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.社会  投稿日:2022/6/29

日欧地名事情 地名・人名・珍名について その6


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・日本では「~丘(岡)」という地名がありがたがられるが、ステータスがあがったのは大正時代以降。

・英仏の事例もあるが、「~丘」のステータスが上がったのは、中心部の過密を解消せんとする都市計画の結果。

・現代の日本人が見習うべきは地名ではなく、多くの市民の利益を追求した合理的な都市計画だろう。

 

司馬遼太郎が書いていたが、日本において「~丘(岡)」という地名がありがたがられることには、多少の違和感があったという。

本来、人が住むのに適していて地名としてもありがたいのは「~谷(やつ)」なのだとか。

そう言われてみると、スコットランドでは「グレン」がつく地名が多く、これも谷の意味だ。酒に詳しい読者は、グレンなんとかというスコッチ・ウィスキーの銘柄が多いことをご存じだろう。

たしかに、丘の上よりも谷間の方が水も豊富で、耕作や酒の醸造にも適しており、言い換えれば資源や職がある場所には自然と人も増える。

スコットランドの丘陵地帯はまた、北海からの強い風に常時さらされ、気候が厳しいことで知られるのだが、一方ではこの風のおかげで、塩分を豊富に含んだ草が育ち、これが上質な飼料となって、牧畜が盛んなことも事実だ。

北海道の日高地方も、競走馬の産地として全国的に有名だが、似たような自然条件によるものであると聞いたことがある。

スコットランドに隣接するイングランド北部でも事情は似たり寄ったりで、エミリー・ブロンデの『嵐が丘』を例に引くまでもなく、丘陵地帯の気候は厳しく、荒涼とした風景が広がっている。

小説では、都会の生活に疲れた主人公が、こうした手つかずの自然に惹かれてやってきた、という設定になっているが、これを「典型的なイングリッシュ・ジェントルマンの発想」と見る向きには、私は違和感を覚える。

私見ながら、この主人公は「人間ぎらい」を自認している上に、まだまだ若いから、荒涼とした自然の中での生活もあまり苦にならなかった、というだけの話ではあるまいか。

▲写真 エミリー・ブロンテの恋愛小説「嵐が丘」の舞台とされる場所に設置された案内標識(2018年07月30日 英・キーリー) 出典:Photo by Christopher Furlong/Getty Images

実際問題として、都会で定年を迎えたような人たちが「終の棲家」を建てたがるのは、比較的温暖な、イングランド南海岸が最も多い。昔から日本人留学生も大勢いることで知られるブライトンはじめ、軍港としても有名なポーツマス、社交ダンスの世界大会が毎年開かれ、邦画『Shall we ダンス?』にも登場するブラックプールなど。

例によって余談にわたるが、ブライトンという街に昔から日本人留学生が多いのは、ロンドンまで列車で1時間弱と便利な上、年金生活者の家は比較的安価にホームステイできるという事情があったから、と言われている。ペンションというのも、もともとは年金の意味で、年金生活者が(子供が独立するなどして)空いた部屋に観光客を泊め、小銭を稼いだことから来ているので、民宿の「お洒落ヴァージョン」という意味はもともと含まれていない。

話を戻して、イングランドの地名は、ローマの影響を抜きにしては語れない。

首都ロンドンからして、ローマ人がロンデニウムと名づけたことに由来する。ただ、そのまた語源はと問われると、古代ケルト語で「渡るには広すぎる川=おそらくテムズ川のこと」であるとか、いや「荒れた土地」といった意味のウェールズ語が起源であろうとか、未だ定説は確立されていないようだ。本稿でも「諸説あり」と明記しておく。

他にはイングランド北西部、ウェールズとの境界近くにチェスターという街があるが、これはローマ軍団の「駐屯地」の意味。

サッカーで有名なマンチェスターはじめウィンチェスター、ドーチェスターなどの地名もあるが、語源はすべて同じである。これらの地名はまた、イングランド中部に多いのだが、これは、ローマ軍団の支配が及んだ北限で、その領地を「北方の蛮族」から守る目的で多くの駐屯地が置かれたからだが、これもまた、スコットランド人に言わせれば、自分たちはローマに屈することなく独自の文化を育んできたのであるから、イングランドに見下される筋合いはない、ということになるらしい。どこの国でも「歴史問題」を持ち出すと、話がややこしくなりがちだ。

それで思い出されるのは、日本で最も有名な地名のひとつであろう「霞ヶ関」だ。

唐突になにを言い出すつもりか、と思われた向きもあろうが、東京都千代田区の官庁街の他に、埼玉県川越市にも同じ地名があって、東武東上線の駅名にもなっている。

▲写真 東京千代田区霞が関の官庁街 出典:Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images

いずれも北緯35度40分あたりに位置し、ふたつの霞ヶ関を結んだならば、ちょうど関東平野を真ん中から南北に分断したようになるといった位置関係だ。

伝承によれば、日本武尊が北方の蝦夷(えみし)に備えて「関」を置いたのが由来とされるが、要は古代、大和朝廷の勢力範囲がこのあたりまでで、その向こうは霞んでいる=状況がよく分からない、といったほどの意味の地名なのである。

その後、大和朝廷の勢力はどんどん北上し、現在の東北地方にまで達した。

さらに、近代になると、ついには蝦夷地に達して「北海道」と改められるわけだが、地名に関して言えば、もともとの現地語であったアイヌ語に漢字を当てたため、独特の読み方をする。稚内(わっかない)や長万部(おしゃまんべ)、足寄(あしょろ)など枚挙にいとまがない。道庁所在地の札幌にせよ、もともとは豊平川流域をアイヌ語でサツホロあるいはシャツホロと呼んだのが語源らしい。

沖縄の地名にせよ、琉球語に漢字を当てたものが多い。那覇に隣接する南風原は「なんぷうばら」でも「みなみかぜばら」でもなく「はえばる」だというように。

ここであらためて、冒頭の話に戻ることになる。

日本で「~丘(岡)」という地名のステータスが上がったのは大正時代以降のことで、私見を交えて語ることをお許し願えるなら、ロンドンにおけるハムステッド、パリにおけるモンマルトルのイメージが影響したものではないかと思われる。

いずれも市の中心部を一望できる高台で、お洒落な商店街もあり、クリエイティブな仕事に従事する人が多く住むとされる。

ただ、そのような評価が定着してきたのは比較的最近のことで、モンマルトルなど、もともとはパリ市内でなく隣接するセーヌ県に属していた。もう少し具体的に述べると、ナポレオン3世(1808~1873)が命じた「パリ改造」により、中心部で大規模な区画整理が行われた結果、多くの人が郊への転居を余儀なくされた。芸術家たちもその例に漏れず、市内に比べて家賃が安く、田園風景が残るこの丘陵(と言っても、標高130メートル程度だが)にアトリエを構えたのである。さらにはまた、移民も多く住み着くようになった。歌手のシャルル・アズナブールもこの地で生まれたアルメニア系の移民二世だ。

ジェントリフィケーション(高級住宅地化)が進んだのは1910年代、第一次世界大戦の直前あたりからで、この結果、若い芸術家たちは地価高騰に耐えかねて、多くがパリ市内に戻ったとされる。

以上を要するに「~丘」という地名のステータスが上がったのは、中心部の過密を解消せんとする都市計画の結果なのだ。

現代の日本人が見習うべきは地名ではなく、個別具体的な事情はあろうとも、多くの市民の利益を追求した合理的な都市計画であろうと私は思うのだが、どうだろうか。

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トップ写真:都心から望む富士山(イメージ) 出典:Photo by Yamaguchi Haruyoshi/Corbis via Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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