日本製鉄の変身にその将来を見る

福澤善文(コンサルタント/元早稲田大学講師)
「福澤善文の考えるためのヒント」
【まとめ】
・日本製鉄は、中国の宝山製鉄所建設など、長年にわたり中国の鉄鋼業の近代化を支援。
・しかし、日本製鉄は宝山鋼鉄との合弁から撤退し中国に別れを告げた。
・現在日本製鉄はUSスチールの買収を試み、米国市場への積極的な進出を図っている。
日本製鉄のUSスチール統合案は、石破・トランプ会談で合併ではなく投資へとの方向づけが示されたかに見えたが、未だ結論は出ていない。
日本の近代製鉄業はドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ (GHH)社の設計、技術指導により、1901年に稼働開始した官営八幡製鐵所にまでさかのぼる。同製鐵所を中心に他製鐵所が統合して1934年に日本製鐵が発足した。戦後の財閥解体で国策会社の日本製鐵は、八幡製鐵、富士製鐵、日鐵汽船、播磨耐火煉瓦へと分割され、その中の八幡製鐵、富士製鐵が1970年に合併して誕生したのが新日鐵(現日本製鉄)である。
かつてはUSスチールの背中を追いかけて発展してきた新日鐵だったが、1970年代には当時世界最大の粗鋼生産を誇るUSスチールと同レベルの高品質の製品を製造できるライバル企業となった。因みに1973年の粗鋼生産世界ランキングでは一位が新日鐵(39百万トン)、それにUSスチール(31百万トン)が続いた。
1966年8月5日に着工し、7年の歳月をかけて1973年4月4日に完成したが、残念ながら2001年9月11日に破壊された米国ニューヨークのワールドトレードセンターの建設に際し、日本製の鉄鋼が使われていたことはあまり知られていない。このことは政治的な配慮から、ずっと伏せられていたが、WTCの9階から110階までの建設に使用された高張力鋼材―当時は、その製造に最先端の技術を要した最高品質の鋼材―4万3千トンは米国製ではなく八幡製鐵の技術の粋を結集した日本製の鉄鋼製品だったのだ。
この鋼材の取引に携わった三井物産の元役員の手記記事(1978年7月21日、日本経済新聞)によれば、そのスキームは当時の八幡製鐵が鋼材を生産し、三井物産がそれをシアトルのPacific Car and Foundry社へ輸出し、同社がそれを半加工し、Port Authority of NYヘ仕向けるというものだった。そもそもUS スチールとベスレヘムスチールしかこの特殊鋼材を生産できないと思われていた当時、八幡製鐵にも製造能力があり、しかも低コストで生産可能ということで日本製が採用されたそうだ。
このことをJapan Forwardに書いたところ、米国の読者から直接筆者にコメントがあった。この読者は以前ウォルトディズニー社で、ディズニーワールドの建設に携わったことがあり、当時、40メーターの長さのモノレールビーム(モノレール軌道桁)を運ぶ必要があり、八幡製鐵が製造した鋼材を加工したものを西海岸から東海岸へ運ぶノウハウについて、Port Authority of NYに教えを請いに行ったことを同記事を読んで思い出したとのことであった。ワールドトレードセンター建設のために、日本製の長い鉄鋼の半加工品を米国西海岸から東海岸へ輸送した方法は、かなり特殊だったそうだ。
ワールドトレードセンター完成とほぼ同時期に日本は中国との国交回復を経て、1977年に日本は中国から大型一貫製鉄所建設の協力要請を受けた。新日鐵は先頭に立って、製鉄所建設の基本的なノウハウから新技術まで手取り足取り伝授していった。そして、1978年に上海郊外の宝山製鉄所建設が始まり、1985年に 第一高炉が完成した。その後の第二期、第三期と製鉄所の規模が拡大していった後も、設備の建設はもちろん、技術の移転、人材研修などに新日鐵は惜しまぬ協力を中国側へ提供した。当時は、政府、企業が官民挙げて中国を援助しようという風潮の時代であった。
筆者の所属していた銀行でも1979年から毎年1回、中国政府から要人を招いて、中国セミナーを行った。3週間の間に日本の産業に関するセクター毎の講義、工場見学、京都・奈良観光など至れり尽くせりのセミナーだった。筆者は、このセミナーで数々の工場見学に同行したが、新日鐵の君津工場へ同行した時の参加者の驚いた顔は忘れられない。このセミナーは1999年まで20年続き、当初は人民服姿だった参加者も年を追うごとにスーツ姿に変わっていった。
かつて米国のナショナリズムを懸念し、日本という名を伏せて米国市場へ切り込んでいった新日鐵は、他方では日中経済協力の先頭に立ち、製鉄技術を移転するなど中国の製鉄業の発展を後押しした。その結果、1970年代半ばの粗鋼生産量が年間25百万トン程度であった上海宝山鋼鉄は、他の製鐵所との合併を繰り返して巨大化し、宝武鋼鉄集団となった。2023年の粗鋼生産量は130.8 百万ドンと世界一の規模に拡大し、いまや日本の製鉄会社の競争相手となっている。
日本製鉄は新日鐵時代から半世紀にわたる中国鉄鋼業の近代化支援を十二分に尽くし終えた。今、日本製鉄は宝武鋼鉄集団傘下の宝山鋼鉄との合弁から撤退し、中国に別れを告げた。一方で同社は、かつてとは違い、USスチール買収提案に見られるように、名を伏せるのではなく、真正面から大胆に米国へ切り込むという攻めの経営へと変わってきている。結果はどうあれ、この日本製鉄の変身は今後の同社の展開に大きな期待を持たせてくれるものだ。
トップ写真:日本製鉄株式会社東日本製鉄所(2025年1月7日千葉県君津市)
出典:Photo by Tomohiro Ohsumi/Getty Images
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この記事を書いた人
福澤善文コンサルタント/元早稲田大学講師
1976 年 慶應義塾大学卒、MBA取得(米国コロンビア大学院)。日本興業銀行ではニューヨーク支店、プロジェクトエンジニアリング部、中南米駐在員事務所などを経て、米州開発銀行に出向。その後、日本興業銀行外国為替部参事や三井物産戦略研究所海外情報室長、ロッテホールディングス戦略開発部長、ロッテ免税店JAPAN取締役などを歴任。現在はコンサルタント/アナリストとして活躍中。
過去に東京都立短期大学講師、米国ボストン大学客員教授、早稲田大学政治経済学部講師なども務める。著書は『重要性を増すパナマ運河』、『エンロン問題とアメリカ経済』をはじめ英文著書『Japanese Peculiarity depicted in‘Lost in Translation’』、『Looking Ahead』など多数。
