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.社会  投稿日:2022/6/16

「石原慎太郎さんとの私的な思い出(特別編)お別れ会」続:身捨つるほどの祖国はありや 19


牛島信(弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・6月9日渋谷セルリアンタワーにて石原さんのお別れ会が開かれた。

・天皇陛下に詳しい賀屋興宣は、石原さんを政治家であり芸術家だったと思っていた。

・確かに、石原さんは情念の人だった。

 

石原慎太郎さんのお別れの会があった。見城徹さんのお世話で出席することができた。

実は、4月のなかごろだったか、4月29日に予定していた石原慎太郎さんのお別れの会が延期になってしまって済まない、とのご連絡をいただいていたのだ。そのときにいろいろと詳しい事情をうかがったが、最後に、とにかく日にちが決まれば連絡するから、ということだった。

それが6月9日、木曜日になったというわけである。

6月9日。場所は渋谷のセルリアンタワーと招待状にあった。

車で会場に向かいながら、心が沈んでいた。胸塞ぐ思いとはこういうことなのかと感じ続けていた。動悸がするわけではないが、心臓の鼓動が気になるのだ。興奮しているのをネガティブにいうとこういう状態のことになるのかと思っていた。

お別れの会があったからといって、既に4か月も前に亡くなられているのだ。なにが変わるわけではない。そう思ってみても、やはり、いよいよ石原さんの死を正式に、客観的に受け止めなければならない状況に我が身を置くのかと突きつけられると、感慨を催さないではいられない。

あんなこともあった、こんなこともあった、結局は申し訳ないことだった、という考えがどう同巡りするばかりだ。

ホテルに着いて地下2階へ降りてゆくと、予想通りたくさんの人がいた。若い方は多かったのか、私はまわりのことはどうでも良い思いだったせいか、おぼえていない。幻冬舎の森下さんに会った。元都知事の猪瀬さんとも挨拶を交わした。

式場の前に、岡本太郎デザインの椅子が二客、赤と白、が置かれている。ご自宅におかれていた椅子で、石原さんご自身が座っている姿を写真で見たことがある。お釈迦様が片手をすぼめて差し出したようなその手のひらに、すっぽりとお尻がはまり、右腕を親指の部分、背中をそのほかの4本の指の部分にゆだねるような格好をしている。

ああ、あれだ、とすぐにわかった。で、石原さんが座っていたように座ってみようかと誘惑された。どこにも、腰かけないようにという指示はない。しかし、たくさんの人がいる。私が座れば、何人もが座るかもしれない。傷つけてしまっては申し訳ないという思いが、しばし眺めるだけにとどまらせた。

誘導どおりに歩いて行くと、石原さんの描いた絵が何枚も飾られている。へえ、はたで思っているよりも、石原さんは画業に真剣だったようだ。アトリエが再現されている。ああ、これが「とても広い家でしたが、父の書斎、アトリエ、書庫、サロンなど、ほとんどは父だけの為の空間が占めていました。」(石原延啓『父は最後まで「我」を貫いた』 月刊文藝春秋2022年4月号103頁)のアトリエにあった椅子や絵の具入れなのか、と得心する。

次には、見上げるような場所に自宅の大きな映像が映って動いている。なんとも豪華な入口の階段、写真で見慣れた鏡張りのカップの棚、書斎、奥様の寝室などがつぎつぎと目に入って来る。

しばらく突っ立ったまま、その豪邸を眺めていた。もちろん、窓の向こうには相模湾の海が広がっている。奥様の寝室は広く、そこからも海が望まれ、幼かった子どもたちのベッドが置かれたと解説文があった。

さらに進むと、この会のために造ったとおぼしき巨大な壁一面に、これまでの著作の表紙が並べ飾られている。ざっと数えてみて、あそこからあそこで50、すると全部で500くらいにはなるのか、と、少し驚く。

そういえば、「俺は叩き上げだよ」という石原さんの言葉を思い出す。あの豪勢な自宅、ヨット、はすべて自分の身体一つで勝ち得てきたのだなあと改めて思う。

ふっと、政治には金が要る、と言われ、血を滴らせるようにして原稿用紙の升目に文字を埋めて作った金を子分に渡すと、あっという間もなく銀座のクラブのツケの払いに消えてしまった、とあった一文を思い出す。ああ、石原さん、大変でしたね、といまさらのように苦労されましたね、という思いが湧く。

いよいよ会場に入る。白い花々が下半分、青い花々が上半分。海だな、と誰もが思う。右と左にヨットの帆。中央に石原さんの写真が、灰色の簡素な額にはいっている。ほんの少し微笑んでいるだろうか。こちら側に向かって語りかけでもしそうな表情だ。

誰が選んだのか。遺族だろう。

私には、ほんの少しの違和感があった。石原さんには、もっと力強さを感じさせる写真の方がふさわしい気がしたからだ。いや、それも最後をしらない、遠くから眺めているだけの人間の、身勝手な思いなのだろう。

写真の置かれた場所は、ほんの数か月前、私自身が東京広島県人会の会長として、700人もの参加者に挨拶をしていたところそのものだった。石原さんの顔のあたりにマイクが立っていた気がする。

単なる偶然のことだろうが、他の場所の話もあったと見城さんに聞いていたから、やはりなにかの縁ということになるのだろうか。

それこそ700人を超える数の人々が、最前列まで進んで、渡された白い花を手向けるべく、立って待っている。少しずつ、少しずつ列が進む。花一輪を手向け終わった横一列の人々が、左にさっと動いて、ほんの少し前にでることになる。

私の右斜め前には、車いすの方がいる。直ぐ前の、もう若くはない男女一組、が小さくもない声でしゃべりあっている。断片的な中身から、どうやら出版関係の人らしいなとわかる。

待つこと10分、いや15分、私も最前列の一員になった。横一線に30人はいのるだろうか。

目の前の光景を目にして、私は思わず石原さんに話しかけていた。声には出さない。

「石原さん、こんなことになっていますよ。これって、他の人ならともかく、石原さんだと、ちょっと違うなあって気がしちゃいますよ。」

先ず目に入ったのが、黒と白の水引のようなものがくるっとまん丸くなった祭粢料の袋である。天皇陛下とある。以前にもどなたかの葬儀で見たことがある。

そのすぐ右に、額縁に入った勲章についての賞状額がある。明仁と、くっきりと署名がされている。旭日大綬章である。平成27年とあった。安倍晋三首相の署名もある。さらに向こうには、その勲章そのものが鎮座している様子だった。しかし、そこまで歩いて行って確認するわけにはいかない。

祭粢料に戻って左を見ると、「従三位」とあって、岸田総理が署名している。

「石原さん、なんだか、凄いことになっていますね。あの石原さんはどこにいらっしゃるのでしょうか」と、話しかけたくなってしまった。

それが、石原慎太郎という人物の成し遂げたところのものだと、日本という国家が認めたと言うことなのかと理解はしても、やはりなんだか違うという気が抜けない。たぶん、それ以上のなにかだと信じているからだろう。

私がそう思う理由は、石原さんとこんな話もしたことがあったからなのだ。

或る時、二人だけの時、石原さんは私に向かって、「天皇は、ここに上陸しろ、あそこを攻撃しろ、と具体的な戦争指揮を積極的していたんだよ」と真顔で言ったことがある。

あのとき、どうして石原さんと天皇の話になったのだったか。東京裁判が一方的な戦勝国の報復に過ぎないという議論がきっかけだったろうか。

石原さんは、そのときに、東京裁判を下駄ばきで見に行ったら、アメリカの憲兵に音がうるさいから下駄を脱げと命じられた話をしてくれた。確か、仕方がないので裸足になって、下駄はふところに入れたと聞いた気がする。ふところだなんて、石原さんは浴衣でも着て行っていたのだろうか。そういえば、暑い時だったということだった。

石原さんの天皇の戦争指揮の話は、頭に鮮烈な記憶として残った。なにしろ、私はそれまで、江藤淳の説明する、立憲君主として戦争開始に反対することは許されず、他方、戦争終結のときには立憲君主制が機能しなくなっていたから、やむを得ず、「聖断」を下して、日本を終戦に導いたという歴史解釈に乗っていた。だから、天皇が具体的な戦争指揮をしたといわれても、にわかには納得しがたい気がした。

しかし、大下英治氏の『石原慎太郎伝』(エムディーエヌコーポレーション2022年刊 57頁)には、石原さんが、「例によって緊張したときの癖である目を瞬かせながら、私にまるで矢でも射るかのように訊いてきた。」とあるすぐ後に、「日本人は、なぜこのように自ら責任を取ることのない、だらしない民族になり下がってしまったと思う」と大下氏に問いかける場面が出てくる。

問われた大下さんは、「さあ・・・」としか答えられず、「返答する言葉を探していた。」すると石原さんは、大下氏に対して、「返答を待つというより、余程口にしたかったように、激しい口調になった。」こう言ったというのだ。

「最も国家に責任を持つべき天皇陛下が、昭和二〇年(1945年)八月一五日の太平洋先生の敗戦の日に、自ら切腹して果てなかったからだよ」と言ったという。(57頁)

石原さんは、大下氏に対して「私の生前は困るが、私が死んだ後には書いて大丈夫だ」と公表する許可を出していたともいう。(58頁)

武人ではない天皇陛下に割腹自殺を求めるのはないものねだりだと、今の私は思う。むしろ、アメリカに対して沖縄の永久占領を望んだという説の方が説得力がありそうな気がしている。武力を持たない公家である天皇にとっては、陸軍が頼りにならないとわかれば、次にすがるべきがアメリカであるのは、そう不思議な発想ではないと言われたことがあるからだ。

私は、石原さんに言われてから、天皇があの大戦にどう関与したのかを調べてみたことがある。その結果わかったのは、天皇もまた和平も求めながらも、一撃後にしか講和はあり得ないと考えていたらしいという事実であった。

しかし、石原さんの言い方は、私に対しては決して「激しい口調」ではなかったものの、長い間考え続けて来た、間違いのない結論を繰り返しているという調子があった。それは、決して一撃講話論の範疇に収まるような話しぶりではなかった。

石原さんのような履歴の方であれば、そうした昭和天皇の言動について知る機会も多かったのだろう、と思う。

ここでも、私は賀屋興宣を思い出す。戦争当時の大蔵大臣であり、「こんな国が、あんなアメリカやイギリス相手に三年間も戦争出来たのは私の財政のお陰ですよ」(石原慎太郎 『私の好きな日本人』183頁)という人である。

賀屋さんなら、いろいろなことを知っていて、石原さんに教えた可能性が大いにある

賀屋興宣という人は、凄い人である。

「負けたんだから、殴られ役が要るさ」と、いとも簡単なことのように東京裁判での我が身を位置づけ、自分の巣鴨の10年を合理化できる明晰さは、尊敬に値する。なにしろ、「私の生涯のうちで、巣鴨服役中が一番心境が澄みわたって整って、人間的に良い生活であったと私は考えている。」と自伝で述べるほどなのだ。(181頁)

もちろん、賀屋興宣は東京裁判を認めているわけではない。

東條対キーナン検事の対決は、東條の完全勝利だったと評している人なのだ。所詮、人の世というのはそうしたものという、一種悟りに似た凄みのある人なのだ。

その彼が、B、C級戦犯の救済に獄中から走り回ったという事実は、エリートという立場にある人間の行動として、まことに考えさせるものがある

「大体私は芸術とか学問に打ち込める人間ならそれが一番いいと思うんですよ。ところがどうも無能で、その方はどうもとても駄目ですからやっぱり政治的とかいろんな社会的なことに対するお世話でもして、多少でも世のためになることをするということを考えることが一番いいんじゃないかと、こう思っているんです」

たぶん、いや間違いなく、そう信じていたのだ。

そういう賀屋興宣にとって、石原さんは、政治家だったのだろうか、芸術家だったのだろうか

両方を兼ねた稀有な人物と思っていたのだろう。選挙区を譲る話まであったというのだ。内外の人脈も引き継いだという。大いに政治家石原慎太郎に期待していたのだろう。

しかし、芸術家石原慎太郎が邪魔をした。政治家としての石原さんは、旭日大綬章、勲一等だから大した働きをしたことは間違いないのだが、しかし、それは石原さんにとって、やはり一部でしかない。歴史には、政治家石原慎太郎は大した存在感を持っていない。だが芸術家石原慎太郎は、これから評価される。政治家、有名人としての石原慎太郎が輝いている間は難しい。時間がかかる。しかし、そういう時がかならずやってくる。

帰りの高速は早かった。私は12時からの事務所の会食にゆうに間に合うことができた。お別れの会にでたままの服装で、私はすぐに会食に臨んだ。黒っぽい背広とオレンジ色のネクタイである。

お別れの会では、何回か折り畳んだ小ぶりのパンフレットのようなものをくれた。ヨットに乗った、上半身裸で船長らしき帽子をかぶった石原さんの写真が表紙になっている。私はこの表紙で、慎太郎が本当は愼太郎と書くのだと初めて知った。考えて見たら1932年、昭和7年生まれなのだ、当たり前のことに過ぎない。

その日の夜、その日になすべきことがすべて終わった後、私はそれを手に取って見直した。

裏表紙に、「辞世」として「灯台よ、汝が告げる言葉は何ぞ 我が情熱は誤りていしや」とあった

情熱、という言葉に、私は石原さんの声がよみがえってきた気がした。

石原さんが、「牛島さん、小説は情念なんだよ」と励ましてくれたことがあったからだ

情熱。情念。

確かに、石原慎太郎さんは情念の人であった

(つづく)




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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