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.社会  投稿日:2024/3/13

「平成30年の年賀状」団塊の世代の物語(2)


牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・石原さんが亡くなって2年。誰も、もはや、石原慎太郎について語らなくなってしまった。

・「裕次郎の兄です」と自己紹介する石原さんには、複雑な心境があったのではないか。

・明日は今日よりも良い日になる、を疑ったことはない。だから、『団塊の世代の物語』を書く。

 

相変わらず1週間単位の生活を送っています。月曜日から4回眠ると金曜日になっていて、土日は走り過ぎます。すると次の月曜日です。月も四季もありません。照明とエアコンのある室内にいるかぎり朝夕すらもありません。

本を読むのが最大の愉しみです。深夜目が覚めては読み、休みには終日寝たり起きたりしながら読み続けます。なんでも読みます。過半を片端から忘れてしまいます。

書いてもいます。12月に『少数株主』という小説を幻冬舎から出していただきました。最初の本から20年で18冊目になります。

弁護士の仕事の緊張が、こうした生活を送る私の心を支えます。

ふと人生は繰り返しに過ぎず、終点はないのだと錯覚することがあります。もう直ぐ思い知らされるのだとわかってはいます。わかってはいても、といったところでしょうか。

未だ、昔を偲ぶ心境に至っていません。夢のなか、若いまま、なのです。

以上

「相変わらず1週間単位の生活を送っている」とある。それは今にいたるまで少しも変わっていない。

「書いてもいる。」そのとおり。これも同じことだ。

『少数株主』を出してからも、4冊も本を出した。

最新は『我が師 石原慎太郎』だ。去年の5月だった。

石原さんが亡くなって2年。人というものは、去るものは日々に疎しなのだという感をつくづくと深くする。あの石原さんにして、死してほんの2年。誰も、もはや、あの石原慎太郎についてほとんどなにも語らなくなってしまった。

私が石原さんに話したとおりだ。

初めてお会いした日のことだった。

「君の事務所、見せてくれよ」と初めて私の事務所にいらしたときのこと、食事をした近くの『シティ・クラブ・オブ・トーキョー』から歩いて数分の間、いっしょに横に並んで歩いていると道行く人々が振り返って見る。ことに横断歩道で立ち止まると信号待ちの人がみな石原さんを見上げていた。

事務所の部屋で、石原さんは、「三島さんは実に頭のいい人だったな」と私に向かってつぶやいた。しみじみとした調子、様子だった。その時、私は、「もう石原さんはどうやっても三島さんにかないませんよね」と言った。余計なことを口にした。

「なぜだ?」

石原さんはほんの少しむきになって質した。

「だって、三島由紀夫は四五歳で腹を切って死んじゃったでしょう。石原さんは六六歳まで生き延びてしまった。もうどうにもならないじゃないですか」

そう答えた私に、石原さんは、

「うるさい。死にたくなったら俺は頭から石油をかぶって死ぬよ」

と返した。

私は、石原さんの三島由紀夫に対する複雑な思いを想像していた。

かたや東大法学部を出て大蔵官僚になってみせ、あげくに作家になった男、石原さんは一橋大学に入って人気作家に躍り出たうえに政治家にもなって、そして辞めてしまった男。」(『我が師 石原慎太郎』幻冬舎 14頁)

この本を出してから、どうして私が石原さんの期待に添わなかったのかとよくきかれる。答はこの本のなかに書いているつもりだが、それでも、自分で自分に問いを繰り返すことがある。

なぜ?

もっと不思議なのは、そのくせ未だ書きつづけていることだ。

福田和也さんが石原さんについて書いている。(『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』河出書房新社 2023 86頁)

「もう一つ、石原さんを語る上で欠かせないのが、その高名さだ。

作家にして知識人、政治家であり、その上、裕次郎の兄である石原さんは、二十三歳でデビューして以来、初めて会う相手に自己紹介をする必要がなかったのではないだろうか。

自分は相手を知らないけれど、相手は自分を知っている。それだけ高名であることはアドバンテージであると同時に、重荷であったに違いない。

ボードレールが十九世紀半ばに喝破したように、現代は「群衆」の時代だ。

都市の街頭で名もない群衆の一人となる。群衆に埋没し、顔と名前のない存在になることで、人目を気にせず、流れに流され、ささやかな享楽や一時の興奮に我を忘れる自由を満喫できる。

ところが、石原さんにはその自由がない。彼は群衆の中に埋没することができず、常に人ごみの中で、一人その存在を際立ててしまう。」

しかし、その「初めて会う相手に自己紹介をする必要がなかったのではないだろうか」という部分は、福田氏の贔屓の引き倒しではないかという気がする。

「自己紹介する必要のない」人間は世の中にたくさんいるからだ。

私は、40年以上前に河本敏夫という自民党の派閥の長だった方にお会いした。そのとき、河本敏夫という氏名以外に、裏にも表にもなにも印刷されていない名刺をいただいた。へえ、と感心した。

だいいち、石原裕次郎が一番いい例ではないか。石原慎太郎は、都知事選挙にでると決心した直後の外国人記者クラブでの記者会見で「石原裕次郎の兄です」と冒頭に自己紹介した。もちろん目の前にいる人々は誰もが石原慎太郎だと知っている。それでも「石原裕次郎の兄です」と言わずにおれなかったのには、石原さんなりの複雑な心境があったのではないか。話を文壇に限れば石原さんはとんでもなく著名だったが、それ以外の世界で作家石原慎太郎がどのくらい高名だったかは対象の人と場合によるだろう。

現に石原さん自身が、

「昔、『男の海』(集英社、一九七三年)という本の中に、三宅島にヨットで石原裕次郎らと一緒に出かけたときの逸話を自嘲気味に書いている。

《東京の新聞社へ原稿校正の電話をかけに前の家にいって土間の縁先で一人坐って待っていた僕を見、見物の中の一人の小母さんが、それでも小生が何たるかを存じていてくれて、

「ああ、こっちに慎太郎がいるのに、みんな裕次郎ばかり見て、誰も見てやらないよ。可哀想に、悪いよお」といっている。苦笑いでは申し訳ないくらいだ。三宅島民の温い心に涙が出たよ、全く。》」(111頁)。

私がまだ書きつづけていることのついでに言えば、この『団塊の世代の物語』というのは、私なりの畢生の大作のつもりの小説だ。戦後日本の総括。個人がいて社会がある。生まれ、育ち、働き、年老い、やがて消え去る。占領軍による優生保護法の修正のせいで人工的にできあがった、1949年までの3年限りの戦後日本のベビーブーマー世代である団塊の世代。アメリカのベビーブーマーは1964年まで続いているのに、日本は3年きりで終わってしまった。アメリカが決めたことである。

なによりも、団塊の世代にとって日本は、明日は今日よりも良くなるに決まっている国だった。今は違う。団塊の世代は800万人が生まれて700万人が生きている。前後を容れれば1000万を超える人々が生きている。しかし、日本は変わってしまった。

「弁護士の仕事の緊張」も少しも変わらない。いや、そもそも志したわけでもない弁護士事務所という組織の経営者役が重みを増してくるだけ、緊張はより張りつめているのだろう。なにもかも天命だと思っている。私には神を信仰するということはなかった。しかし、人智の及ばない世界があるだろうとは実感している。人は生きているつもりでも、生かされているということになるのだろう。孫悟空に似ている。

ここまで書いてきて、『団塊の世代の物語』の構想は「昔を偲ぶ心境」なのだろうかと自問する。

鷗外は書いている。

「老は漸く身に迫って来る。

前途に希望の光が薄らぐと共に、自ら背後の影を顧みるは人の常情である。人は老いてレトロスペクチイフの境界に入る」(『なかじきり』)

60歳まで生きた人が55歳の時にかいた文章である。

それとは少し違うと思う。

現に、「夢のなか、若いまま、なのです」などと68歳のときに書いている。

最近では還暦ときくと、なんて若いんだ!とおもう。おもうが、ほんとうに私とそう違うような気もしない。

たしかに「もう直ぐ思い知らされる」のだろう。しかし、どんなことになったら「思い知る」のだろうか。不治の病に罹っていると医者に知らされたときだろうか。定期的に人間ドックに入り、必要があれば治療を受けることをなん回か繰りかえしてきた。これからも同じことだろう。それでも、来るべきものは必ず訪れるに違いない。

石原さんは、完治したと信じ切っていたすい臓がんだったはずが「あと3か月」と宣告を受けたと書いている。(『絶筆』所収、『死への道程』文藝春秋、2022 128頁)

医師に示された、「画面一面満天の星のように光り輝く映像をながめながら、

『これで先生この後どれほどの命ですかね』

質したら、

即座に、あっさりと、

『まあ後三カ月くらいでしょうかね』

宣告してくれたものだった。」

「満天の星のように光り輝く映像」という表現を自らの肉体のうちにあるものに与えたのが、いかにも石原さんの感性を示していてあまりある。そういえば、私にしきりに中河与一の『天の夕顔』を読め、と勧めてくれたものだった。

今回『死への道程』読み直してみて、「NTT病院に出向いて検査を受けた」とあるのに気づいた。

その病院には、つい先日私も行ってきたばかりである。

といっても、検査でもなければ手術というほどのことでもない。定期健診で見つかった大腸のポリープを取り去ってもらうべく、紹介を受けて大研医師に必要な作業をお願いしたのだ。私はふだん抗凝固剤を飲んでいるから、大腸の定期健診の際についでにポリープを取ってもらうというわけにいかないかったからの二度手間だった。

大圃医師については面白いやりとりを二人の方とした。

私が大腸のポリープを取りにNTT東日本病院に行ったと、元NTT社長である三浦さんに話していたら、隣に座っていたJR東日本の冨田さんが、「ああ、うちにいらした素晴らしい先生なんだけどNTTに行っちゃって、とても残念だった先生だよ」と言われた。

すぐあとに大圃先生にその経緯をお話ししたら、そうでしたねと覚えていらした。

医師の世界には医師の世界の、ビジネスとは異質の大きな世界があるのだと感じらせられた瞬間だった。当たり前といえば当たり前のことなのだが、私には清新な経験だった。

私は、『団塊の世代の物語』をレトロスペクチイフの小説にするつもりは毛頭ない。

私は常に前方を、すこし上向きに見つめ、着実に歩をすすめていく生活を送ってきた。明日は今日よりも良い日になることを疑ったことなど一度もない。

弁護士である私にとっては、それは「失われた30年」にもかかわらず、文字どおり真実だった。

だから、『団塊の世代の物語』を書くのである。

「団塊の世代の物語(2)」

大木が事務所で人に会うときには、事前に日時を約束する。例外はない。

いつのころからか、「先生、いますかあ」といいながらとつぜん事務所の玄関に見知った人がたずねてくる。時間があれば当たり前のように二人で話しこむ、といったことは起こらなくなってしまった。ああ、あの人が来たときが最後かな、という思いだす人物がいる。あの人はいつもそうやって訪ねてきては駄弁に時間をすごしたものだった。もう何十年も会っていない。

そうだった。ずっと昔にはそういうことがあったのだ。いまはまったくない。時勢ということなのだろう。

だいいち、今では、大木の事務所のあるビルに入るには、事前に事務所から出したデジタルの予約証明が必要になってしまった。それがなければ1階のエレベータホールに入ることもできない。

「先生、岩本さんという女性の方が『大木先生にお会いしたい』と下に見えていらっしゃるそうです。ビルの受付の方から連絡がありました」

ガラス越しに4メール離れたところにいる秘書が電話で教えてくれた。コロナ以来、秘書とも電話で話すことが多い。コロナの流行したときも大木は事務所への出勤を一日としてやめたことはなかった。それでも自分の部屋のドアを閉めているようにはしていたのだ。いまもその習慣のままになっているといったところか。

「え、岩本さんが?」

驚きはしなかった。事務所に会いにくる話にはなっていたのだ。彼女にしてみれば、貰った名刺の場所にいってみたら門前払いをくらったといったところか。広島に住んでいる74歳の女性にとって、知り合いを訪ねるのに予めデジタルで受付許可が必要だとは想像しにくいのかもしれない。もっとも、彼女は広島の中堅の不動産開発会社の専務さんなのだから、そうした設備についても知識があっても不思議ないのだが。そもそも大木が日本にいるとは限らないとは考えなかったのだろうか。

「すぐに大木が1階へお迎えに上がりますから、そこでそのままお待ちくださるようにってご案内くださるように、ビルの受付の女性に頼んでおいて」

秘書は、ハイといつものように事務的にしっかりとこたえた。

大木が自らビルの1階まで迎えに行くとなればビルの管理者にとってはすこしおおごとに見えるだろう、きっと大事な訪問者なのだろうとおもうにちがいない。それはそれでいい。まさにそのとおりなのだから。そう思いながら下りのエレベータに乗った。

エレベータを出たところで、入り口のほうを見ると、両肩にはおるように身につけている淡いピンクのロングコートに隠れてはいるが、ぜんたいにウェストがゆったりとしている岩本英子の姿がそこにあった。少し前、同窓会であったときの印象よりもふっくらとした感じだった。あのときはずいぶんと着やせするように工夫していたのか。今日は、ゆったりとした上下別々の服を身に着けているのがコートのしたからのぞいている。黄色のストールが手にしたバッグと同系だった。とても74歳の年齢の女性にはみえない。せいぜい60代の初めか。もっともどちらでも大木にとっては同じことなのだが。

とても健康だということが、そのしっかりとした、まるで天井からピアノ線で吊るされたようなしっかりとした立ち姿から一見してみてとれた。

コートのしたは濃紺のスーツだった。白のフリルのついたブラウス。すらりと伸びたパンツのしたに、ほとんど白に近い、ごく薄い色のベージュのミドルヒール。驚いた。ふっと62年まえを思い出す。あのときには水色のニットのカーディガンを着ていて、そのうえから大きくなり始めた二つの胸のかたちが見てとれたのだった。

ベルトのバックル、大きな四角形の金色が目についた。靴と同じ色をした革ベルトだった。そろいとしか思えない。レモンイエローの大型のバッグを右肩からさげていた。ブランドはない。あつらえたもののようだった。大木は自分用に仕事のためのカバンをオーダーすることがある。だから値段は想像がつく。50万はするだろうか。いや、もっとかもしれない。女性ものはわかりようがない。

「やあ、ビルの警戒ぶりにおどろいた?済まなかったね。でもビルの受付の女性は親切だったろう」

快活な声をなげかけた。

大木は、いそいでクレジットカードと同じ大きさのカードでいったんゲートの外側へでた。岩本英子のほうに急ぎあしで歩みよると、昔とすこしも変わらない微笑みをたたえて待っている。少しこわばっているところが、かえって昔の岩本英子をほうふつとさせた。

「さ、これを使って入って」

来客用の入館カードを手わたす。英子の手と大木の指先がほんのすこし触れ合った。その一瞬、

「外部のくせに」

耳に英子の声が小さく響いた気がした。

まさか。63年も前のことなのに。

しかし、あのときの英子の声、その調子は大木の大脳のどこかのなかに信号としてはっきりと刻みこまれていて、生き生きと残っている。英子の血管がうきだしてきている手の甲に大木の指先が触れたそのせつな、あの信号が瞬時に大脳のなかで再生されて、耳もとで響いたのだ。

「外部のくせに」

そう英子は、たしかに63年前に大木に向かって、ののしるようになじったことがあった。幟町小学校の木造だった時代の校舎にあった5年松組の教室での短いやりとり。なにがきっかけだったのかはもうおぼえていない。ただ、英子がそう11歳の大木少年に向かって吐き捨てるような鋭い叱責の声を投げつけたことは確かだ。ずっと記憶している。

投げつけられたときの驚きと憤り。そして、そのとおりだという大木の心の奥底での納得。未だ東京の小学校から転校してきてから何カ月も経っていなかった。大木の父親のための社宅が改装が終わっていないからと、近郊の府中町にあった広い庭のある旧式の屋敷に移り住んだ。立派な玄関のあるたたずまいは、東京時代の鉄筋3Kのせまいアパートからは別の世界のようだった。ただし、便所がくみとり式なのには、こどもながらなかなか慣れることができなかった。

大木は広島に来た当初から幟町小学校に転校した。いずれ幟町にある社宅の改装が終わり次第、そこに引き移れば幟町小学校の学区内ということになるという事情があった。府中町の邸宅からはバスで通学しなくてはならなかった。

大木の両親にとっては当然の措置だった。田舎の小学校などに転入させることなど考えることもできなかったはずだ。大木の中学進学という大きな課題があったからだ。

自分たちの次男坊は東大に入れずにはおかない。そのためには東大にたくさんの人数が合格している高校に入れなくては話にならない。そうした高校は広島には3つしかない。フゾクと呼ばれていた中高一貫の国立広島大学教育学部附属中学校がベスト。さらに二つ、私立の中高一貫校が二つ。広島学院と修道という名の名門があった。その三つのどれかに入るためには、都心にある幟町小学校にできるだけ早い段階で入れておく必要があったのだ。

大木のように、学区外から将来の一流中学進学のために幟町小学校に通っている少年はクラスになん人かいた。どの少年も「外部」と呼ばれていた。公立小学校の定められた区域の外側から通っている子どもたちのことだ。知り合いの家に仮の住所を定めて、幟町小学校に在学するのだ。寄留という言葉を大木は母親から聞いていた。

英子はそうした世の中の風潮を嫌っていたのだろう。なぜかは大木にはわからない。英子の自宅は小学校からほんの数分のところにある小さな靴屋だった。だから、英子のあの言葉には一定の普遍性があったのだと今の大木は考える。

昭和35年、1960年。高度成長の始まった直後の日本。三井炭鉱を巡っての総資本と総労働の対決といわれた三井鉱山の労働争議の時代。英子には、身近に、なにか「外部」からむりやりのように転入してきた東京からの同級生、その天真爛漫でひたむきな向上心の持ち主に対する反発だけでなく、地元、地域に住み慣れてきた地つきの少女としての抵抗感、拒否感があったのかもしれないと思うのだ。

それは、まさに同じ時期におきた岸信介首相をめぐる安保騒動とおなじ、しかし、ずっとミクロの規模での政治だったのではないかと思われる。世界の歴史のうえで、いつでもどこでもあった小さな小さな一挿話なのではないかという気がする。いまはコーポレートガバナンスを巡ってマルチステークホルダーという言葉に象徴される反株主中心主義が唱えられ始めている。しかし、現実にあるものは東京と地方の格差であり、富んでいるものと貧しいままに置き去りにされているものとの格差である。株主主権は確固として存在している。キャノンの巨大な上場会社のトップとして長い間君臨した者であっても、株主総会で再任票が過半数に満たなければクビになる。議決権という名のその票は海外の投資家が大半を保有しているのが現実なのだ。

そういえばもう一つ、このこととそっくりの、いやもっとするどい言葉の刃を英子は大木の心に突き立てたこともあった。英子は、なによりもそういう女性として東京からやってきた大木少年の目のまえに現れたのだ。

英子についてのこうした記憶が、のちに加藤周一の『桜よこちょう』という詩を初めて知ったとき、「ああ、いつも花の女王」という一句を目にしたとき、『羊の歌』のなかでその詩に出逢うや、大木に「ああ、自分にとっての『花の女王』というのは岩本英子のことだ。彼女以外に花の女王はいない」となんのためらいもなく得心した。

あの言葉を発したときの英子には、大木にかぎらずクラスの男の子たちのだれもを「臣下」として睥睨しないではおかない「花の女王」の威厳が、少女にしては大人びた切れ長の目にあった。あの、『忘れえぬ女』という題の、46歳のイワン・クラムスコイというロシアの画家の描いた女性の目と同じ目だった。

心にそんなさざ波がたったことをおくびにも出さず、大木はビルの模様がデザインされて印刷されているカードを手わたし、先ずそれをゲートの接触面にのせて英子のためにドアが開くようにしてやった。すると緑色だった光が一瞬赤に変わり、すぐに緑にもどる。英子はあたりまえのように右手の指さきでゲートの右側にある台のうえにおかれたカードをつまみ上げた。大木は、こんどは自分の白いカードをゲートのうえに置く。大木のカードはなんども装置にこすりつけているから、とっくに印刷がきえてしまっていて真っ白になってしまっていた。

彼女とならんでエレベータの前にたつ。エレベータのドアがホールの両側に7個ならんでいる。どれも同じく1階から15階まで用のエレベータなのだ。

エレベータのボタンを押すとエレベータの上に小さな灯りがついて音がする。そのエレベータボックスの前に立つとすぐにドアが開く。先に岩本英子を入れ、大木が12という数字のボタンにふれるとスムーズに動き始めた。

エレベータのドアを出ると、左に左右観音開きの全面ガラスに黒い鉄枠がはめられたドアが待っている。左手で左側の扉の長い握りを押して開けようすると、一瞬、ガラスの角度でなかの照明が十字架の形になって全面ガラスのドアに映る。それを英子に、見てごらんとでもいうように指ししめした。英子が視線を移すと、すぐに映像は消えてしまった。

だだっ広い玄関スペース。50畳はある。小さな法律事務所だったら全体がすっぽりと入ってしまう大きさだ。床には真珠色のイタリア産大理石ペルリーノホワイトが貼られている。右奥に目をやると、大きな円形のカーブの脚とひじ掛けでひと目でそれとわかるバルセロナ・チェアが三脚並んでいる。大木の注文で濃い緑色の革が張られたものだ。この事務所の内装をした2008年には大木もそんなことにこだわっていたのだ。リーマンショックの直前に完成したエントランスだった。

法律事務所はエントランスが大事だということは、大木は弁護士になって所属したアンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所のエントランスで学習済みだった。大木自身、以前共同して事務所を経営するようになったときにあらためてその価値を思い知った。弁護士は中身も大切だが、外見も大事なのだ。なによりも、訪ねてくる依頼者が「ここの弁護士たちは自分の仲間だ」と了解するような雰囲気が必要なのだ。

こうしてイタリア産大理石は小学生のとき修学旅行で秋吉台に行ったことを思いださせる。あのときに買った黒と白の流れるような模様をした大理石の文鎮は、現地で土産に買っていらい63年間、大木の手元にある。3センチと4センチの四角い棒で12、3センチの長さだ。中央部の一端が欠けてはいても、そのまま使い続けている。いつ欠けたのだったか、もうわからないほど昔のことだ。そのまま毎日のように使っている。

あの秋吉台には岩本英子もいたのだ。そう思い返すだけで、修学旅行中に英子と話した記憶はない。だが、確かに英子はあの場所にいた。大木は英子が同じ場所にいること、おなじ旅館に泊まっていることを間違いなく意識していた。あそこにいる、あちらに歩いていくと姿が目にはいるたびに気にかかっていたはずだ。

大木の机の上には、もう一つ古いものがある。大木の父親が大木らと東京に住んでいた昭和30年からの4年の間に趣味の彫刻で織り上げた水仙の模様のある木のペン皿だ。父親がつくってから64年以上になる。大木は10歳になっていなかった。東京を離れて広島に引っ越したのが10歳のときのことだから、年月が特定できるのだ。

英子をさきにしてエントランスのドアを入る。すぐ左には一年じゅう生花が絶えない。2月になれば最初のさくら、啓翁桜が大きな花瓶から広がって、他の花を圧する。

「まあ、さくらね。早いのね」

「うん、こうやって毎年、ここで次々と5種類の桜が替わっていくのを眺めるんだよ。でも、次は桃らしい」

「ふーん、生花をかざるの。すごいのね。お華の先生の名前を書いたプレートもある」

「べつにすごくはないけど、その先生にもう長い間おねがいしていてね。でも、生花、生きている花はいいですねとお客さんも言ってくださるんだ。百合の香りが楽しみですって言ってくださるかたもいる。僕も愉しみ。事務所にいながらにして全国津々浦々を花見旅行ができてしまうって仕かけだからね。もっとも僕のオフィスは14階にあるから、毎日見るわけじゃないんだ」

生花の向こうには、漆で飾った小さな床の間のような空間がある。デザイナーのこだわりだった。1987年に大木が青山ツインに新しく大木法律事務所を開設したときいらい、ずっと頼んできたデザイナーの作品だった。すぐれた感覚の持ち主で、一度、誘われて岐阜県の大野町まで事務所の玄関に貼る石の素材をみにいったことがある。

あのころはよほど暇だったのだろう。それ以上に、自分の事務所が形をもって厳然と存在することになるのが嬉しかったのかもしれない。できあがった玄関の内装は、大木が直前まで勤務していた事務所と同じ、黒の御影石に磨かれた真鍮のアルファベットの金文字での事務所名だった。あのころにはそういう呪縛があったのだろう。

まっすぐに進むと、岩本英子はいやでも正面の事務所名の看板をみることになる。そして、頭の高さをこえたところにある看板の下に立つ。大木総合法律事務所とあってそのしたに英文でOhki & Partners とあって、さらにその下にAttorneys-at-lawと続いている。

大木は、1階でエレベータボックスにあとから入ってドアの方に向きなおるときに英子の胸もとでネックレスが揺れたのにきづいた。二重になった長い金のネックレスだ。つながったそれぞれが独特の花の形をしているから、ヴァンクリーフだと大木でもわかる。石はサファイアのようだった。みるともなく目を指におとすと、右手の人差し指におなじヴァンクリーフのサファイアがこんどは指輪になって控えめに光っている。ミャンマーからはるばる永田町まで連れられてやってきたということになるわけだった。

それにしても、なぜサファイアなのか。

9月が誕生月の大木は、偶然にしても好ましいことだな、と感じた。大木の日常に宝石はまったく関係しない。しかし、自分の誕生石がサファイアであることくらいは子どものころから知っている。気にしたことは74年間の人生で一度もない。もちろん、きょう岩本英子がサファイアを身につけていることがそんなこととなにの関係もないということくらいはしれたことだった。

両方の耳たぶでも小さなサファイアが控えめに輝いていた。

ヴァンクリーフのネックレス、指輪、イアリング、そしてあつらえの黄色のバッグ。どれも、彼女がとても裕福な暮らしをしていることを示してあまりある。

そういえば、広島興産という名前の会社に長い間勤めていて、ついさいきん社長が死んだと言っていた。英子は、その広島では中堅の不動産会社の専務をしていたということだった。

顔のしわがほとんどめだたない。整形しているのかな、と思う。でもすこし頬の肉がたるんでいる。それに首筋の皺は隠せないものだ。ちゃんとある。安心に似た気持ちが走る。奇妙な感慨だった。

首相官邸が下に見える会議室に案内した。窓ガラスの一部はつや消しになっていて、官邸が直接のぞけないようになっている。

3月11日の地震の日、インドからやってきた弁護士さんと話をしていたときもこの会議室にいた。お茶を秘書が運んできたとき、あのときにはまるで舟に乗って波に揺られているようにゆっくりと、長いあいだ、揺れた。秘書の女性はテーブルにつかまっていた。

ルーティンのように議員会館、首相官邸、首相公邸と、官邸と公邸の違いをおりまぜながらひとわたり説明する。左側にはキャピトル東急ホテルが見えている。相手の年齢によって、それが以前には東京ヒルトンと呼ばれていてビートルズが来日したときに泊ったホテルだと付けくわえる。

誰がきても一回目には同じことが繰り返される。

「ええ、ビートルズのホテル、知ってる。ハッピを着てJALのタラップを降りていたの、覚えてる。私たち17歳、セブンティーンだったよね」

黄色のハンドバッグを真っ黒の革の椅子の座面におくと、手に下げていた紙袋を差し出した。千疋屋の袋と熨斗の付された箱だった。大木には中身が想像できる。自分で贈りものにすることがよくあるのだ。季節を選べば、果物ほどの贈答品はない。今の季節はイチゴが一番に決まっている。

腰をおって挨拶を交わすと、となりの椅子に腰かけながら岩本英子は大木と会っていることが愉しくてたまらないとでもいうように顔の筋肉を緩めた。

<だれかに似ている>

そう感じた。

すぐに、「ああ、石原さんだ。あの、石原慎太郎さんの人を引き込まないではない、独特の微笑みだ。」と悟った。

英子はその微笑をたたえて、大木の前に座っていた。

「きょう、僕がいてよかった。もしいなかったらどうするつもりだったの?」

大木がたずねると、英子は微笑をくずすことなく、

「また来ればいいでしょう」

すましていた。

トップ写真:東京都知事選で2期目の当選を果たした石原慎太郎氏(2003年4月13日 東京・新宿区)出典:Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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