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.社会  投稿日:2024/1/12

平成28年の年賀状「団塊の世代の物語(1)」


牛島信弁護士・小説家・元検事)

六十六歳になりました。もはや還暦は昔の出来事です。

 私は、毎日々々元気に働き、大いに食べ、動き回っています。

 四年前の六月二十七日、深夜テレビで『ガンジー』という映画に出逢いました。以来、イギリスとインドの関係、さらには広く先進国と新興国の過去と未来が気になってなりません。もちろん、後から追いついた先進国、日本に生まれ育ったからです。

 すると不思議、四十三年前の四月十七日に江藤淳の『夜の紅茶』という本を買って以来、長きにわたって馥郁たる香りで私を楽しませてくれていた紅茶が、新たにイギリスと中国とインドの三角貿易の主役の衣装をまとって目の前に現れました。

 毎夜々々のこと。いかなるゆえにわが心が悩むのか、わけもわからないままに焦りがこの胸を焼きます。

 ふと気づくと、熱い自分の隣に冷ややかに立って眺めている男がもう一人います。

 はてさて。

 皆さまの今年のご多幸をお祈りいたします。

つい最近、NHK地上波でガンジー、キング、ベニグノ・アキノ、そしてアウン・サン・スー・チーの非暴力の系譜を『映像の世紀 バタフライ・エフェクト』という番組で観た。

そのなかで、殺されてしまったアキノ氏が、1982年に封切りとなった映画『ガンジー』を3回観た、それによって非暴力の戦いを鼓舞されたのだという事実を知った。

アキノ氏についは、その友人だったという石原慎太郎さんの本で、本気でアキノ氏とゲリラとして戦おうと話しっていたということを読んでいたので、映画の力を改めて知らされる思いだった。石原さんは帰国に反対していたとも書いている。

たった一発の銃弾が人の、国の運命を変えることがある。しかし、フィリピンの民衆はフェルディナンド・マルコス大統領を許さなかった。

時が過ぎ、そのフィリピンの現在の大統領は子息であるボンボン・マルコスである。母親はもちろんイメルダ・マルコスである。毀誉褒貶はあるが、美しい女性として知られている。花の女王と呼ぶことができるだろうか。

「イギリスとインドの関係、さらには広く先進国と後進国の過去と未来」については、『綿の帝国』という800頁を超す分厚い本を読んだ。その次には、これまた分厚い秋田茂氏の『イギリス帝国の盛衰』(幻冬舎新書)を読んだ。

私は、綿の種について初めて知り、綿繰り機の構造を調べ、またなぜランカシャー地方で産業革命が起きたのかも学びなおした。それどころか、産業革命という言い方は、それが革命であったと称する点においてもはや大方の支持を得ていないとも教えられた。

読書が趣味となって久しい。もっとも読書が趣味というのもおかしな話だとは思う。モームのように、本がないときには時刻表でも読んでいたいというのであればともかく、或る本を読み通すかどうかは中身次第なのだから、本一般を読むことが趣味なわけではないことは確かだからだ。

なんにせよ、小学生のころから読書癖はあったろうと思う。中学時代には、友人と活字中毒の程度を競っていた。

「いかなるゆえにわが心が悩むのか、わけもわからないままに焦りがこの胸を焼きます。」

ヴェルレーヌの詩、『都に雨の降るごとく』の意訳である。鈴木信一郎と堀口大学の翻訳の二種類があり、私が鈴木信一郎派であるのは昔『あの男の』(幻冬舎文庫)という小説に書いたことがある。胸を焼かれる思いの理由を知らないのが「悩みのうちの悩みなれ」と鈴木信太郎によって訳されている。男と女のさりげないやり取りの一部である。

「ふと気づくと、熱い自分の隣に冷ややかに立って眺めている男がもう一人います。」

この男はいつもいたのだろう。「もう一人」の自分を見ている自分。誰にでもいるのではないか。

私のなかの二人。一人は熱く、もう一人は冷ややか。仕事に精を出して金を稼ぐ一人。暮らしを立てるためである。もう一人は黙って深夜の書斎で文章を綴る。

覚えている、66歳になった年の1月だった。だから2016年のこと。

私は、突然に健康に不安を覚え、高校生以来となる定期的な運動をする決心をしたのだ。

実行したのは連休明けだったが、それが2024年の今も続いている。8年になるということだ。週に一日だったのがコロナのおかげで週に二日になって今に至っている。健康の秘訣である。

『団塊の世代の物語(1)』

小学校の同窓会だった。卒業して62年も経ってから、初めてのクラスの同窓会があった。それだけでも驚くべきニュースだが、64人いたクラスの9割近くは未だ生きているようだという。もっとも誰も正確に分かっているわけではない。連絡がとれない人も何人かいるらしい。女性だけでみれば9割を超える人数が生きていると聞いた。1947年から1949年までの3年間の団塊の世代の最後の年。3年間全部で800万人の団塊の世代の赤ん坊が生まれ、そのうち600万人がいま生きている。

私の卒業した小学校は広島市立の幟町小学校という。広島の中心部にあるから、東京でいえば千代田区の番町小学校といったところか。昔、東大に入るなら番町小学校、麹町中学、そして日比谷高校と言われていた時代があった。あの番町小学校である。

私たちのクラス会が盛況だったことになんの不思議もありはしない。1949年生まれを中心とした子どもたちは団塊の世代の最後である。広島の団塊の世代は、意外なほどに広島に住んでいる者が多い。大学は広島以外の地、たとえば東京であったり京都であったりに行ってはいても、その後になると当たりまえのように広島に戻ってきたのだ。定年になるまで全国に散っていても、最後には広島に戻ってくるのだ。

中学を卒業したのが1964年、東京オリンピックの年代なのだ。高度成長が始まって4年。明日は今日よりも良い日であるのはあたりまえの時代だった。

広島はそれなりに大きな街で、就職先としても広島県庁があり、広島銀行があり、さらに三菱重工の造船所があったうえに、なによりもマツダの本社もあった。

だから広島の娘たちは広島に住み続け、年ごろになると広島の青年たちと結ばれ、子どもをつくり、もちろん広島に住みつづける。県外の大学に行って広島に戻ってきた男たちは、卒業したとたんに広島の男にいとも簡単に脱皮して広島の女性と結ばれる。原色好みで派手な装いの好きな広島の女の子たちは、大都会の空気を吸って大人になったつもりの若い男たちにはとても魅力的だったのだろう。広島男と広島女が結ばれるべくして結ばれたのだ。

そうした広島に住みつづけている連中は、子どものころと同じに毎日のように会って、おしゃべりに夢中になり、同じ明日を迎える。要するに明日が2万回あったということにすぎないのだ。

広島で一番のリーガロイヤルホテルの頃合いの部屋を借りての立食パーティだった。受付役の二人の女性に64人のうち30人が集まったと教えられた。死んでしまった者は未だほとんどいない。たぶん分母は60を切っていないとのこと。遠くから参加したのは、東京で弁護士をしている私だけだという。未だまだ現役の弁護士でまったく暇な日常ではないのだが、なんの前触れもなく突然とどいたメールに、ぜひ参加しようという思いがその場で湧きあがった。

たぶん、あの花の女王のことがどこか頭にあったのだと思う。

会場のリーガロイヤルホテルも私には懐かしいホテルだ。未だ両親が広島に住んでいたころ、なんども家族連れで泊まったことがあった。それももう二、三十年もむかしのことになる。

広島には、或る縁があって鞆の浦の住民協議会のお手伝いをして毎月のようにまる一年通っていたこともある。10年ほど以前のことになる。そのときにはいつも姉のマンションに泊めてもらっていた。夜に着いて朝には出てしまう。そんな広島への忙しい往復だった。

「よう来ちゃったねえ。大木君、おひさしぶりじゃねえ。あんたあ、ちっとも変っとらんじゃないの」

受付を済ませ、30人、そのうち25人は女性たちのなかで、入り口近くのテーブルにぼーっと一人立っていた私をみつけ、そう声をかけてくれたのが二つ奥のテーブルにいた彼女だった。

私はノンアルコールビールのグラスを右手につかみなおすと彼女のいるテーブルに近寄り、軽く頭を下げて挨拶をした。彼女の手には飲みかけのシャンパングラスがあった。

「あなたは少しも変わらないね。驚いたな。」

もうここ2年はアルコールと縁がない身になっている。べつだん医者に止められたわけではない。ただ、酔っている状態がだんだんと生理的に嫌になったのだ。酔うと眠くなる。眠ると時間が過ぎる。残された時間を意識し始めた身にはアルコール嫌いはありがたい変化だ。

私の言葉は本音だった。彼女のテーブルに移るまでのあいだに、すこし脂肪のついた体形はさりげなくみてとっている。

「うちは、もうおばあちゃんじゃけん。それよりか、あんたよ。いったいなにをしとったらそうしてちーとも変わらんとおられるん?」

そう答えながら、手もとのシャンパンを飲みほしてみせた。

「子どもに子どもができれば、誰でもおばあちゃんと呼ばれるからね。でも、それは言葉のうえだけでのこと。中身はすこしもそうではない人もいる」

「そお。じゃ、まあそうしとこうか。ありがとう。」

微笑は少しも変わらない。

「でも、僕も自分じゃずいぶん身体がどこもかも弛んできたなとおもっているんだけどね。毎朝鏡をのぞくとそのたびに思いしらされる。最近は、あ、ここに、つまり鏡のなかに父親がいるなって感じることがおおいんだよ。僕は父親が35歳のときの子どもでね。だから74歳の父親にとって39歳の子どもだったのに、いまじゃこの僕が74歳だ」

「ううん、なに言うとるん、あんたはちっとも変わっとらんよ。」

「ま、大したこともしないでここまで来ちゃったからね」

私の口からは、なかなか広島弁がでてこない。

私たちのクラス、6年松組の花の女王がそこに立っていた。

おかしなクラスの呼称だった。松の次が竹、その次が梅、そして桜、藤、桃、椿と続く、1年上の学年などもう一クラスあって、杉組と呼ばれていた。

人は、身体にも顔にも歳を重ねたしるしが歴然としてはいても、瞳の輝きだけは決して歳をとらない。大きなバラの花がいくつもおどっているピンクとグリーンの太い横じまのワンピースに包まれている。足もとにはワインレッドのオープントウパンプスが輝き、アウトソール、靴の裏の真っ赤な色がときどきチラチラと目を引く。

問われもしないのに彼女は話し続けた。「うち、早うに亭主が死んじゃって生命保険がいっぱい入ったの。」

なんの屈託もない。今の生活の安定ぶりを自分からそう大声で説明してくれた。

私が子どものころ、いつも「花の女王」と呼ばれてクラスじゅうの憧れの的だった女の子。みなには岩本さんという姓で呼ばれていたが、親衛隊のようにいつも彼女のまわりを取り囲んでいた3,4人の女の子たちだけが「えーちゃん」と特別の呼び方で媚びることを許されていた。 

大阪でひと夏を過ごした彼女が広島にもどってきて大阪弁を使い始めると、取り巻きの少女たちも当然のように大阪弁を使うようになり、そのうちにまたすぐに広島弁に戻ったこともあった。

しかし私の頭のなかでは、クラスのなかでいつも華やかな雰囲気を漂わせて崇拝者に囲まれていた花の女王のイメージだった。

きれながの、ほんの少しだけつりあがりぎみの涼しげな目とその上の濃く長い三日月の形をした眉。周囲に未だ幼さを残した女の子たちがたくさんいるなかで、独り、成人した女性の雰囲気をただよわせていた。

私には近寄りがたい存在だったろうか?

いや、彼女には独特の笑顔があった。笑うと顔全体が微笑みとなってあふれだし、目の前の相手を包みこむような、それでいてどこかまだ幼児のようなあどけない表情になる。だから、いつもなにか口実をかまえては冗談を投げかけないではいられない女の子だった。私は口には自信があった。そんな少年だったのだ。

今、目のまえで自分のシャンパングラスをかかえて微笑んでいる笑顔は、小学生のころと少しも変わらない。私にはそう感じられる。

私には、彼女について特別の、鮮烈な記憶があった。

そうだった。もう中学の受験が終わったことのことだった。風邪をひいて熱をだして欠席していた私の自宅まで、同じクラスの女の子が学校のプリントを届けてくれたことがあった。あのとき、コンクリートの玄関のタタキにもう一人の女の子と二人立って、着ていたカーディガンの裾を強く下へ引っぱっていたときの子が岩本恵津子だった。強く下に引っぱっているので、まるい二つの山がうっすらと浮彫りになっていた。そんな小さな発見に12歳だった私はぎくりとしたのだ。

岩本さんの水色のカーディガンの胸側の部分が白色で表側のほとんどを占めるほど広い。その白い部分に7センチ角くらいのあずき色の格子縞が入っている。ずいぶんのちになってのこと、ムリーリョの「ベネラブレスの無原罪の御宿り」の絵の解説を読んだときに、あっ、とあの時の彼女を思い返したことがあった。聖母マリアのアトリビュート(象徴)、青色は天の真実、白は純潔、赤は神の慈愛だと色の説明書きがあったのだ。岩本さんのあのときのカーディガンはその色と一致していた、と。12,3歳のうら若き少女の姿に描かれているのだという。確かに彼女は12歳だった。

「ご亭主、お亡くなりになられていたの。保険金が入ったのはいいとしても、でも、大変だったね。おいくつで亡くなられたの?」

私は、飲みたくもないノンアルコールビールを口元へ運んでほんのすこしすすった。

「うーんと、45だったかな。小さな靴屋をやってたから、取引先の関係で義理で入った保険だったんだけどね、こんなにすぐに保険が役に立っちゃうなんて、って、悲しいような嬉しいような。」

「え?ご亭主が亡くなったんだろう。でも、まあ、生活があるからね。お金が入れば嬉しいよね。人生ってそんなものかもしれない」

私は、<彼女の亭主なら5歳年上として彼女は40くらいだったわけか。なんと若いこと。>と思った。口には出さなかった。しかし、40歳の彼女はどれほどの色香を周囲にまき散らしていたことだろうかと勝手に想像をした。満開になった花の女王。もちろん、真紅のバラだ。いや、彼女なら淡いピンクかもしれない。

そのころ自分はなにをしていたかな。ふっとそう自問してみた。

そうだった、私はバブルの時代の申し子のような弁護士として日本有数の金持ちたちの仕事をいくつも引き受けていた。麻布自動車の渡辺喜太郎氏との出会いもその一コマだった。

あるとき青山一丁目の交差点、ツインタワーの前の横断歩道で信号待ちしていると、突然目の前に黒に輝くベンツの1000というストレッチしたリムジンが停まったことがあった。私の事務所が未だツインタワーにあったころのことだ。へえ、ベンツにこんなストレッチしたのがあるのか、と思いながらみるともなく車の方を眺めていたら、運転手が車のドアを開ける間を惜しむようにして中から一人男が飛び出してくるや、ぼーっとつったっていた私のところに駆け寄ってくる。いきなり、「先生、お世話になっている渡辺です。」とひと言おおきな声で呼びかけられた。渡辺喜太郎氏だった。彼は「どうか、よろしくお願いします、先生」と繰り返すと、その場で私にたいして最敬礼をするや急いで車に戻っていった。

そんなことがあった。34年前のことになる。

或る土地をめぐるプロジェクトで私の依頼者の共同事業者になっていたのだった。

大したものだ、金のためなら弁護士でも街路樹の銀杏にでも頭をさげないではいられない性分、ってことか。それでこの男は巨富を築くのに成功したってわけだ。巨富の秘密をのぞき見たという気がしたものだった。

「うちの亭主、太っとったけえね、心配はしとったんよ。でもうちがなにを言うても聞かんのよ。健康診断を受けてくれってなんど頼んでも、わかったわかったでおしまい。私もまさか死んでしまうなんておもわないから。でも、夜中にうーっと叫んで両の手の平で心臓を押さえて苦しみだして、すぐよ。あっけないものね、人間なんて。」

「ふーん、心臓か。あっけなかったのか」

「うん、心臓。あっけないものよ、人間なんて。

子ども二人がおったけえねえ、正直、お金を残してくれてありがたかった。まだ中学と小学校だったんよ。もしあの保険がおりなかったら私の人生も子どもらの人生も、どうなっていたかわからん。ほんとに女房孝行のいい亭主だった。」

彼女にとっては、何十回も繰りかえした昔話なのだろう。もはやどこにも感情のたかぶりはうかがえなかった。

「お子さんは、いまは」

そう、儀式のようにたずねた。私には、花の女王にも子どもか、当たり前だな、というていどの思いしかなかった。いや、花の女王との話を続けるための方便以上のことではなかったかもしれない。

「うん、もうどっちも結婚して、どっちも子どもがおるわ」

「それでおばあちゃん、てわけだね。お孫さんか、いいね」

「なーんもええことなんかないよね。」

あとで藤友君のテーブルに行ったら、彼が声をひそめて教えてくれた。眼科の医者をしている。同じ中学を受験して合格し、小学校の卒業後も仲よしだった。その後も年賀状の付き合いが何十年も続いている間柄だ。

「岩本嬢、長いあいだ年上の女房もちと付きあっていてね。今でいう不倫だね。その相手っていうのは、それなりに広島では名の知れた企業のオーナー社長だったのさ。

広島興産っていう、ま、不動産のデベロッパーだな、名前のとおり、やり手だったよ。

その広島興産に学卒で入社したんだ、彼女。とってもきれいだった。光り輝いていた。愛嬌もよかったから入社して半年もしないうちに社長秘書っていうことになってしまった。」

「ふーん、そうなの。

でもさっき、彼女、亭主が死んだら多額の保険金が入ってきたから、嬉しい面もあったなんて言っていたよ。」

「それさ。子どもが二人いた。でも、彼女は大阪の大学を出てすぐ広島の実家に戻ってからその広島興産なる不動産会社に勤め始めて、ずっと辞めないでいた。

辞めたのはつい最近、その不動産会社のオーナー社長が死んでからさ。つい何年かまえのことだよ。」

藤友君は、医者になってから東京の公立病院で勤務医をしていたことがあった。その間になんどか話をしたこともあった。しかし、岩本さんのことに触れたことはなかった。

酒に酔ったのか、藤友君は私を壁際に並べられた椅子に誘い、さらに話し続けた。

「でも、オレが言うのもなんだが、彼女、とても不幸な人生だったようになんだ。あの調子の明るい面しか他人には見せない人だからね。誰もなんとも思わなかった。でも、オレは彼女に相談されて大阪の産婦人科の医者を紹介したことがある。」

「へえ、眼科の君に産婦人科の相談か」

「そうさ。広島の産婦人科では困るから、ってね。ま、大阪なら大学に通っていたから土地勘もあるし、ぜひ大阪の産婦人科のお医者さんに、って」

「で、紹介してあげたのか」

「うん。そりゃそうよね。同級生じゃけんね。

おっと、君、確か弁護士だよな。じゃあ秘密を守ってくれるよな」

弁護士だからと人生の秘事をあからさまに相談されることには慣れている。

「そうだよ、弁護士だよ。秘密をまもるのが仕事だ。」

「それで安心した。

こんなこと他では口にできないことだからね。

でも、もうオレたちも歳だから、いまのうちに言っておかないと話すチャンスがなくなってしまう。」

「闇から闇ってのも、便利といえば便利だぜ。」

私のいったことには反応せず、藤友君は大きく息を吸うと、ふーっと吐き出しながら、

「オレ自身、もう長くないんだ。腎臓の癌てやつは治癒しにくい。

誰かに洗いざらいぶちまけないままに死んでしまいたくない。」

「ふーん、そいつは大変だな。

でも、そんなものなのかな。」

「ああ、なにしろ岩本さんの一人目の子どもの父親はオレだからね。」

私は絶句した。目のまえの、みずから光を発しているかのように見事に禿げてしまっている頭と七面鳥のように垂れ下がった両の頬をもった旧友の、一生の秘密がいとも簡単に明かされたのだ。私が弁護士というだけの理由だった。

「彼女、一度結婚したのは事実なんだ。で、一人目の子どもができた。オレが父親だ。彼女とはいろいろあってね。

大阪の産婦人科の医者ってのは、二人目の子どもの出産についての相談だった。もう、そのときにはオレと彼女とは男女の関係はなくなっていて、ただの昔馴染みになっていたんだよ。さっぱりしたもんだよ、もともとが人に隠すことをしている関係だったからね、切れたって、それはそこさ。」

「ふーん。それで二人目の子どもを妊娠したからって君に相談か。眼科医の君にねえ。」

「眼科医には産婦人科の友人はたくさんいるさ。大阪でも東京でも、それこそ那覇でも札幌でもニューヨークでも。」

私からは、話の先をたずねない。人は、しゃべりたければしゃべるものだ。しゃべりたくなければ、仕事でもないのだ、聞く必要などない。でも、きっと話の先が出てくる。私はそう思いながら、席を立って自分のノンアルコールビールの瓶が未だ少し残ったまま立っているテーブルまで歩いて行って新しいグラスに注ぐと、それを抱えてまた元の椅子に戻った。

「二人目の子どもの親は、あんのじょう、会社の社長だった。オレと切れてからだけど、長かったみたいなんだ。」

「そりゃ、君みたいに格好いい男に捨てられたら、どうしたって次が欲しくなるさ。

でも、ご亭主がいたのにどうして。いや、それは個人の秘密だ。僕が質問すべきことじゃないな」

私が冗談まじりに軽口をたたくと、

「ま、そういうことだ。いろいろわけありでね。オレも昔はたっぷりと毛が生えとったし」

「いや、髪の毛の有無と男の魅力は関係ないだろう。現に、君が振ったんで彼女から切れようと言い出したわけじゃないんだろう。」

「自慢じゃないがね。

でも、オレも忙しくってさ」

「なにが?」

私は意味ありげに口を閉じたまま、唇の両端に力を入れて歯を見せずに笑ってみせた。

「いろいろあったのさ、74になるまでにはな。わかるだろう」

「さあて、弁護士だからね、そういう相談は多いがね。」

「ま、いい。

彼女のことだ。

オレが紹介した大阪の産婦人科の医院で生んだ子どもが二人目ってわけだ。

だから、死んだ亭主の子は、この世に一人もいない。不思議な夫婦だったな。

これって、どういうことになるんだい。岩本さんのこれからの運命さ。

オレがオマエと熱心に話しているのを彼女はさっきからチラチラ見ているだろう。

たぶん、オレが席を外したら、彼女、まだ席があたたかいうちにこの椅子に座りにくるぜ。」

しかし、藤友君が立ちあがるのと入れ替わりのように隣の席にやってきたのは薬局の娘だった高山嬢だった。現在の姓は知らない。まだ藤友君の温もりの残っている椅子にせかせかとお尻の半分だけのせて座った。

「ねえ、大木君。あんた弁護士なんじゃろ。教えてえや。うちの薬局の土地の相続で弟ともめとるんよ。」

「ほう、それは大変だ。わかった、ここに電話して。僕はとてもじゃないが忙しいけれど、うちの事務所の弁護士のなかから、適当な、できる弁護士をつけるから」

岩本さんは、私と旧姓高山嬢の話が終わるのを待ちかねたように、私の隣にやってきた。あいかわらず片手にブランディグラスを持って揺らしている。

それが、私の74年の長い人生の幸運の連続の最後のときになるとは、そのときには想像だにしなかった。

「藤友君から聞いたでしょ。うちの下の子は、広島興産の創業者の子どもなんよ。

私もその会社の株を9%持っとるんよ。

でも、私の話はその株のことだけじゃないの。その創業者の遺産分割が未だおわってないの。平和大通りに立派なビルを持ってる会社で、100億以上の価値があるって税理士さんは言ってるんよ。

あの会社、広島興産は峰夫と私が二人で大きくした会社なの。信じられんかもしれんけど、そう峰夫の遺言にちゃんと書いてある。

峰夫には種がなかったの。結婚してすぐから自分でわかってた。二人で検査を受けたんよ。そしたら、そう告げられた。それも遺言に書いてある。医者の診断書もあるんよ。

広島の弁護士に頼んどるんじゃけど、なんか信用できんのよ。」

彼女はその弁護士の名前をあげて、私に知っているかとたずねた。

もちろん、私は知らない。東京の弁護士でもほとんどは知らない。私の名を知らない弁護士は全国にいくらもいるだろうが、逆に私も全国の弁護士のほとんどを知りはしない。

「知らない先生だね。」

そう無関心を装って答えた。

「そりゃそうじゃろうね。

でも、私は私の子にあの会社を継がせたいの。

うちが9%の株を持っているってゆうたじゃろ。

だから、峰夫が死んだから、広島興産ていう会社は峰夫の一人切りの子ども、峰夫の戸籍上の一人切りの子のものになる。もう奥さんはおってないけえね。その人との間の子どもっていうことになっとるけど、血がつながってるはずはないの。悪い奥さんよね。私も人ことは言えんけど。峰夫の奥さんいうのはもう十年も前に亡くなっとるけえね。私が葬式一切を取りしきってあげたの。私、広島興産の専務じゃったしね」

峰夫というのが、亡くなった創業者の名のようだった。岩本さんはその会社の専務までやっていたらしい。

「ふーん。そうなの。でも、あなたの二人目の子どもが、その峰夫という男性、なに峰夫さんか存じ上げないけれど、その方の実の子どもだっていうのは、どうやって証明できるのかい。」

「いやじゃねえ、藤友君が話しとってくれたんじゃないの。あの人の知り合いの大阪にある産婦人科の医院で生んだんじゃけえ。」

「そう。でも、血縁関係がわかるのかい」

私は藤友君との会話には触れなかった。あぶない、あぶない。

「なんもかも、藤友君が持っとるんよ。

私の長男の実の父親なんじゃけえ、彼とっても心配してくれてるの。うち、藤友君にはいつも、なんでも相談するんよ。」

しかし、私の内心には自分がトラブルに巻き込まれる漠然とした予感があった。花の女王の遺産問題は、9%の株主としての地位を含め、私にとってただの法律問題では済まないかもしれない。

私は、いつもの答えを淡々と開陳した。

「僕の事務所には60人以上の弁護士がいる。スタッフを入れると100人を軽く超えるんだ。

僕は、もう自分ひとりで弁護士業務にたずさわることはしないことにしている。事務所の経営のほうに忙しいからね。弁護士として責任のある仕事をするには、誰かが、四六時中依頼された案件のことを考えていなくっちゃいけない。僕一人には物理的に不可能だ。

非上場の少数株についてなら専門家もいる。リーダーの弁護士のもと何人もの弁護士がそうした仕事に打ちこんでいる。非上場の会社の相続問題なら、いま現在この瞬間にも、うちの事務所の弁護士たちが全国で何件もの事件を抱えて裁判に取り組んでいるのさ。それぞれに責任者となる弁護士がいて担当し、没頭しているよ。どれも熱意にあふれた優れた弁護士さんたちだ」

しかし、その自ら扱わないという宣言の前に、私たちはスマホの番号を交換してしまっていた。こんな話になるとは夢にも思わなかったのだ。私は、広島の、62年前の小学校の同窓会に仕事を探しに来たわけではなかったのだ。

私の平穏な日々は破壊されてしまうのではないかという確信に似た不安を抱いて、翌日、機上の人になった。羽田に着くまでにきっとなにかが起こる。私の花の女王は、どんなに昔のこととはいえ、あれは私の人生のなかで一度限りの経験なのだ。

私の側には彼女にこだわらなくてはならない理由などなにもあるはずがなかった。第一、62年の間、会っても話してもいなかったのだ。しかし、と私は自分の心に湧きあがる強迫観念から逃げられなかった。もし彼女にこだわらないとすれば、自分の人生にどんな意味があったということになるのか。私は一時間を少し超える飛行機の中で、そのことばかりを考えていた。もちろん自らを滑稽と笑っていた。そのとおり。だが、74年間生きて来たが、そもそも人生は滑稽なものでしかあり得ないのではないか。

羽田に飛行機が無事着陸したとき、私は我と我が新しい運命に驚嘆していた。何が起きるにしても準備はできている。

そもそも、自分自身の相続がどうなるのかが問題なのだという意識は岩本さんにはない。しかし、保険金の受取自体がどうなるのか。そのときの契約と法律関係を調べてみないとわからない。

やがて彼女から私の主宰する法律事務所に連絡があって、私の生活は嵐に巻き込まれた。

嵐が過ぎ去るまでに、あと何年かかるのか。私と嵐とどちらが寿命が長いだろうか。今のところ解答はない。どちらも継続中だ。

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この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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