晴れることなきロス疑惑(上) 再論・「正義」の危険性について その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・「ロス疑惑」三浦和義氏は13年間を拘置所で過ごした。
・「疑わしきは罰せず」という、刑事裁判の大原則を無視した裁判。
・罪のない人に刑罰を科せれば、誰も法の正義など信じなくなる。
「ロス疑惑」を覚えておいでだろうか。
2008年10月、この「疑惑」の渦中の人物であった三浦和義氏が自殺した。
少林寺拳法の道場で空き時間にその話題を出したところ、当時高校生だった後輩に、
「ミウラカズヨシって、サッカー(選手)しか知らない」
と言われたことを今でも覚えている。もちろんキング・カズこと三浦知良選手のことだが、当時すでにスターで、今も現役とは大したものだ……という話では、もちろんない。
騒ぎの発端は、1981年にさかのぼる。
くだんの三浦氏が米国ロサンゼルスに出張中(海外雑貨を扱う会社を経営していた)、まずは8月31日、宿泊先だったホテルの部屋に妻が一人でいた際、突然「東洋系の女」が上がりこんできて、ハンマーで殴りかかった。この時は、妻は軽症で済んでいる。
さらには11月18日、今度は市内の駐車場で、何者かによって妻が頭部を、自身も脚を銃撃された。意識不明となった妻は、米軍の協力を得て日本に移送されたものの、搬送先の病院で死亡。当時のマスコミの扱いは「悲劇の夫」というものであった。
ところが1984年に『週刊文春』に「疑惑の銃弾」と題した連載記事が掲載される。
三浦氏が妻の死にともなって巨額の保険金を受け取ったことや、現場で目撃された白い車に全く気づかなかった、という本人の供述が信じがたいとして、要は「保険金殺人の疑いあり」という趣旨の記事である。
三浦氏は有名な元女優・映画プロデューサーの甥で、子役の経験もあったとは言え、この時点では公人でも芸能人でもない、一般市民だった。その一市民のプライバシーを事細かに書き立てる記事に対しては、当時すでに一部からの批判もあった。
控えめに言っても、一連の「疑惑」報道によって、こいつは悪い奴、といったイメージが広まったことは否定できない。
実は私の旧知のジャーナリストが、当時『週刊文春』のスタッフライターとして、この取材に参加していた。
「取材した感触ってやつを聞かせてくれない?」
と尋ねたところ、彼は言下に「クロだと思うよ」と答えたものだ。
私も、まあ故人に対して今さら言いにくいことではあるが、正直な人ではないな、という印象は抱いていた。
報道が過熱する中、一時期ロンドンに滞在していたのだが、その時のエピソードを後に週刊誌で語った際に、再婚した奥さんのことを自慢するつもりだったのか、
「僕が日本食しか駄目なことを知って、大豆を買ってきて味噌や醤油まで手作りした」
などというトンデモ発言があったからだ。
これは1985年のことで、当時すでにロンドンに住んでいた私は、市内に日本食料品店がたくさんあることを知っていたし、そもそも大豆を買ってきたらすぐに味噌や醤油にありつけるものか否かくらい、常識で分かりそうなものではないか。
そうではあるのだが、その後の捜査当局および裁判所の対応には、釈然としないことが多かった。
1985年9月、警察はまず、前述のホテルでの殴打事件で、三浦氏と、直接実行犯であることを告白した愛人の元ポルノ女優(今で言うAV女優)を殺人未遂容疑で逮捕。その後、三浦氏を銃撃事件の主犯と断じ、殺人容疑で再逮捕した。以下、前者を「殴打事件」、後者を「銃撃事件」と呼ぶ。
その後1998年に釈放されるまで、13年間を拘置所で過ごすこととなる。
有罪が確定したのは殴打事件のみで、判決も6年の実刑だったにもかかわらず、だ。その刑期も、未決拘留日数が差し引かれ、宮城刑務所で2年2カ月の服役となった。判決確定は1998年のことで、結局、彼が塀の中で過ごした期間は16年にも及んだ。
こういうことになった理由は、銃撃事件でも逮捕・起訴されて裁判が続いていたからだが、まず1994年3月、東京地裁は有罪として無期懲役を言い渡した。
この判決に至る経緯も、判決自体も、いささかひどい。
まず、直接実行犯ではないかと疑われた、ロサンゼルス在住の日本人男性が別件(銃刀法違反)で逮捕された。実は三浦氏は、海外の雑貨を扱うビジネスをしていた割には、英語が上手ではないので、共犯者は日本人だろう、と決めつけられていた可能性がある。
この男性が疑われたのは、事件当日、白のレンタカーを借りていた事実が明るみに出たからだが、その後の捜査で、現場で目撃された車とは、どうやら車種が違うということや、三浦氏と謀議する時間があったとは考えられない(つまり、アリバイがあったも同然)といった有利な証拠も出たため、銃撃事件に関しては無罪放免となった。
ところが、検察は共犯者を「氏名不詳者」であるとして、強引に起訴(1988年11月)。98年7月、東京地裁は無期懲役の判決を言い渡した。これのなにが「いささかひどい」のか、判決骨子を煎じ詰めれば、
「直接実行犯はどこの誰だか分からないが、動機(保険金、愛人の存在)など状況証拠から見て、被告が主犯であることは疑う余地がない」
というものだったのである。
この裁判官は「疑わしきは罰せず」という、刑事裁判の大原則を理解できていなかったか、マスメディアが広めた「三浦悪人説」に完全に乗せられていたか、もしくはその両方だと決めつけられても仕方あるまい。
被告はもちろん控訴し、98年7月、東京高裁は前述の「疑わしきは罰せず」の「原則に立ち返って、逆転無罪の判決を下した。今度は検察が上告したが、2003年3月、最高裁で無罪が確定する。
こういうことを述べると、
「たとえ殺人犯でも、決定的な証拠がない限りは無罪にしろ、ということか」
などという非難にさらされそうだ。
たしかに、無罪と無実は違うとよく言われるが、これはまさにそのケースだと私も思う。
とは言え。非難がましいコメントを書く前に(書くのはまあ、自由だが)、疑わしきは罰せず、という原則が、どのような論理に裏打ちされているのか、くらいは知っておいていただきたい。
「たとえ100人の犯罪者を野に放つ結果を招こうとも、1人の無実の人間を獄につなぐことなかれ」
これである。
犯罪を犯してもいないのに刑罰を科せられる人が次から次に出たりしたら、最終的には、誰も法の正義など信じなくなる。人々が法の正義を信じない法治国家など、あり得ないではないか。
いずれにせよ三浦氏は、ひとまず自由の身になったのだが、それでもなお、彼を訴追して刑罰を科すことを諦めない人たちがいた。外ならぬロスの捜査当局である。
次回は、その話題を中心に「一事不再理」の話題をお届けする。
トップ写真:ロサンゼルス中心部 出典:Wikipedia