。本文とは関係ありません)
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。
![林信吾](https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/japanindepth/wp-content/uploads/2016/01/h-2.jpg)