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.社会  投稿日:2020/10/23

「飯塚は死刑」と連呼する虚しさ 再論・「正義」の危険性について その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・池袋暴走事故の飯塚幸三被告「無罪」主張。

・「飯塚を死刑に」と連呼するのが正義と思う人は想像力が欠如。

・遺族の処罰感情を掲げ、刑事被告人の権利を制限する動きを憂える。

私が直接取材したわけではなく、伝聞であるとお断りしておくが、沖縄出身のある女優が、かの地を舞台にしたドラマへの出演を断ったことがあるそうだ。結構有名な小説を原作としたものだが、米兵にレイプされた沖縄の女性が、周囲の偏見にさらされながら……という物語である。

実はその女優は、米軍人を祖父に持つクオーターなので、出演を断った理由とは、

「こんなドラマを放送して、沖縄の米軍人はみんなこんなことをするのか、と思われたら、おじいちゃんも気の毒だし、私も向こう(米国)の親戚に合わせる顔がない」

という理由だったと聞く。

沖縄の女性が米兵から性的暴行を受ける事件は、たしかに後を絶たないし、女優として彼女の決断が正解だったのかどうか、早計に言われない部分もあると思うが、本人にしか分からないところでもあるのだろう。

一部の不心得者のせいで全体が迷惑する、という例は、世の中にいくらでもあるので、最近の話題で言うと、池袋暴走事故で過失運転致死傷罪に問われた、工業技術院元院長・飯塚幸三被告なども、そうである。

昨年4月に起きた事故であるが、当初ネットでは、

「事故でなく殺人」

「現行犯逮捕されなかったのは、元高級官僚という<上級国民>だったから」

といった書き込みが大量になされ、私が、それは事実と合致しない、と指摘したところ、批判的なコメントを何本も頂戴した。

今月、東京地裁で初公判が開かれたわけだが、そこでもまた、遺族に謝罪の言葉を述べた直後、

「車に何らかの異常が起きて暴走を止められなかった」

などと無罪の主張を行い、世間の(つまり、いわゆるネット民に限らず)怒りに対して、火に油を注ぐ結果を招いた。あくまでも車のせいにするのか、というわけだ。

直後から、複数の弁護士がブログや動画投稿の形で意見を開陳していたし、私も知り合いの弁護士から話を聞いたのだが、裁判所がこの主張をまともに受け取るとは考えにくく、

「結果の重大さや過去の判例にかんがみて、確実に4〜5年の実刑判決となるだろう」

というのが、法曹関係者のおおむね一致した見解であるらしい。問題は時間で、事実関係に争いがない場合には、年内にも判決が確定するのが普通だが、被告が無罪を主張したとなると、起訴に至った証拠調べをやり直さねばならなくなって、最低でも1年は裁判期間が延びるという。とどのつまり、すでに89歳になっている被告は、刑務所で人生を終えたくない一心で時間稼ぎをしているのではないか、と疑いの目を向けられても致し方ない、ということのようだ。

同じソースで、故意犯でなく過失罪に問われた被告が事実関係を争うというのは、かなり珍しいことだとも聞いた(故意でなく過失だとの主張ならば、結構ある)。

この初公判と前後して、別の裁判の報道に接することとなった。

2018年、群馬県前橋市で、高齢者の運転する車が暴走して、女子高生2人が死傷する事故が起きたのだが、その原因は、当人が運転中に意識を失ったことであった。

そして今年3月、前橋地方裁判所において、

「意識を失うことは予測不能であった」

として無罪の判決が言い渡されたが、検察が控訴していた。その控訴審で、88歳の被告本人は出廷しなかったものの、弁護人を通じて、

「人生の最後に、罪を償いたい」

として、自ら有罪判決を求めたのである。

過去に、レイプ殺人で無期懲役を求刑された被告が、最終弁論で、被害者に死んでお詫びをしたいと述べ、裁判長に、

「慈悲あらば私を死刑にしてください」

と訴えた、という記事を読んだことがある。続報がなかったのだが、法制度上「被告が望むような判決」は考えることが難しいので、おそらく求刑通りの判決だったのだろう。いずれにしても、きわめて異例のことである。

この前橋市の事故でも若い命が失われたのだから、もはや取り返しはつかないのだが、加害者の対応としては、同じ高齢者でもずいぶん違うものだな、と思わざるを得ない。ちなみに、被告が無罪を主張しているのに弁護士が有罪を認めたなら、規約違反となる。さらに言えば、無罪であれ有罪であれ、一審の判決が控訴審で覆る例は、新たな証拠が採用された場合を除き、まず滅多にない。

やはり前にも述べたことだが、交通事故というものは、自分が被害者になる可能性が常にあるのと同様、加害者になる可能性もまた、常にある。

「飯塚幸三は死刑にすべき」

などと連呼するのが正義だと思っている人たちは、そのあたりの想像力が欠如しているのではないか。

被告の車がトヨタのプリウスであったことから、

「トヨタは飯塚を訴えるべきだ」

との意見もネット上では多く見られたが、これこそ余計なことである。

実は2009年から2010年にかけて、米国内でプリウスが暴走する事故が数件起き、訴訟沙汰に発展したことがある。この過程で、科学的な検証によって「プリウスは安全」とする公式発表までなされたが、トヨタ側は、顧客の遺族と争うことは会社にとってマイナスだとして、和解金の支払いに応じている。当時日本国内では、単なる「トヨタ叩き」ではないのか、といった声が聞かれたほどだ。

今回の件は、たしかに腹立たしい事故である。医師から運転をやめるよう促されていた高齢者が、フレンチの予約に遅れそうだからと、焦りのあまりまずは接触事故を起こし、その瞬間にパニックを起こして、さらにアクセルとブレーキを踏み間違えた……というのが、専門の事故鑑定人が下した結論であり、つまり、私も個人的には「死刑」を連呼したくなる気持ちも分からないではない。

それでもなお、皆いま少し冷静になる必要がある、と言わざるを得ないのは、被害者遺族の強烈な処罰感情や、刑事裁判の迅速化といった大義名分を掲げて、刑事被告人の権利を制限すべき、という動きが出ることを憂えているからに他ならない。たとえ「犯罪者の人権ばかり守れと言うのか」といった非難にさらされたとしても、だ。さらに言えば、裁判所は最後まで、万一か億一でも、本当に車に異常が起きた可能性を無視すべきではない。

本件のように大きく報道されることがないだけで、冤罪や理不尽な訴追によって人生を狂わされてしまう人というのは、実は一般に考えられているより、はるかに数多く存在するのだから。

次回は、その典型的な例を再検証する。

トップ写真:東池袋で交通事故死した母子のために設けられた献花台。正面の横断歩道で起こった事故(2019年4月19日)の一週間後に撮影。 出典:Asanagi




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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