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.国際  投稿日:2019/6/21

国旗が象徴するもの 悲劇の島アイルランド その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

 

【まとめ】

・「アイルランド革命・遠征」「カトリック処罰法」によりアイルランドは悲劇的な歴史を経験。

・アメリが独立戦争、フランス革命を契機にアイルランドの状況は変化。

・アイルランド独立運動はインドの独立派にも大きな影響を与えた。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て見ることができません。その場合はJapan In-depth https://japan-indepth.jp/?p=46385 のサイトでお読み下さい。】

 

 

アイルランドの悲劇とは、宗教対立によってもたらされたものだということを、前稿で説明させていただいた。

 

少しだけおさらいをしておくと、国教会を立ち上げてローマ法王庁と決別したイングランドは、カトリックのスペインから軍事的な圧力を加えられ、その結果「背後の脅威」となり得るカトリック国アイルランドを是が非でも制圧せねばならなかった。

 

かくして1586年、時のイングランド王ヘンリー8世は、アイルランド人の貴族・地主が誰一人支持しないにもかかわらずアイルランド王を名乗り、かの地を事実上の植民地とした。しかし、その後も独立を求めての反乱が繰り返し起き、支配が一応の完成を見たのはおよそ100年の時間を経た後のことだとされている。そのくらい、アイルランド人の抵抗はしぶとかったのだ。

写真)ヘンリー8世

出典)Pixabay;David Mark

 

このことは同時に、支配が完成を見たと言うのは、幾多の惨劇の末だったということを意味する。1641年の「アイルランド革命」と称される大規模な反乱は、一度はアイルランドの支配権をカトリックの手に戻したが、イングランドにおいて清教徒革命を主導したオリバー・クロムウェルが悪名高い「アイルランド遠征」を実施する。

 

反乱に対する報復として、女子供までが犠牲になる虐殺事件が複数回引き起こされ、犠牲者の数は万単位になるとされるほどだ。

写真)オリバー・クロムウェル

出典)Wikimedia Commons

 

後にこの「歴史問題」は、ナチス・ドイツとの戦争=第二次世界大戦において、アイルランドが英国への協力を拒否するという、大いなる禍根を残すまでになる。

 

しかも、これまた悪名高い「カトリック処罰法」により、カトリック信者であった地主の土地は没収され、プロテスタントの入植者に分け与えられた。入植者と言っても、多くはイングランドやスコットランドに居を構えたままの、いわゆる不在地主で、カトリックの農民は小作人となり、ますます貧しくなっていったのである。

 

こうした構造にも変化が見えはじめたのは18世紀になってからのことだ。特に1775年にアメリカ独立戦争が始まると、その対応に追われた連合王国(1707年にイングランドとスコットランドが合邦して成立した、グレートブリテン連合王国。(以下便宜的に「ロンドンの政府」と呼ぶ)は、アイルランドに対して妥協的な態度に転じざるを得なくなった。

しかもこの時期、多くのプロテスタントが、不在地主の立場ではなく、アイルランドに移り住んで起業するようになり、自らを「アイルランドの支配階級」と考えるようになってきていたのである。

 

そして実際に、高額納税者となった彼らプロテスタントの商工業者は、アイルランド議会に大きな勢力を持ち、自治の拡大を要求しはじめた。

 

ところが1789年にフランス市民革命が勃発する。革命の波及を恐れたロンドンの政府は、アイルランドのカトリックに対して、一段と妥協的な態度をとらざるを得なくなったが、これを「支配階級」であったはずのプロテスタントから見ると、もともと人数的には多数派のカトリックの間で、「フランス革命政府と連携して、より急進的な改革を勝ち取ろう」

との機運が高まる中、政治的にまったく孤立した立場に追いやられてしまったのである。

写真)フランス革命

出典)Erich Lessing Culture and Fine Arts Archives via artsy.net

 

彼らは結局、自治の拡大要求から一転、連合王国との完全な一体化を望むようになるが、これこそ歴史の皮肉と言うべきだろう。

 

かくして1800年、ロンドンの政府の主導によって「連合法」が可決され、これを受けて翌1801年、アイルランドは正式に併合された。「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」が誕生したのである。

 

これにより、アイルランドは植民地から正式に英国の一部となったわけだが、独立の機運は一向に衰えることがなかった。

 

と言うのは、この連合法を成立させる過程で、ロンドンの政府は、言わば懐柔策として「カトリックの権利拡大」をうたっていたのだが、時の国王ジョージ3世が難色を示したという事情もあって、公約が反故にされていたからである。

 

結局、第一次世界大戦後の1919年、アイルランド独立戦争が始まり、その結果1921年に「アイルランド自由国」が成立する。

 

現在に至る、ナショナリスト(アイルランド民族主義者)と、英国への帰属を求めるユニオニストとの対立や、IRA(アイルランド共和国軍)によるテロなどの問題は、ほぼこの頃までにその萌芽が見られる。

 

この独立から新憲法公布(1937年)、その後の政治的・社会的混乱については次回以降、順を追って見て行くが、本稿の最後に、アイルランド国旗に注目したい。向かって左から、緑、白、オレンジの三色旗だが、緑は豊かな自然とカトリックの象徴、そしてオレンジはプロテスタントの象徴(オレンジ公ウィリアムに由来する)。そして真ん中の白は、両者の平和共存を象徴している。

写真)アイルランドの国旗

出典)Public Domain Pictures.net

 

「宗教的対立を超えて、他人の権利を侵さず、また侵されない民主国家を築こう」という、独立運動の理念そのものなのだ。

 

この、アイルランド独立運動から、思想的に大きな影響を受けたのが、20年ほど後れて独立を勝ち取ることになるインドの独立派である。インド国旗もまた、イスラムにおける聖なる色である緑を下、ヒンドゥー教における聖なる色であるサフラン色を上に、そして両者の平和共存を象徴する白が真ん中に配されている。なおかつ、白地のさらに真ん中には、仏教のダルマ(法)を象徴する円形の文様が描かれている。

 

この国はよく知られるように、ヒンドゥー教の信者が多数派を占めるインドと、ムスリムが多数派を占めるパキスタン、仏教国スリランカ、さらにもともと東パキスタンであったバングラデシュ、というように分離独立し、今も宗教的対立は解決されていない

 

今さら外国人の私がこんなことを訴えてもむなしいかも知れないが、自国や国旗に誇りを持つべきだと言うのであれば、まずは国旗がどのような理念を象徴しているのか、もう一度学び直して欲しいものである。

 

トップ写真)アイルランドの風景

出典)pixabay; Andreas Senftleben

 


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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