日本語は乱れているのか(上) 日本の言論状況を考える その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
【まとめ】
・「日本語の乱れ」を調べたら、清少納言が『枕草子』で『と抜き言葉』を嘆いていて驚いた。
・変遷しながらも、正しい言い回しが残るのか。会話はまだしも文章化はよくないとの感覚も継承か。
・略語や便利な言い回しは、必ず人口に膾炙する。日本語も英語も不断に変わっているに過ぎない。
またまた個人的な思いから語り始めることをお許しいただきたい。
1970年頃、元号で言うと昭和40年代の高度経済成長期だが、私は小学生で、それも「正しい昭和の小学生」として漫画を乱読していた。
ある日、私の父親が唐突に、
「赤塚不二夫とか、訴えてやろうかな。日本語を乱している、ということで」
などと言い出したことがある。若い読者にはピンとこない話題かも知れないが、当時人気を博していた『おそ松くん』に登場するキャラクターが、
「シェー」「……だよーん」
といった言葉を乱発するのが気に入らなかったらしい。
もちろん本気の発言ではなかっただろうが、成長して自身もジャーナリズムで働き、職業柄、法律や裁判についての文献もそれなりに読んだ今の私には、本当に訴えたところで、おそらくは裁判所に門前払いされただろう、と容易に想像がつく。原告不適格と言うのだが、要するに、具体的な損害や迷惑をこうむったわけでもないのに、無闇に訴訟を起こすべきではないということだ。
どうして唐突にこのようなことを思い出したかと言うと、日本語が乱れている、と考える人が多いのは今に始まったことではないが、さてそれでは、そうした問題提起がなされるようになったのは具体的にいつ頃からなのか、と疑問に思ったからである。
驚くなかれ……いや、調べた当人すなわち私自身が驚かされたのだが、なんと平安時代までさかのぼるのだ。
清少納言が『枕草子』の中で、
「この頃さあ、男も女も、言葉遣いが少しおかしくね?」(現代語訳・林信吾)
みたいなことを書いている。
いや、真面目な話、彼女がやり玉に挙げたのは、これも今風に言うとだが「と抜き言葉」であった。「言わんとす」と表現しなければならないところを「言わんずる」にしてしまう人が増えていて、それも会話だけならまだしも手紙文にまで散見されるのは「言うべきにもあらず」だとか。要するに、論外だと斬り捨てているのである。
しかしながら、よく考えてみると、これは驚くに値しないことかも知れない。
この連載でも以前に触れたことがあるが、現代日本の若い女性が平安時代にタイムスリップしたとして、清少納言の同時代人である紫式部と「恋バナ」ができるかと言われれば、無理だと考えられる。清少納言と文学論を闘わせるのも同様だろう。
日本語が別物になっているから、というのが理由だが、たしかに前述の「と抜き言葉」にせよ、現代の日本では、古典文学に精通した人でもない限り、なにが問題なのかさえ容易に理解できないのではないだろうか。かく言う私自身、今回この記事を書いたことで『枕草子』をきちんと読んでいなかったことが明るみに出てしまったが笑。
しかし一方では、日本語が変遷を続ける中にあっても、やはり正しい言い回しの方が生き残って行くのかな、という風にも思えた。現代の日本語メディアでも、
「私の言わんとするところは……」
という表現はいくらでも目にするが、
「言わんずるところは」
などと発言もしくは表記する人など、まずいないだろう。
これまた、どうしてこのようなことを考えたかと言うと、現在の「ら抜き言葉」は、いつ頃から問題視されるようになったのか、と疑問に思ったからである。
こちらも、どうやら昭和の時代には、すでに問題視されていたらしい。らしい、というのは、私は昭和の終わり頃から平成の初めにかけて日本を離れて生活していた上に、現在のようなネット社会でもなかったので、日本の言論状況をリアルタイムで知ることなどできない相談であったからだ。
ただ、またまた個人的な思い出話になってしまうが、昭和の東京の小学生などは、
「見られる→見れる」「食べられる→食べれる」
などの「ら抜き言葉」を日常的に使っていたし、それで大人から注意されるようなこともなかったように思う。真面目な話、これは東京方言なのかと思っていたくらいだ。今ではWordでこうした表記を打ち込むと「ら抜き表現」などと自動的に注意喚起される。会話はまだしも文章化はよろしくない、という感覚も、平安時代から連綿と受け継がれてきているのだろうか。
昭和の時代にはまた、驚いたという意味で「あせった」と言う子供が多かった。今も伝承されているのかどうかまでは分からないが、これはどうやら「焦った」の誤用ではなく「冷や汗をかいた」という表現が「汗った」に転じたものらしい。
そうであれば、これは決して日本語に特有の現象ではない。ロンドンで暮らしていた頃、バスに乗る順番を譲ってあげたり、ちょっとした事で「タオッ」と礼を言われるので、そんな英語表現があるのかと不思議に思っていたのだが、これは「TAO=Thanks a lotの略」なのであった。
早い話が、略語とか便利な言い回しは、必ず人口に膾炙するものであり、日本語も英語も、乱れているのではなく不断に変わっているに過ぎないのだ。
実際問題として、言語学者の中にも「ら抜き言葉」には定着するだけの理由がある、と考える人が少なからずいると聞く。理由は前述のように便利だからで、たとえば「Mi Ra Re Ru」のようにラ行が続くと発音しにくいが、この点「ら抜き」だと、そうした問題が生じない。
比較的最近の例では「全然いいですよ」という言い方にひっかかった。これはどう考えても、日本語として成立しないだろう。
……と思っていたのだが、数年前、こんなことがあった。
写真)板野友美(2013年)
出典)Photo by Sports Nippon/Getty Images
AKBが東日本大震災の被災地で「復興応援ライブ」を続けているのだが、当時まだメンバーだった板野友美が、後輩たちを従えてステージから降りてきたところへ、一人の年配の婦人が近寄ってきた。
「孫があなたたちのファンだったのですが、津波で亡くなってしまいました。すぐそこの仮設(住宅)なのですが、お線香をあげてやっていただくわけに行かないでしょうか」
と言う。これを聞いた板野友美は、
「あ、全然いいですよ。みんな行こ」
と応じた。そして本当に、皆が仏壇の前に正座して合掌瞑目する場面が放送された。
これなら、本当に全然いいですよ、と思ったのはおそらく、いや、希望的観測だが、私一人ではないだろう。
もちろん、異なる感想を抱いた人も少なからずおられよう。震災遺族であるところの高齢者に対して、そんな口のきき方はないだろう、というように。
これなど、ネットのコメント欄あたりなら、
「美人はなにをしても許されるのだ」
で済ましてしまうところなのだが、大手の電子メディアでもって、今時こうした発言には十分注意しないといけない。
その話は、次回。
トップ写真)清少納言 絵本「美人絵づくし」より 1683年頃。画家・菱川師宣。
出典)Photo by Heritage Art/Heritage Images via Getty Images