モンデール元副大統領と日本(中)駐日大使に任命
古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・選挙で効果なかった日本非難。それでも氏の対日非難は徹底していた。
・駐日大使に任命された氏に「日本非難は変わらないか」を尋ねてみた。
・氏は「日本赴任は楽しみ。今後駐日大使は最も重要なポストになる」と。
アメリカの元副大統領の故ウォルター・モンデール氏は1984年の大統領選では無惨に敗北した。対抗馬のロナルド・レーガン大統領に「歴史的な地滑り」とも呼ばれた大差で敗れたのだった。
モンデール氏が勝ったのは全米50州と首都ワシントン地区の合計51の地域でもわずか2つだけ、同氏の地元のミネソタ州と伝統的に民主党支持者が絶対多数を占める首都ワシントンだけだった。全米の選挙人の数だと、なんと13票、これに対してレーガン大統領は513票という歴史的な圧勝だったのである。
だからモンデール氏の日本非難のアピールも実際の選挙では効果がなかったともいえよう。そもそも穏健なイメージの強いモンデール氏には特定の対象への激しい攻撃は似合わなかった。だがそれでも同氏の日本非難は徹底していた。先に紹介した以外にも次のような発言を当時の私は記録していた。
「アメリカは国際的にすぐれた医薬品、通信機器、コンピューターなどを生産しているのに、日本はなにも買おうとしない」
「日本市場にアメリカ車を売りこむには、米軍部隊を連れていって、こじ開けねばならない」
「アメリカは日本製品の流入を制限する正当な権利がある。アメリカ市場は日本製品に対し開かれているのに、日本市場はアメリカ製品に対し閉鎖されているからだ」
こうした発言はいまみれば、当時のアメリカの労働組合やブルーカラーを代弁する率直な恨みつらみ、だったといえよう。だが日本側にとっては嫌な言葉だった。だから当時のモンデール氏は反日ともみなされていた。なにしろ同氏は日本の首相に対しても痛烈な批判を揶揄とも響く言葉で浴びせていたのだ。
「日本の首相は1人が市場開放を拒む口実がタネ切れになると、すぐに次の首相が出てきて、市場開放の問題など聞いたこともないとシラを切る」
そんなモンデール氏がその後、日本駐在のアメリカ大使に任命されたのは歴史の皮肉だといえよう。この大統領選の敗北から9年後、1993年のことだった。
その後のアメリカ政治はまた激しく揺れ動き、1988年の大統領選挙ではそれまで共和党レーガン政権の副大統領だったジョージ・ブッシュ氏(先代)が圧勝した。ブッシュ大統領はソ連の崩壊による東西冷戦の終結やイラクのサダム・フセイン大統領によるクウェート侵攻の撃退など国際情勢では歴史的な成果をあげた。だが1992年の大統領選挙では民主党新人のビル・クリントン候補に敗れてしまった。
そのクリントン大統領が先輩にあたるモンデール氏を駐日大使に任命したのだ。副大統領だった有力政治家が日本への大使になるという動きは日本側でも歓迎された。そしてそのモンデール氏がいよいよ大使としてまもなく日本に赴任するという時期に私は同氏と1対1の率直な会話をするという貴重な機会を得たのだった。
1993年6月23日、ワシントンの暑い夏にしてはしのぎやすい夕方だった。私はモンデール氏の駐日大使任命を祝う小規模の私的なパーティーに招かれた。ワシントンのベテラン記者、フィンレー・ルイス氏が自宅で旧知のモンデール夫妻を主賓として開いた集いだった。ルイス氏もモンデール氏も同じミネソタ州の出身だから交流が長いのだという。私はルイス氏とはホワイトハウスでの取材などを通じて、親しく話す関係だった。
ルイス氏の自宅は市内北西部の閑静な一角にある、ゆったりとした邸宅だった。きれいな花々が咲いた庭と客間とをつなげた空間にゲストたちが立つカクテルパーティーだった。日本人の参加者は私1人だけだった。
そのせいか、これから日本へ赴任するモンデール氏は到着すると、私のところにもすぐ近づいてきて、「日本の政治はものすごい変動ですね、自民党はどうなりますか」と問うてきた。当時の日本の政治は確かに混迷の極にあった。自民党の宮澤喜一首相が改造内閣に対する不信任案を可決されて、衆議院解散へと追い込まれたばかりだったのだ。
モンデール氏はさすがベテランの政治家らしく私の真正面に立ち、息づかいを感じさせるほどの近距離に近づいて、じっとこちらの目をみながら、話しかけてきた。当時の彼は65歳だったが、ダークスーツ姿の引き締まった体躯は活力を感じさせた。
私は彼に会ったら必ず聞こうと思っていた質問を口にした。
「84年の大統領選挙中には、手厳しい日本批判を繰り返していましたが、そのような日本への認識はいまも変わりありませんか」
するとモンデール氏は一瞬、表情を引き締めた。そして一気に語った。
「いや、当時の共和党のレーガン政権は財政赤字を急激に増やし、ドル高をもたらしたので、日本からの輸入が急増していました。そんな状態への警告が必要だったのです」
そしてモンデール氏はレーガン政権の政策への批判をさらに語った。私が知りたいと思った日本に対する見解はほとんど口にしなかった。もっともこれから日本駐在の大使になるという人物が日本への批判など述べないことは当然だろう。後から思えば我ながら愚かな質問だとは感じたが、とにかく尋ねてみるのがジャーナリストの任務だということにしておこう。
実際には当時のクリントン政権はなお日本の対アメリカの巨額の貿易黒字や日本の市場閉鎖性を非難していた。モンデール氏が84年に提起していた「日本との経済問題」は民主党政権としてなお重視していたのだ。
しかしモンデール氏はその種の話題を避けて、次のようなことを一気に語ったのだった。
「日本への赴任は妻とともに心から楽しみにしています。これからのアメリカにとって駐日大使というのはおそらく、最も重要で、最もチャレンジングなポストになるでしょう」
「日本では政治家の平均年齢が高いから、私も若手とみなされそうですね。大平正芳元首相には親愛感を抱いていたので、彼の急死はとても残念に思いました」
「私が副大統領の時代には、よくエドウィン・ライシャワー元駐日大使から助言を受けていました。彼の日本についての知識や愛着には感嘆していました」
▲写真 ライシャワー駐日大使とハル夫人 出典:Bettmann / 寄稿者
こんな話が進むうちに、かたわらに立っていたモンデール氏のジョーン夫人が会話に加わってきた。ベージュのドレスの長身で優雅な女性だった。
「実は私の母とライシャワー氏はイトコ同士なのです。日本では美術や芸術に魅せられるでしょうが、日本の女性問題にも強い関心があります」
▲写真 モンデール副大統領とジョーン夫人(左)。カーター大統領夫妻と。(1977年01月21日 ホワイトハウス) 出典:Barry Soorenke/Consolidated News Pictures/Getty Images
モンデール氏は他のゲストのワシントンの古参ジャーナリストや外交関係者たちとも率直に話していた。クリントン政権のミスや駐日大使の任命のジグザグというようなことまで率直に、ユーモアまじりに語るのだった。
このレセプションの終わりに近いところで、遅れてきた中年女性がモンデール氏に対して「お名前は?」と尋ねる一幕があった。女性はあわててやってきて、いきなり目の前に現れた元副大統領の顔を一瞬、認識できなかったのだろう。
モンデール氏は笑顔を崩さずに応じていた。
「ウォルター・モンデールと申します」
周囲が笑い、その女性もすっかり恐縮すると、モンデール氏は共和党の古い政治家の名前を出し、「彼は会った相手が自分の名前を知らないと、すぐに怒るので有名なんですよ」と述べて、その場の空気を和らげたのだった。
以上がモンデール氏の日本非難発言に関する私の体験だった。
(下につづく。上はこちら)
トップ写真:モンデール副大統領と福田赳夫首相(1977年1月31日 首相官邸) 出典:Getty images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。